第4話 詩人の生涯

「肺に水仙が咲いたんだ」

 囁くような声音で、彼は云った。わたしはうなずいた。

「真珠をのんだ。薬になるといって。幾つものんだ。薬草とはちみつと一緒にのんだ。羊の血と一緒にのんだ。ころころと、僕のすっかり青白くなってしまった掌で、しろい真珠が、ころころ転がった」

 城のなかにいたんだ、と、粗末な藁の寝床に横たわった青年はひとりつぶやいて、手をもちあげた。云ったとおり、青白い掌だった。蔦のようなあおい静脈がうっすらと透けていた。

「誰かがもってきてくれた。真珠は尽きなかった。僕はもうのみたくなかった。でものんだ。胸の奥をちいさな粒がとおっていくんだ。……」

 靄のけぶるような瞳が、ゆっくりとまたたいた。虚空を見つめているようなまなざしに、私はペンをひと時置いた。まるでそこに真珠のしこりがあるかのように、青年の手が、細い咽喉から胸までを、緩慢になぞった。色のない唇がすこし開き、間をおいてから、また、呼気に紛れてしまいそうな声が発せられた。

「そうこうしている間に、咽喉からつぼみが飛び出した。春の朝だった。細くてながい葉と、堅いつぼみが、僕の血と一緒に胸からあふれだした」

 わたしは淡々と文字を連ねていく。彼の言葉にグロテスクな印象はなく、それは端正でうつくしい自然という雰囲気だった。

「血は透明だった。薄いみどりで、伸びてきた葉とうす黄色いつぼみが咲くまでの少しの間に、僕の咽喉の奥からあふれだしてきて、白い服をぬらした。……ちょっと見た風、そんなによごれてるようには見えなかった」

 けれども、部屋中が血の匂いでいっぱいだったに違いない。暗く、石造りの、丘の上の、城の塔。

 その青白い指先が、水仙の花をかたちどるように開いて閉じた。ふ、と息をもらし、青年はつづける。

「それでから金色の花が咲いた。まわりの花びらは銀で、真ん中のしべが金なんだ。銀はまっしろに見えるくらい磨いたようで、金は太陽のようにきらめいていた。僕はそれを見て死んだ」

 頷き、わたしはまた、ペンを紙に走らせた。

 鈍い先端がざらついた紙の表面に擦れる音を聞きながらか、青年は細い体を仰向けに横たえ、薄くひらいた瞳でただ、中空のどこかを見ている。あるいは何も見ていない。

 暗い中で、壁際の蝋燭のあかりと、開いた窓からすこし差し込む冴え冴えとした月のひかりが、わたしの手元と、青年の、まだ若い少年のような顔をてらしていた。



「僕は年老いた吸血鬼だった」

 また唐突に、青年の弱弱しい声が響いた。ペン先を少ないインクにひたし、芥子粒のような字で綴り始めた。紙が少ないため、少しでも節約しなければならない。目を瞑ってもらえる数は多くない。

「白髪を金と紫のリボンで結び、カフスボタンには大きなダイヤモンドが光っていた。……数百歳かの誕生日だった。ひとりで屋敷の客間のテーブルについていた。暗い夜だった」

 皓皓と月が輝く、窓に切り取られた青い夜の下で、青年はその一瞬、奇妙に老成した瞳をほそめた。ほんとうの、数百年もの時を生きてきたようだった。

 また、眇めた瞳に靄がかかった。まつげの先が震え、まるでその靄になにかが浮かび上がって見えるように、まばたきを繰り返した。

「開け放しておいて、鈍色の雨粒と鉛の風が吹き込む窓から、奇妙な客がきた。ガラス玉のような瞳をした、翼のある客だった。僕は云った。ひどく嗄れた声だった。……”こんな夜更けに客かい。” 客人は応えなかった。僕はまた云った。”客ならテーブルへどうぞ。” 蜘蛛の巣のようなレースのついたテーブルクロスを布いた黒檀の卓の中央には、金の皿に盛られた葡萄があった。うすい翠のと、あざやかな紫のと。露にぬれてきらきら宝石のように光っていた。奇妙な客はなにも云わずにテーブルへ移動して、それを一粒のみこんだ。”おいしいかい?” 僕は訊いた。勿論答はなかった。でも僕は満足だった。重たい体を古いびろうどの椅子にあずけて、低く伝えた。”君が来てくれてよかった。” ほんとうを云うと、その葡萄は、ほかの人のところに供えられていたものだった。でもあんまり綺麗なものだったから、失敬してきたんだ。そのまま腐るにまかせようと思っていた。……」

 眼が閉じられ、陶然とした、感嘆のため息がもれた。 

「……美しかった。

 細くしなやかな首に、ぴかぴか光る葡萄より綺麗な瞳。真っ白な羽根が、かすかな蝋燭のあかりに、ミルクを流したように官能的に波打った。

 紅のまじった黒の嘴のさきに、動物の目玉のような葡萄の粒をつまんで、天を仰いだ」

 まさにこの世のかがやき!

 囁く声音に変わりはないのに、その賛辞がひどく大きく響いたように思えて、ペン先が止まった。その声に胸を貫かれた気がした。

「どうしてだか、老いた吸血鬼の僕は、そのとき死ぬだろうと思った。最後に美しいものが見られて満ち足りた気持ちだった。美しい白鷺は、卓の上にいた。僕は椅子に凭れかかって目を閉じて、それから」

 言葉はそこで切れた。

 そのあとは聴かなくても解る。文を結び、そして、黙した青年の顔を覗き込んだ。その顔はますます白く、蒼く、呼吸は浅く、速かった。ペンを置き、濡らした布で額の汗を拭った。冷たく清潔な水も、ろくな布もなく、ほつれて砂の色にそまっていたが、少し呼吸がゆるやかになった。

 これで三日目の夜になる。彼がここへ運びこまれてから。邂逅をよろこぶ間もなかった。互いに自己紹介する時間もなかった。急いたように、最初の夜、一晩中、彼は震える声でひとを呼んだ。饐えた耐え難い臭いと、死の気配の満ちる、奥の部屋で、呻きと母を呼ぶ声にまざって、詩人のうつろな、澄んだ声がしていた。飛行機の音が近づき、遠ざかっても、ただ必死に、呼んでいた。誰か、字の書けるものを、と。




「修道院にいた」

 書き出そうとしたペンが一瞬止まった。今わたしたちがいるのは、野戦病院として使われている修道院であり、青年が唐突に現実へ戻ってきたかのような錯覚を受けた。しかし彼は夢うつつの目をしたまま、全身を絶え間なく襲っているであろう苦痛もどこか絵空事のように、とろけた瞳で、海辺に建つこことは違う、どこかの話をはじめた。

「それは丘にあった。灰色に閉ざされた湿原にかこまれた丘は青くて、ときどきのぞく岩肌だけが沼と同じ昏い色をしていた。……北の土地だった。森が針のように黒くとがって、色のない世界だった。

 ……昔、城塞として使われていたそこはいつも迷路のようで、僕は、胸に羊皮紙の束を抱えて、不安なままその中をさまよっていた。

 窓は縦に長くて、広くて静かな廊下の奥には暗がりがたっていた。ぽつんぽつんと並んだ窓から白っぽい空が見えた。ずっと石造りの回廊をいくと、階段があった。建物の端の尖塔だと思った。そこを昇っていった。同じはやさで段を昇っていくと、同じタイミングで窓があらわれた。廊下や寝室の窓には鉄の格子がはまっているけれど、そこには何もなかった。ぽっかりと積まれた石が抜けてしまったみたいにないんだ。

 尖塔はずっとたかくて、何階もある。数えることもできなくて、ずっとそれを上がっていったら、………窓の外が嵐になっていた」

 腕が、その窓をかたどるように、四角く動かされたようだった。三本に減っている指が曲げられ、虚空の一点を指さした。

「湿原は海のように荒々しくうねり、濃い灰色の波がすべてを飲み込んでしまうようだった。灌木や葦の緑と茶色はどこにも見当たらず、気づけば残るは、岬のように岩山から突きだした岩場に建つ、この尖塔だけだった。めぐる螺旋の奥底から、水音が遠く近く聞こえてきた。ふと気づくと壁の隙間からも泥水が滲み出してきて、音を立てながら階段を流れ落ちていった。腕に抱えた、中世の詩を写した羊皮紙がみるみる萎びた。それだけは守ろうと強く胸に抱いたけれど、インクが滲んで溶け落ちて、修道衣の袖にくろぐろと染みた」

 身に染みる石壁の冷気に、包帯を巻かれていない、傷痕のある鎖骨が震えたようだった。脱がされ、横に無造作に畳まれて置かれていた彼の服を広げ、せめてもと、胸郭の目立つようになった胸元にかけた。

国から真新しいものを渡されたはずのそれは、土色に染まったみすぼらしいぼろきれだった。

「僕は嫌だった――それが失われるのが、嫌だった。……けれども水は止まらない。止まらないんだ。文字は失われていく――跡形もなく」

 ざわり、と空気が密度をまして蠢いた気がした。彼の悲痛な声音もさることながら、ふと、わたしたちの最も恐れる飛行機のプロペラ音が、耳の奥を振るわせたように思えた。それは他も同じらしく、その不穏な音に重ねて、青年の、切羽詰まった声がわたしに追い縋る。

「僕は絶望した。けして戻らない、じぶんの魂が失われるんだ。二度と取り戻せない。魂の欠けた僕の肉体はバランスを失った」

 吹き荒ぶ雨風に身を晒す姿が目に浮かんだ――そしてその嵐の中に消える、詩を刻み付けられた羊皮紙。荒れ狂う波に浮かぶ花のように、あっという間にそれは飛び去り、見えなくなる。身を打つ雨の音。

 大きな鳥が舞い落ちるように、ぱさりと、彼の腕が床に落ちた。

「僕は嵐の中に身を投げた」

 投げられたその言葉に、わたしは目を伏せた。

「僕は、僕の魂の抜殻と、黒い海に飲み込まれて、」

それきり。

 やや乱雑な言葉の並べ方だった。

 いつの間にか飛来音は去っていた。気のせいだったのかもしれない。どこか安堵したような空気が、暗がりにも漂っていた。

 彼は黙っている。今日の話はいささか激しい語られ方だった。魂を失っての死、それが彼に、どれほどの絶望を与えるというのだろう。

 わたしたちにとっての絶望とは、この状況そのものである。




 啜り泣く声が、部屋の端から聞こえていた。祈りの声も聞こえてきた。年若い修道女の声のようだった。今は質素な服に身を包み、助かる見込みのない若者に祈りを捧げるばかりの、無力な少女の声だった。

 ぼろきれ同然のシーツの上で、わずかに青年が咽喉を逸らした。気管を息がからまわっていく、嫌な呼吸音がした。死の喘ぎだった。

「花を抱えながら、歌っている」

 やがて、長い時間のあとに、また物語がはじまった。羊皮紙はあとひとつの詩が書けるほどのあまりがある。わたしはペンをとった。

「薄っすらとそこまでの記憶はあるんだ。……せせらぎの音がした。母親の胎内にいるときの、血の流れる音だ。森には血がかよっていた。白樺の立つ隙間を抜けて、音のするほうへ歩いていった。真っ直ぐな林の向こうに野呂鹿が一頭たっていた。イラクサの茂みに駒鳥の卵がひとつ落ちていた。……」

 それは麗しい情景だった。幼い頃、故郷の村で逍遥したような、そんな風景。今、こうして死の淵にある彼も、同じように、かつては森を歩いていたのだろうか。

「水際には花がいっぱいさいていた」

 ぽつんと呟いてから、そのまぼろしの花を追うように、彼は腕をあげた。かすかに震える指先が、やわな莟を摘むように曲げられた。

「野ばら、さんざし、凌霄花、百合、えにしだ、ひなげし、…ばら色の芽と、若葉! 岸べに……野葡萄の腕がいちめんにはびこって、湿った土を抱きしめていて、」

 咳で、うつくしい岸辺の光景が中断された。息を深く吸う暇もなく、何かが引っ掛かったように、呼気ごと吐き出してしまう。酸素不足で、唇が不吉な紫に染まる。

「……そうして、気づくと、僕は、花満ちる川面で、歌っていた」

 乱れ咲く花々が脳裏に点滅する。騒ぐ胸に、彼を引きずり込む水面の冷たささえ、思い描くことができる。そうだ、わたしはその歌を。

 喘鳴に交じり、青年は云う。「花で棺を編むんだ。踝をしろつめくさの花鎖でつなぎ、水葬される。冷たい流れはたむけの花ごと死者を飲み込み、そして、その、水底へ!」

 仰け反った体が痙攣し、血を吐いた。わたしはその掌をつよく握った。指の三本しかない右手を、つよく握った。

 やがて青年の震えはおさまり、乱れた息が、少しずつ元の速度を取り戻していった。痛ましく上下する胸の動きが緩やかになったところで、ほんの少し、彼の三本の指先が、わたしの手を握り返した。

「僕は花で編まれた棺のかたちの小舟にゆられて、川面をくだっていく。胸元に、花のかんむりが置かれている。……僕は死んでいる」

 あえかな微笑みすら浮かべ、花に埋もれて葬られる姿が、瞼のうらに滲む。それは鮮烈で、わたしの記憶そのもののようだった。

 もう半ば以上、死に囚われかけているような、甘やかな闇が、彼の瞳に落ちていた。その肌は、神話のレテの川の青い水に沈みゆくように、白く冷え切っていた。色を失った唇が動き、体の奥の空洞から、ひどく虚ろで、そして澄んだ声が、こぼれた。

「花の小舟はだんだん水を吸って結んだ茎がほどけて、絡んだ蔦がとろけだした。僕の体は水面に没し、花鎖も花冠も引きずり込まれ、跡形も。今しも体が水中へ消える。

 僕は歌っていた。死して歌っていた」

 それきり、しじまが降りた。

 わたしは書きかけでペンを持ち直すこともしないまま、彼の手を握っていた。

 ……歌が、聴こえた。

 傷病者の、死の気配が充満した身じろぎの無数の呻き、それに重ねて、暗闇に、かすかに、彼の声が聴こえた。

 とぎれとぎれの、いとけない声だった。ほんのすこし、子守り歌に似た旋律だった。

 けれども、それは、確かにその歌だった。




 ふと、歌が途切れて、それから程なくして、続きを書こうとして、インクが切れていることにわたしは気づいた。代わりの壜を取りに行こうと、彼につぎの話をするのを待ってくれるよう頼むため顔をあげた。

 彼は死んでいた。

 野戦病院の藁のベッドに横たわり、血と膿の滲んだ包帯を、砲撃で失った脚と肩に巻いて、ぼろぼろに引き千切られた綿のような体を、粗末な干し草の上に横たえて。

 混ざりもののある蝋のように、灰がかって白く塗り固められたような表情はひどくつくりものめいてあどけない無表情であり、そこに安らぎを見てとることはある種容易であり、困難だった。解放とみるべきか、ついにとらわれたと見るべきか。そのどちらでもない、彼は飛び去ったのだ、次の生へ。

 周りがにわかに騒がしくなった。敵襲、という声が飛ぶ。それを無視し、枕元に置いた、彼の詩集に手をのばせば、彼の言葉を書き連ねた紙はずしりと手に重たく束になっていた。一枚に少しずつ、九十九を数える、彼と彼の詩の死を、わたしが三晩、綴っていった。

 結局、彼は、今生の死を語ることはなかった。戦前彼がどのように生き、彼がどのように傷つけられ、彼がどのように傷つけたのか、従軍看護婦のわたしには知るすべはない。ただ、帝国の鉤十字の侵攻を受けた村の廃墟と、ぬかるむ黒い森、腕に抱えた人殺しの武器は、詩人には確かに要らないものだ。

 わたしは知っている。はるかな昔から、わたしは水仙で、白鷺で、羊皮紙で、歌だった。わたしは常に彼と共にいた。共に死した。

 また逢おう、と、彼は云った。口にはしなかったけれど、わたしたちにはそれが解っていた。わたしたちは何度でも死に、何度でも生まれ直す。そしてまた共に死ぬのだ。けして変わらないのは彼が詩人であること、わたしが彼を愛していることだ。

 飛行機の音が近づいてくる。

 爆音が耳を聾した。周囲の騒ぎが遠ざかる。死した青年の枕元に座りこんだままのわたしの目の前を、たくさんの看護婦の脚がとおっていく。

 忌まわしき栄光の鉤十字よ、それを胸に掲げた若者よ、そう生き急ぐものではない。夜を埋め尽くすほどの爆撃機の群れが無骨な羽音をたて、つぎつぎと飛来してくる。

 やっと、ひととして生まれたのに、と、すこしだけ思った。世界大戦のさなか、兵士と看護婦と生まれただけで、やはり共有できるのは死しかない。彼は詩人であり、わたしはその伴侶である。けれども死がふたりを別つときにしか、わたしたちは出逢えない。

 また逢おう、そしてまた、ともに死のう。

 彼の声が聴こえた気がした。

 また石壁を揺らす轟音がなりわたり、窓の外が昼間のように明るくなった。

 窓の外を、燃えながら、種子のかたちをした爆弾が落ちていく。夕暮れに似た火柱が立ち、太陽の残酷な子どもたちがあちこちに閃く。聖書の享楽と堕落の街のようだった。

 いよいよ死の羽音が近くなる。わたしと、彼の抜殻の上に、破滅の種子が降りそそぐ。私は彼の手を握り、目を閉じた。

 閃光に身がつつまれた瞬間、ふと、口をついて出たあの歌に、次はふたりとも生まれたい、と、思った。



                   Fin.

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