第2話 プシケ

 何かを叩きわるような音がして、俺はまたか、と顔をしかめた。

 リビングから出て小走りに廊下の突き当たりの部屋へ向かう。ドアノブに手をかけると、また何かが割れる音がして、俺はノックをして扉を細く開けた。途端、足に水がかかる。絵筆を洗う水入れが倒れていた。俺はその水たまりをまたぎ、薄暗い画室に踏み込んだ。

 アトリエの中央に、人が蹲っていた。骨ばった背中を丸めて、膝を抱え込んでいる。その薄い肩が震えている。室内に散らばった画材のひとつのように身を小さくしているその背に、「ミツル」と声をかける。返答もなくしゃくり上げる肩に、ゆっくりと手を回す。刺激しないように脇にかがみ、棘のような背骨の山脈にそって撫でる。翼の名残のような肩胛骨に掌をおき、ぽんぽん、と軽くたたく。

「んー、はいはい、いいこいいこ」

 まるで赤ん坊にするようにゆるく抱きしめて頭をなでてやっていると、やっとミツルの引き攣れたような声がやんで、骨の浮き出る背の上下がおとなしくなった。Le bébé*, と心中呟く。俺の従弟は、こうも脆い。

「違う。違うんだ。ぼくのイデアール*はこんなのじゃない。ぼくのベアトリーチェ*、ぼくの、ぼくの」

 硬い発音だがだいぶ慣れてきたフランス語が、錯乱気味に震えながら紡がれる、俺は頷きながらぽんぽんと背中をたたいてやる。まるっきり子どもをあやしているようだ。神曲*か、とベアトリーチェという名前をきいて考える。ダンテはあまり読んでいない。おおかた理想の女という意味なのだろう、と検討をつけ、抱き締めた体をあやすように軽くゆすった。肩に頭を預けてすすり泣き始めた従弟越しに、アトリエの奥にみえる、描きかけのカンバスに目をやった。そこにはひとりの女が描かれている。胸から上、未完成のトルソー*。ミツルの描く「理想の女」のすがたを、真正面から見る。

 ベアトリーチェというより、ファム・ファタル*だ。理想の女は、十九世紀末の、男を破滅させる魔性の女。俺はカンバスの上の木炭で描かれた線の集合体を丹念に観察した。悪魔の娘のようだ。黒い髪を無数に垂らしたデッサン画は、確かに黒鳥オディール*を思わせた。まとう衣装も黒い羽根のように絡まっている。もしかしたら髪かもしれない。すべてが真っ黒な眼は、ミツルの祖国であるジャポンの女性を思わせる切れ長の形で、どこかしらローランサン*を彷彿とさせる塗り潰された瞳をしていた。倒卵形の輪郭の顎はほそく尖り、鼻筋はあくまでシンプル。薄い唇は色のないまま、微笑みをたたえていた。なるほど、これがミツルの理想の女らしい。いや、違うのか。お前は出来そこないか、と心中毒づく。

 画面から視線を外し、膝に顔を埋めているミツルの体を包み込むように腕を回す。抱きしめた腕の中で、小鳥が傷ついた羽根を震わせるように、ぬるい肌がさざめいた。体温が低い。

「お前が絵に恋しちゃだめだろ? 絵がお前に恋するようにしないと」

 有名なシュルレアリスム画家*の文言を引用し、腕の中の黒褐色の頭をなでる。指で櫛をとおすように髪を梳くと、小さな頭蓋骨が俯くように震えた。

「とりあえず休憩しよう。アトリエの空気も入れ換えて。ほら、キッチンにいって」

 俺に縋りついて啜り泣く従弟を立たせ、なだめすかして狭いアトリエから追い出す。カフェよりもハーブを配合した紅茶のほうがいいか、と思案しながら、天窓からひかりがさすアトリエを一度だけ振り返った。その中央に、変わらず佇むカンバスの女。

 俺は目を細めて、それに背を向けた。

 

 ハーブティーはミントのものしかなくて、鎮静効果があったかどうか覚えておらず多少ためらったが、とりあえず普通に淹れてそれをだした。茶菓子はあまりない、貰い物のガレットをソーサーの端に盛り、ダイニングで項垂れているミツルの前に置いた。

「根詰めすぎだろ。少し休めよ、従兄の俺を放って置きっぱなしなんて寂しいぜ?」

 軽口をたたいてみても反応がない。ため息をついて、自分の分のカップを手に、向かいに座った。とりあえず一口すすれば、熱い湯気に清涼感のある香りが混ざる。陶器のカップは既に取っ手まで熱をもっている。俺はソーサーにカップを戻し、肘をついた。俯いたままのミツルに、語り掛けるように少し前傾姿勢になる。

「ひとつの制作にこだわりすぎるなよ。数描くのも練習だ。最初から理想のもんなんて描けやしないんだ」

 できるだけ穏やかな声で言った。諭すように。しかし、

「お前に何が解るんだ!」

 鈍い音がして、カップが倒れた。ミツルが勢いよくテーブルを殴ったせいで零れた紅茶が、天板を濡らして床に滴り落ちる。一口も飲まれずにだめになった紅茶に俺は一瞥をくれ、息をついた。そのカップを薙ぎ払うように卓上を滅茶苦茶に荒らす。アトリエでもこういう風になるのか、と割れた胡椒の瓶を一瞥して思う。ヒステリックに喚くミツルは髪を振り乱し、机に拳を叩きつけた。

「一枚ごとに魂を削らないで絵が描けるものか! ぼくはぼくの中からあふれてくるものを描きださなければだめなんだ! ぼくの呼吸、ぼくの理想! それをおざなりに済ませて生きていけるものか! ぼくは描かなければだめなんだ! それを、それを周りのやつらは、」

 引き攣れた声を漏らし、テーブルに伏せる。不規則に背を上下させ、乱れた呼吸を繰り返した。

「違うんだ、違う……。評価のために描いてはいけないんだ……それは間違ってる。自然じゃない。それは欲望だ……」

 我が欲望モン・デジール、とこぼされた単語は震えている。いつまで経っても少年のような声は涙まじりで、やがてそれは嗚咽にとって代わられる。

 ミツルは椅子の上に膝を抱えて丸まってしまった。チェス・ドール*の中に体を四角く押し込めてしまうような、殻に閉じこもるひな鳥を思い起こさせる。羽根を毟られた雛。

 欲望は悪である、とミツルが呟いた。フランス語に慣れていない留学当初からよく言っていた言葉だから、今でもひどく形式的な文型であり、呟く声も虚ろだ。食前の祈りを唱えるように、そこに心はない。

 ただ、意志はある。

「生きることも欲望だろうよ」

 小さくちぢこまった肩に手をおいて言うと、ミツルは何も言わずに嗚咽をこぼした。


 数日の後、俺がアトリエに入ると、カンバスの上にはまた新しい姿の女がいた。今度は金髪らしい。塗られずに最低限の線で縁取られた髪は先日と同じく真っすぐで、東洋の血を匂わせる。身にまとうのは宗教画を思わせる白い布だが、その目はやはり黒く塗り潰され、唇には静かな微笑みをたたえていた。アラステアのマノン・レスコー*の翳がある。より破滅的だ、と俺は独りごちた。明るいだけの絵画は好まないが、引きずり込まれるような絵からは目をそむけたくなる。

 ミツルはその横で、力尽きたように床に倒れ込んで眠っていた。顔色は無地のカンバスより白く、青の絵の具をすこし垂らして混ぜた白の絵の具で下塗りをしたように均一な不健康さだ。目を離さずにいると、わずかに胸が上下している。生きているようだ、と思いながら、傍らに膝をついて、項の下と膝の裏に腕を差し入れた。気合を入れて、その骨ばった体を持ち上げる。飢えた少年じみた体であっても、やはり重量はそれなりだ。ただ、本来のミツルの年齢から考えれば、異様な軽さでもある。

 アトリエから連れ出し、居間のソファに横たえた。薄くて毛羽立った毛布を探し、かける。今は夏なのだが、ミツルの体は冷え切っていた。まくり上げていた袖口を戻してやる。丈が少し合わない。半分ほど隠れてしまう手を見ていると、やるせない気持ちになった。

 ミツルが渡欧してくるときに持ってきた灰色のトランクは画材しか詰まってはいなくて、衣類はみなこちらの古着屋であつらえた。描くこと以外に興味などないようだった。涯の東洋特有の墨色の瞳はカンバスの上をたどるときが最も輝くときであり、それ以外の日常生活では、どこか夢みるようにうつろなままだった。東洋人はなにを考えているのかよく解らないというが、こいつは本当に絵画のこと以外なにも考えてないのでは、と思わせる様子だった。

 このジャポネーゼの従弟は、俺と同じパリの芸術大学に入るためにこちらへ来たのだけれども。

 なにが悪かったんだろうなあと、子供のように痩せ細った肢体をソファに横たえているミツルを眺めながら、俺は考える。


 二時間ほどして起きたミツルに、俺はミントティーを淹れて渡した。絵については触れなかった。あの女が「理想」であるはずはないと思ったし、俺に絵について触れられることがミツルにとって良いことかもわからなかった。

 あの女で何枚目だろう、と思った。

 最初はデッサンだった。石膏像や写真、ときに名画の模写で、ミツルは様々な女を描いた。針金のように尖った鉛筆の線で。どんな女を描いても、その瞳は黒かった。寸分たがわない輪郭をしていても、その瞼のなかは深淵だった。ミツルは、教授や学友に、拙いフランス語で評価を頼んだ。技術的な面、表現的な面では、俺も含め、多くの人が多様な評価を示した。――ただ、その深遠を覗き込むような瞳だけは、殆んどが気味が悪いと評した。

 やがてミツルは何も見ずに描くようになった。習作を終えたのかと思ったが、その後も何度も女を描き続けた。同じカンバスに。

 下描きを繰り返すカンバスは灰色の霧がかかったように煤けて見える。その濁りは異様だ。無数の女の残影のうえに、刃で切り込みを入れるような線で、ミツルは「理想」を描く。そして彼は時おり、尋ねるのだ――他人に、その出来を。

 ミツルは虚ろに宙を見ていた。覚醒しきっていないのだろう、と、やや脱力気味の指先で取っ手をもっていたカップを、両掌で包み込むようにしっかり持たせ直す。陶器のカップの表面より、ミツルの指先のほうが冷たかった。熱いから気をつけろよ、と告げる。砂糖がいるかな、と思ってキッチンに取りに行こうと腰を上げた。

 突然、ミツルの黒い瞳に、暗い意志が宿った。

「違う」

 毛布にくるまれたミツルはがたがたと震えながら、そう呟いた。

「ぼくは先人たちのように、周囲の評価や世間といったものに振り回されずに自分の表現したいものを描いていきたいと願っている。なのに、ぼくは同時に、その絵で人々の同意と称賛を得たいと願っているんだ。これは矛盾だ。矛盾だし、ひどく俗な感情だ。こんなものがあってはぼくの理想の絵は描けない。ぼくは画家なんかじゃない。ただの醜い一般人だ」

 大きな目の下に色濃い隈が刻まれていた。透明感を失った白目の中央に浮かぶ黒いインクの瞳が、どこか定まらない先を見つめていた。見えない刃を突きつけられているようだった。ミツルの心はおそらく今は現実にない。瘧のように震える手に包まれたミントティーは冷めてしまっているようだった。

 ミツルの手の内のカップを取り上げ、角砂糖を落とす。四角いそれが粒子となり溶けていくのをスプーンの動きで促し、何事もないかのように俺はそれを手渡す。ミツルの白い指先が震えていた。俺はそれを見ながら口を開いた。

「バルコン*にクレマティスの鉢を置いたんだよ。気づいてた? そろそろつぼみが咲く頃だ」

 唐突に言いだした俺の言葉には答えず、ミツルは黙っている。

「人だけじゃなくて、花もいいものだぜ。描いてみろよ」

 絵画に関連したことを言うのがいいのかは解らないが、ミツルは激昂したり泣き出したりすることはなかった。ただ黙って俯いた。手の中のミントティーをじっと見つめている。その幼い横顔を眺めながら、ぼんやりと奴の真意について思いを馳せた。

 思うに、ミツルは描くという行為の希求と称賛の欲求を混同して、それが同じ出所の欲望だと勘違いしているのだ。確かに他人に見せる、他人に認められるということ抜きに純粋に絵を描きたいという衝動がミツルの魂にひそんでいる。俗悪な欲望無しにして「理想」を突き詰める高潔な欲求が。だが同時に、その魂の別の側面に、誰かに認めてほしい、称賛してほしいという人間として当然の欲求が隠れているのだ。彼はその欲求が絵を認められることでしか満たされないと勘違いしているだけで。

 なんでもいいのだ。認められるのは。自分の生きる糧を褒めてもらえるのがそれは一番うれしいだろうが、そうでなくても実は構わないに違いない。絵を認めてほしいという気持ちと誰かに褒めてほしいという一種幼児的な思いは重なるところもあり、離れているところもある。彼はおそらく純粋な動機で絵を描かなければならないと盲信している。そうでないと彼の理想は描けないと。ならばそれでいいのだ。称賛を得るための絵画を描いたっていいじゃないか。自分の理想だけを誰にも見せなければいい。切り替えればいいのだ。人は誰しも二律背反の欲望を抱えている。見せたいと見せたくない。潔癖なミツルはそれが許せない。

 などと、俺は考えるのだけれども。

 ばかな子どもだ。

 ミツルが疲れたと呟き、ソファを立って寝室の方へ行った。ミントティーはテーブルの上に置いていった。一口も飲まれることなく、冷めていた。俺はそれを片づけた。

 クレマティスの鉢に水をやる。太陽の下で水をはじく葉とはちきれんばかりのつぼみの瑞々しさが、ひどく俺達と不釣り合いである。俺もミツルも、燻った部屋で生きている。

 くるくると円い球体となって葉先に留まる水を見つめて、俺は先ほどの続きを思考する。

 なぜそうも褒められたがるのか。誰もミツルの絵を褒めないわけではない。万人受けする絵ではけしてなく、俺もあまり好みではない絵だが、認める人は確かにいる。それでは足りないのか。ならそのための絵を描けばいいのだ。自分の好きなものを他人もみな好きになるわけでない。そんな当然のことをまさか解っていないのだろうか。

 たとえば俺のクレマティスのスケッチが多くの人に好きな絵だと言われるのだって、それは誰の眼にもこれがきちんとしたクレマティス、すなおな素描のクレマティスであるからだ。俺がこれをそう、たとえばキュビスム*で描いたとしたらどうだろう。独創的だね、という人もいるだろうがその実ほんとうにそれをいいと思う人は至極限られてくるにちがいない。つまりそういうことなのだ。自分の好きなものを好きと言ってくれる人がいればそれでいい。その数が多ければいいというものではない。俺の素描を好きでないという人間も多くいるだろう、それならそれでいい。

 ミツルはそうではないのだろうか。

 俺はミツルのことがわからない。しかしわからないなりに確かに俺は彼を受け入れようとおもっている。絵画がなくとも彼は彼だ。だがその手は振り払われる。

 俺が彼に対して抱いているのは愛ではない。この年下の従弟に抱いているのは憐れみか、慈しみか。おそらくそのどちらでもない。俺の些細な執着は、絵画のなかの女へとささやかな嫉妬というかたちで顕現する。




 夏に踏みにじられた奴の精神状態は悪化の一途を辿っている。太陽が眩しかったからムルソーはアラブ人を殺した*。暑さは人を灼く。人の心を灼き焦がす。

 精神の病というものは、転がり落ちはじめたら急だ。夏の終ろうとしているパリは多くの精神病患者を内包している。そしてミツルもその重篤な患者の名簿に名を連ねる資格はあるように思われた。

 病院へは連れていかなかった。行ったところでどうなるとも思えなかった――奴のあれは病と呼べるのかもわからないし、それがミツルという人間のあり方、魂であるといわれたならもうそれは仕方のないことだからだ。

 盛りを過ぎたクレマティスの葩びらが虫喰いに冒されていたので、その襞の寄った大ぶりの弁を千切り取る。晩夏の日射しに晒されて、蔓と葉が萎れていた。

 アトリエの扉は閉ざされていた。ミツルがろくに生活できないほど衰弱していたからだ。八月の終わりから固形物を受け付けなくなった。暑さのせいだけとは到底思えなかった。粥も、林檎をすりおろしたものも、吐くような顔をして飲み下す。ベッドから起き上がらない。ぼうっと天井を見ている。混迷状態、という言葉を思い出した。掌に常につきまとっていた黒い炭の跡が薄れているのを目にしたとき、俺は、そこにミツルの魂の終端を見た。

 何が彼を苦しめているのかわからなかった。指先から逃げ続ける理想の姿か、それとも満たされない賞賛への欲求とそれを抱くことに関する自己嫌悪か。後者のために前者が果たされないと思い込む彼はしかし、あまりに惨い責を己に課している。

 潮時なのかもしれない、と思う。俺だけで面倒を診るのは、もう限界だ。治療するためでなく、延命――そう、延命だ――のために、病院へ連れていこう、と思った。祖国のジャポンに帰らせることができるほど、ミツルの容態は良くはなかった。

 無数に穴の開いたクレマティスの残骸を手にバルコンから室内へ戻ると、何か空気が妙な気がした。

 何がおかしいのかわからなくて、ごみ箱にクレマティスを捨て、手を洗いながら、部屋の中を見渡した。特に変わったことはなかった。いつも通り、生き物の気配がしない、静かな部屋だった。廊下へ通じる扉が薄く開いている。俺が先ほど大学から帰ってきた時のままだ。なのに、どうしてか、うそ寒い。

 ひどく開いた扉に吸い寄せられ、俺はそこへ歩み寄る。隙間からのぞく廊下の先には、アトリエと寝室。電気はつけていない。俺は一歩廊下へ踏みだす。左手には寝室、右手にはアトリエ。ミツルは寝室にいるはずだ。そう思って、それなのにふと、右側に意識が向いた。

 枯れゆく植物の匂いがした。

 アトリエの扉が開いている。薄く。そこから漏れている。俺は廊下を歩いて、儀式的に隙間の開いた扉のドアノブに手をかける。そして引く。ゆっくりと。開いた中から、匂いが流れ出す。

 薄暗い部屋。奇妙な匂いが充満している。相変わらず灰色がかった空間に、画材が散らばっている。

 カンバスには、女が描かれていた。

 そして、その前に、ミツルが倒れていた。

 一目見て直感した。

 間に合わなかった。

ベッドから出なくなってからずっと着ていた寝間着のままで、うつ伏せのような曖昧な姿勢で横たわっている。力の抜けきっているせいで関節が枷をなくし、足先が不自然にねじれていた。左足の親指側の側面がべったりと床につき、蒼白い脈動を失った首筋を晒して尖った顎が仰け反っていた。思わず駆け寄り、その身を抱え起こした。肌に触れた途端、全身が粟立った。死人の感触だった。かくん、と小さな頭が反った。体内への入り口を示す唇は開かれ、端から唾液が白い頬を伝って床に垂れていた。目は薄く閉じられていた。呼吸も、鼓動も、当然無かった。

 薬物。

まず浮かんだのはそれだったが、はたしてどれを。部屋に置いてあった薬が脳内を駆け巡る。ろくなものはなかった筈だ。軽い鎮痛剤、咳止め、その程度。カフェインの錠剤? あんなの百粒飲んだって死ねるわけない。向精神薬や合法ドラッグなんて危険なものは置いてないし、アルコールもない。どうして。どうやって。絵の具? まさか、こんな急に症状が出るはずない。

 窒息だ、と気づくのに十数秒かかった。どんな薬だって、大量に摂取すれば――しかもここ数日ろくに食事も摂っていない人間が――体が受け付けない。衰弱したミツルは吐瀉物をうまく吐きだせない。食道と気管は喉の奥で繋がっている――横たわった状態でいれば、窒息する。

 俺の推測が正しいのかはわからない。正しかろうと間違っていようとそれはもう関係のないことだった。ミツルは死んでいる。それは間違いようのないことだった。白くなった顔は石膏のように微動だにしない。その色は異様だった。以前、いかにミツルの顔色が悪くとも、それでも確かに彼は生きていたのだ、と認識させられるほどに。ミツルは彫像のように動かなかった。それを抱える俺はミケランジェロの聖母子像にも似た格好で、衝撃と後悔と屈辱と、すべての感情が渦巻き綯い交ぜになった表情で、無様に呼吸をしていた。

 腕のなかの体はもう震えて涙を流すことはない。俺がその冷たさに驚くことはない。ミツルの体は永遠に冷たいままだ。アトリエの中央で、未完成のカンバスの前で。俺は空虚な思いに襲われ、途端、力の抜けた体の重みが増した気がした。ああ、ミツルは、俺のあわれな従弟は、そう――「理想」に、殺された。

 俺はカンバスのなかの女を睨みつける。その真っ黒な目が嗤っている。自分の方が上手だったとでもいう風に、俺が一歩及ばずに永遠に神の国に逃してしまった従弟のぬけがらを抱えているさまを見つめている。女。これがミツルの理想か。イデアール。

  あなたは間違ったのよ。

 女がそう言った。煤けた画面のなかの炭の線が蠢き、細い針金状の何かが無数に這い回ってその姿を形成しているようだった。がらんとした薄暗い部屋に、俺とミツルの体以外のなにかがいた。アトリエがぐるりと深淵に沈んでいく。その暗がり、脳のなかで、奇妙にはっきりした声が這い回った。

  たった一度、たった一度でも、あなたが彼の絵を賞賛してあげていれば、少しでも話は違ったでしょう。彼の支柱は折れなかった。自分自身の支柱が自分自身のみであることに耐えられない人もいるのよ。人は所詮、こころはずっとひとりということが怖いの、あなたにはそれが解らないでしょう。友人がいても恋人がいても、ほんとうのところ人は個々よ、あなたはそれが解るでしょう。ミツルにはそれが解らなかったのよ。彼は嫌われることを極端に恐れる性質の持ち主。だからあれほどまでに執拗に。

 複数の震える線で描かれた唇が弧を深めた気がした。女の黒い眼が笑っている。俺はそれを睨みつけた。ぐにゃり、平面的な黒の淵に澱みがうねる。女は喋り続ける。

  あなたは取り違えたのよ。彼が苦しんでいたのは自身の価値観の分裂でなくて、自分自身の承認欲求が満たされないこと。解る? 彼はとても愚かな人。あなたは彼に寄り添おうとした。絵画という表現方法を通した彼でなくて、そのままの彼を認めることで彼をつなぎとめようとした。違うのよ。絵画こそが彼。彼は絵画というかたちでしか自分を表せないのでなくて、絵を描くことこそが彼。少なくとも彼の中ではそうだったの。自分自身はもはや描くことにしかないと彼は思っていた。それが正しいか正しくないかは関係ないわ、生きることは自分自身のことだから。彼が死を考えたならそれはもう彼の確たる死。絵を描く以外の生活に、彼の魂はなかったの。

  他人に認めてもらえないと不安な人間っていうのはいるものよ。あなたには解らないでしょう。世の中の多くの人間もそうでしょう。魂ごと理解してうけいれてくれる人なんていやしない。でも、理解できなくても、わからないままうけいれてくれる人はいる。それが人と人とのつながりよ。その人のある一部分が解らない、けれどその人自身を愛している、それでいいの。

  彼にはそれが解らなかったんだわ。 

  あなたは絵を描く。けれども自分は他にある。行為に頼らないかたちの自己を持っている。魂の中核に絵を描くという行為を据えてしまった彼は、既に自己の正しいあり方を失っていたんだわ。

 耳鳴りのような声だった。いや、実際に耳鳴りであるのかもしれない。耳孔から侵入して頭蓋の内側を這い回るような感触がある。頭が痛い。俺は額を手で覆った。

  自分の家族や友人が、自分のある一部分、つまり彼の場合は絵だけれど、それを好きになってくれるとは限らない。ねえ、あなたはあなたの好きなものを好きと言ってくれる人が周りにいる? それならいいわ。彼にはほとんどいないのよ。当たり前ね、こんなものばかり描いているんだもの。でも彼の魂はこのかたちなんだわ。見知らぬ人が時おり花束のように賞賛をなげてくる、それで満足できるならよかった。けれど彼が求めていたのは、自分の周囲にいる人からの、自分というものを認めてもらうということだったのよ。そしてそれが、周りと噛みあわなかった。

  そういう人は生きていけないのよ。

 女は口を歪めて嗤う。ほんとうにばかな男。そうミツルを嘲っているようだった。実際そうなのかもしれない。きっと、ミツルもどこかで自分の愚かしさに気づいていた。女を描いたミツルのほんとうの理想は、まわりにとらわれない、たったひとりで生きる、孤独な魂であったのかもしれないのだから。

 彼の理想は言う。

  あなたはたった一言いってあげるだけでよかった。たった一言、もしも本当に彼をつなぎとめたかったのなら。

 女の黒い唇が動いた。けして俺が口にすることのなかった一言を。

「お前の絵が好きだよ」と。

それきり、アトリエには沈黙が落ちた。腕のなかのぐにゃりと垂れた人形のような冷たさと、部屋中が鉛筆の黒炭で靄がかっているような暗さだけが残った。

 俺はもう一度、静かになった女の絵を見返した。真っ黒な瞳。細い針金のような線。悪夢のような絵。

 ミツルの魂はここにある。そしてすでにこの世のどこにもない。無数の細い線が震えている。内から噴き出す黒々としたものを抑えようとしながら、哭しながら、画面に縋り付いて描いたようだった。真新しいはずの鉛筆の粉は褪せて見えた。俺はこの絵を、ミツルの絵を、好きとは思わなかったし、彼がそうされることを望んでいたことを知りながらけしてそう言うこともなかった。そこまでして、彼をつなぎとめる気は起きなかった。つまりそういうことなのだろう。

 俺はゆっくりとミツルのからだを床におろして、アトリエの扉を開いた。とりあえず、病院へ電話をして、それから、ジャポンのミツルの家に連絡をいれなくては。

 扉から一歩踏み出す前に、俺はもう一度ふりかえった。部屋の中央のカンバス。線の集合体の女は姿が崩れ、ぼんやりとした塊にしか見えなかった。

 息を吸う。部屋の中には、なんの名残もなかった。

 俺はカンバスに背を向けて、アトリエを出た。




                          End.

注釈:

*Le bébé  フランス語でbaby, 赤ちゃん。

*イデアール  フランス語で理想。イデア。

*トルソー  人体の胸部。

*ベアトリーチェ  叙事詩「神曲」に登場する女性。愛を象徴する存在として神聖化された「永遠の淑女」。

*神曲  イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリの代表作。地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部から成る長編叙事詩。

*ファム・ファタル(Femme fatale)  男にとっての「運命の女」、また、男を破滅させる魔性の女。

*オディール  チャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖」に登場する、悪魔ロットバルトの娘。

*ローランサン  マリー・ローランサン(Marie Laurencin)。二十世紀前半に活動したフランスの女性画家・彫刻家。

*有名なシュルレアリスム画家 ダリのこと。

*チェス・ドール 人間が人形の備え付けられたチェス台の中に隠れて内部から人形を操り、人形がチェスを指しているかのように見せかける手品の一種。通称「トルコ人」または「メルツェルの将棋指し」。

*マノン・レスコー(Manon Lescaut)  アベ・プレヴォーの長編小説、およびその主人公の名前。一九二八年、デカダンスの巨星、アラステアの挿画によるものが発売されている。

*バルコン フランス語でバルコニー。ベランダ。

*キュビスム(Cubisme)  一点透視図法を否定した、色々な角度から見た物の形を一つの画面に収めて描く現代美術の動向。パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックが有名。

*太陽が眩しかったから(…)殺した  アルベール・カミュの不条理小説「異邦人」より。主人公ムルソーはアラブ人を射殺した理由を「太陽が眩しかったから」と答える。

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