第3話 木犀

 雨が朝からひどくて、しかも寒かった。窓の外の銀木犀は、花盛りだというのに靄のように立ち込める霧雨のせいで見えなかった。ぼうっとした。息苦しさで目ざめたのだ、頭がはたらかないのも当然だと思った。咳がとまらず、仰向けでいられないから横を向いて、小さな赤ちゃんのように丸まって、何度か咳き込んだ。咽の奥からへんな音がして、風が吹き抜けるような感触があって、ああまたか、と思った。気管の内側がなにかざらついたもので腫れふさがっているようだった。

 嫌な日だ、と思った。

 学校に行く気にはなれなかった。早朝に壁をたたいて起こした母には悪いと思った。吸入器を急いた風に吸い込み、布団の上で荒い呼吸を繰り返す息子の様子を一目みて、母は高校に連絡を入れた。喘鳴のひどさに病院へ行くかと訊かれたが、首を振った。寝ている、と返すと、母は心配そうに、枕元に携帯を置いて、何かあったら電話しなさいと言い置いて仕事へ出かけた。

 窓の外を、無数の水滴が伝っていく。秋驟雨、というには、長く降り続いていた。朝からずっと降っていたようで、ふと部屋の隅の時計をみると、午後二時すぎだった。頭が重い。呼吸はだいぶ楽になっていた。

 半年ぶりくらいの大きな発作だった。春先に体育の授業で倒れて以来だが、元々寒くなると発作が起きやすい性質だったので、また憂鬱な季節がきたと落胆した。大抵、朝方のこういった大きな症状を皮切りに、しばらく吸入器が手放せない時期が続くのだ。ここ数年はおさまっていただけに、高校三年生のこの時期にどうして、という気持ちはある。身を起こし、薄暗い部屋を見渡した。

 家は静かだった。もしかして、この部屋の扉のむこうには何もないのでは、と思わせるほど。勿論そんなことはなく、窓の外ではいまだに雨が降り続いている。

時計の針と、窓を伝う雨滴以外、何も起こらない部屋で、僕は黙って座っていた。電燈をつける気にはならなかった。空気が停滞していたので、窓を開けたい、と思った。

 こうして病身ひとり、布団にいると、なんだか自分はもうこれきりのような気がしてくる。先も外もないような。ずっと昔から自分はこうしていて、これから先――しかも、そう長くない間――も、最後までこの病の床に伏していなければならないような。明日になれば何事もなかったかのように登校し、受験勉強に勤しむ日々が待っているのだけれども、むしろ、そういったことが遠く感じられた。

 見上げた部屋の四隅が暗い。乾いた咳をする。尾崎放哉の句が浮かんだ。せきをしてもひとり、という句は、病の床での孤独を嘆いたものだと、現代文の授業できいた。もう一度、肺の奥から咳を吐き出す。

 本当に、尾崎は寂しかったのだろうか、と思う。

 身じろぎをすれば、衣擦れの音が鳴る。それも、息をひそめている風で、薄暗い昼間に家の中にいると、そういう風に聞こえるのだ。家中が音をさせないように息をひそめているような、そんな錯覚。

 ああ、僕はひとりなのだ、と思った。


 どのくらい経ったろうか。玄関の呼び鈴が鳴った。遠いそれに大音声で返事をかえすこともできず、しかし無視をするのもよくないだろうか、と思案するが、それきり鳴らない。宅配便だったら、雨の中すまないことをしたな、と思っていると、もう一度、鳴った。仕方なく重い体を起こし、部屋を出る。廊下は静まり返っていた。磨かれた床に足をつけると、ひんやりとした。視線を上げると、天井の梁が目に入る。やはり家じゅうの隅に暗がりがたまっていた。

 やっと玄関までたどり着くと、擦りガラスの引き戸の向こうに人影が見え、帰ってなくてよかったと思いつつ鍵を回してからからと引き戸を開けると、意外な人が立っていた。

「元気?」

 って、学校休んでんのにそんなわけないか、と目を細めて笑った人物に、僕は「すみません、わざわざ」と頭を下げた。彼はいやいや、と首を振り、

「家、近所だし。あと梨食う?」

 手に下げた西武デパートの紙袋を示しながら言った。「うちの庭のやつだけど」

「ありがとうございます」僕はそれを受取ろうとしながら、尋ねた。「浅野さん、今日高校来られてたんですか」

「うん。久々に図書室行ったら今日休みって言われたもんだから。季節があれだし、ああ喘息かなーって」

 一歳年上の彼は、僕が袋を受取ろうと出した手をぽんと叩いて「病人に持たせるわけないでしょうが」と悪戯っぽく笑う。

「部屋行こうか」

 

 咳をしてもひとりではなくなった。浅野さんは布団の脇にあぐらをかき、薄暗い部屋を見回している。確か隣県の大学に行ったはずだが、休講なのだろうか。家は近所だったが、実家を出て下宿していても、気ままに母校を訪ねてきては、同じ部活だった僕にふらりと構って帰っていく。常に浮かべているアルカイックスマイルと糸目もあり、若干とらえどころのない先輩である。

「気、滅入るなあ」

 浅野さんは間延びした声でそういうと、「包丁、貸してもらってもいい」と腰を上げた。語尾を上げない浅野さんの問いかけに頷く間もなく、彼は部屋を出ていく。勝手知ったる、というのはこういうことだろう。すぐに、銀のボウルと包丁、そして白い器を持って部屋へ戻ってきた。ついでに布巾も。浅野さんは畳にあぐらをかき、紙袋から丸々とした梨をひとつ取り出した。そこまで大きくはない浅野さんの掌におさまるほどの大きさだが、質量がありそうだった。

 しゃく、と、艶消しの加工をした金のような梨の果皮に、刃が沈み込んだ。しゅるしゅると、紙のリボンのように緑がかった鈍い金の帯が、ボウルの中に溜まっていく。僕は、時折咳をしながら、その光景を見ていた。

 器に、半月型に切り分けられた梨が盛られる。布巾で手と包丁を拭き「ホラ」とその器をこちらへ押しやられた。すみません、と謝ると「病人が気ィ遣うな」と普段の様子からするとだいぶまともで優しいことを言ってくれた。

 僕がそれでも梨に手を出さないのを見ると、浅野さんは息をついて、「こんな時期に、大変よなあ」と腕を組んだ。

「本当は、寝る間も惜しんで勉強しなくちゃならないんですけど」目覚めてからもぼうっとしていた自分に、多少自嘲的に薄く笑ってみせると、「勉強すりゃいいってもんでもないって」とひょいと片眉をあげられた。あまり勉強する様子も見せないまま第一志望に合格していったこの人がそういうのだから、そうなのかもしれないが、僕はあいにくそのような人間ではないようだった。「最近、やる気が出なくて」

「やる気?」浅野さんの声に、薄ら笑い―というか、口角を上げているだけだが―を貼り付けたまま「勉強しなくちゃいけない、ってことは解ってるんですけど。どうにも、ね」

 話しながら俯いたので、浅野さんの顔はわからない。ちらりと横目で、勉強机の方へよそ見した。窓脇の机の上には、問題集が無造作に積まれている。単語帳に貼られた付箋と、カバーのなくなった物理の問題集が目に入った。

 疲れているのかもしれない。

 夜、ペンを持っている時に、ふと窓の外を見て、銀木犀の縁が尖った葉が闇に沈んでいるのを眺めていると、どうにも気分が暗くなる。勉強を苦痛と感じる性質ではないと思っている。けれど、面白い、とも感じていなかった。

 だからか、こうして、倦んでしまう。ひどく気怠い。何もかもする気がおきなくてそうなのか、そうだから何もかもする気にならないのか。どちらでも良かった。喉奥につかえた塊は、咳をどれだけしても吐き出せそうになかった。

 なんで、

 こうなっちゃったんでしょうねえ、と呟いた声は、掠れていて、暗がりに溶けて消えた。

 時計の針ばかりが音を打つ、しじまが降りた。

 浅野さんはただ黙って座っている。僕はまたぞろ咳をして、手を付けられていない梨の器と、白い布団を見た。

 どうして言ってしまったのだろう、と、遅れて後悔がこみあげてきた。布団を握りしめる。

「外、どうかな」

 ふと、浅野さんが急に立ち上がって、窓の傍へ寄った。「あ、金木犀?」

 僕もつられて窓の方を見やる。「銀木犀です」掠れた喉で返すと「銀?」と振り返り、首を傾げた。もう一度窓に鼻をくっつけるように外を見て、「ああホントだ、色違うわ」と浅野さんは大きく頷いた。なるほどなあ、と独り言ち、「花が黄色いから金木犀で、花が白いから銀木犀なわけね」と僕の方を向いて笑った。それから、また外を見て、ひとこと呟いた。

「雨、止んだな」

 僕ははっとガラスの向こうを見た。霧雨の幕におおわれていた樹の影がはっきりと見え、窓の表面のしずくは丸い水滴に変わっていた。

 僕が茫然とそれを見ていると、浅野さんは振り返り、にやりと笑った。糸目がさらに細くなった。

「窓開けよか」

 僕が頷くと、彼はためらいなくサッシに手をかけた。窓を開けると、風が吹き込んできた。前髪が揺れた。

 雨上がりの空気というのは独特なもので、湿った土や雲の上の匂いも運んでくるようだ。永らく、意識したことなどなかった風が部屋中に満ち、肺の奥まで支配される。そこに混ざる、ひとすじ、淡く清い、花の香。

 窓の外の、銀木犀の香だった。

「空気、かわったなあ」

 ほとんど閉じているような目が、僕に笑いかける。僕はすがるように窓の外を見た。

 水滴がひとつぶのるような、小さな白い花が寄り集まって、楚々と咲いている枝から、縁のぎざぎざした、濃い緑の葉が、つやつやと茂っている。その合間から、ふと、金の針がみえた。雲間からさした日の光が、梢から降り注いでいるのだ、と気づいた。ただそれだけの光景から、目が離せなかった。浅野さんがこちらを見ているのはわかったけど、僕は、息をするのも忘れて、それを見ていた。

 とん、と、肩を叩かれた。ふっとそちらを向くと、「いくら、もうこれっきりって気になって、何もかもする気なくなってもな、」と、僕の傍らに腰をおろす。その瞼の奥の黒い瞳が、淡い光をたたえて、こちらを見ていた。

「きれいなもん見て、きれーって思えるんなら、大丈夫」

 あと、美味いもん食って美味いって思えればな、と、畳の上に置かれていた器を手に取り、僕の方へ差し出した。ついでに、自分もひときれとって、しゃくりと齧る。美味いよ、と、僕にも促す。

 器のなかのひときれを摘まむ。きらきらと白い。

 銀木犀の香の風を深く吸い込む。もう、咳はでなかった。

 僕は、真っ白い果肉に齧りついた。瑞々しくて、甘くて、銀木犀の香と、よく似た味がした。


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