過去小説まとめ

しおり

第1話 花枝招展

「スチュアート」

 花々のような喧騒のなかで、通る声に呼び止められた。

 振り返ると、古い城を舞台に、花と草で敷かれたランウェイに、ひとりの男が立っていた。こつ、と踵の音たて一歩踏み出し、それから確信を得たという風に微笑した。

「スチュアート・ウォルトンですね」もう一歩足を踏み出すごとに笑みが深くなり、大きな瞳が細められた。「お久しぶりです」

 ムスカリで縁取られた白い道を、背景の透けるグリーンのショールをさばいて優美に歩み寄ってきた懐かしい顔を呼んだ。

「プランタジネット」

 俺の声に、相手の貴族の血を引く美貌がかすかにゆがめられた。

「今は、ジュリアン・ローズです。お間違えの無いよう」片側だけ吊り上がった口角に、隠しきれない苦々しさが滲み出ていた。

 目の前の同窓生が、ジュリアン・プランタジネットと名乗っていたのはいつまでだったろう――と、さして遠くもないはずの学生時代に思いを馳せてみたが、とんと思いかえせなかった。あるいはイギリスをはなれて大分経ってから改名したのかもしれない。自分の苗字を呼ばれることを極端に嫌ったこの男は、最終的に忌まわしい自分の血族と縁を切り、単身、大陸へ渡った。勘当されたといったほうが正しいかもしれない。由緒正しい英国貴族のお家にとって、この芸術家は奔放すぎたようだ。

 今年のメンズ・コレクションは、十五だかそこらのブランドが出展している。舞台の設えられた南仏の古城の、そこかしこで焚かれるフラッシュや、ピエロと見紛うような衣裳のオールド・ボーイの姿が、まるで非現実的なサーカスのショウのようだった。もう少し色のあるものを着てくるべきだったかな、と自分の黒一色のスーツを見下ろす。滅多にしない、宝石のついたネクタイピンが居心地悪かった。

 トゥの尖った靴を高く鳴らし、俺の目前で立ち止まったジュリアン・プランタジネット改めジュリアン・ローズは、ゲルマンのような見事な金髪を揺らし、「手紙は読みましたよ」と、思春期の時分から変わらない、洗練された慇懃なアクセントで言った。「それにしても、あなたが来るなんて。わざわざ。本島からここまでは遠かったでしょうに」

「付き合いだよ」

 母の荷物持ちも兼ねてな、と、はやくも贔屓のブランドの顔見知りのところへ寄っていって喋っている家族に横目をやり、「最初は断ろうと思ってた。でも、雑誌の出品者の一覧を見て気が変わった」

「私が一番注目のブランドだそうです」にやりと、俺の見た記事を見透かした表情で人差し指を立てた、「イタリアやフランスの記者は私に対してとても好意的ですね」

 肩を竦め、首を振る。言う通り、今回のショウを取り上げた雑誌はこぞって、この新進気鋭のデザイナーを書き立てていた。若き美貌の天才。陳腐で芝居がかった言葉があながち間違いでもない、と知れるのは、ステージに登場するこの男を見た時だ。

「あなた、仕事は?」

「……銀行員」

 華やかな場に似つかわしくない単語を答えれば、奴は、ふ、と笑みを含んだ呼気を洩らした。「堅い職業ですね」

 俺は大きくため息をついて、絹のタイをぐっとゆるめ、生成りのシャツのボタンを二つ三つ開ける。「どうせコネクションだからな。やりたいこともありゃしねえ」投げやりな声音は自分への侮蔑だ。実力に関係のない出世。お決まりのエリートコースに吐き気がする。

 そんな俺の様子を見、切れ長の目を細めて、ジュリアンは返してきた。「あなたは優秀な生徒だったではありませんか。望むものさえあれば、何にでもなれたものを」

 何にでも、なんてことはけしてない。俺は顔がかすかに歪むのを自覚しながら「特になりたいものもなくてな」母方に東洋の血がまじっているせいで、異質なほどに黒い髪に指を差し込み、掻いた。血のわけか、俺も目は吊っているほうだが、どうしてか俺の黒い瞳は酷薄そうと言われ、背が多少高すぎる(あくまでイングランド人にしては、だと思いたい)のも相まって、大抵の人間に怖がられる。傍から見れば、無粋な警備にでも見えるのではないかと自嘲する。

 そんな俺に対して、ジュリアン・プランタジネット――今は、ジュリアン・ローズ――は、実にこの場に相応しい衣装を身につけていた。

 木洩れ日めいた青い翳をそのまま布に仕立てたようなショールの下は、中世の鯨の骨でもつけているのかと思うほどのウエストを、オリーブ、野ばら、スイカズラが絡み合うウィリアム・モリスのデザインのような銀糸の刺繍が密にほどこされた、内側から明るんでいる白いベストに包んでいる。白樺の若木めいた脚には、細身の、こんどはアイボリーのかかったやわらかなホワイトのスラックス。襟元に豪奢にひだの寄せられたシャツは、孔雀の羽根と蔓草を絡ませたマーブル模様で、潔く植物の色のみに統一したスタイリッシュなグリーンの層に引き込まれそうだった。その中で、胸元に、つくりものだが、金色の薔薇がかがやいていた。掌の中央のくぼみにおさまってしまうほどの小さな、けれど加工された表面が、生々しすぎない繊細なきらめきをもたらす、精緻なブローチ。その光沢が、象牙か、貝殻の内側のような白い肌に照り映えて、数多の派手なロゴがならぶ中でも一際目立つ、奴のブランドのマークを思い起こさせた。あちこちのブティック、ショウで見かける、裂傷にも似た金色の薔薇の刻印に、黒い鉤裂き状のいばら。攻撃的なマークだ。危険を示す色のとりあわせ。さしずめ取扱い注意、という意味合いか、と、くだらない冗句を考えた。

 さすが創った当人と称賛するべきか、雑誌で見たどのモデルよりも、ジュリアン・ローズが最も、その輝かしい衣装を着こなしていた。飾り気なく初夏の風になぶられた真っ直ぐな金髪が、文句なしに美しい中性的な美貌の周囲を彩る。そのうちに輝く、ふたつの深い琥珀。長く弧を描いた睫毛に縁取られた、宝石を輪切りにしたような複雑な色合いの瞳孔。通った鼻梁に、三日月を描く薄めの口唇。俺より四インチほど低い背も、周囲と比べれば悪くないし、第一、スタイルが理想的だ。モデルでもないのに。――まあ、どうせ兼ねているか。まったく、申し分のない美貌だ。もし奴が女ならば。

 目前のジュリアン・ローズという若きデザイナーは、ジェンダーを匂わす態を感じさせない、妙に中性的、あるいは無性的な容姿だった。昔から。ただ、変に媚びたような仕草や女性的な言葉づかいをするというわけでもなかった。こういった業界にはその手の人間は少なくない――ほら、あそこで俺の母親と話しているデザイナーらしき中年の男も。ジュリアンはそうではない。とにかく、偏った性を感じさせる動作が少ない。――人らしくない、といってしまえば、そうだった。奴をモンストル・シャルマンと形容していた雑誌はどこだったか――「美しき怪物」。天才というより、鬼才とも表現される男にはうってつけの姿態だった。

 昔から、この男の容貌を丹念に観察するにつけ、その度に俺は多少うすら寒い思いを覚える。今回も背筋にそって這い上がってきたなんともいえないぞくりとした感覚に落ち着かなくなり、着飾ったその姿から視線をはずした。

 そんな級友の内心も知らず、品よく尖ったおとがいに指先を当て、ジュリアン・ローズは首を傾げた。

「勿体ないですねえ、あなたのようなロマンチストが、そんな現実主義な仕事につくなんて」

 思わずむせた。何も口に含んではいないのに突然派手に咳き込んだ俺を、胡乱げな表情で見つめながら、「喘息でも?」と問うた。俺はなんでもないことを示すために手を振り「……別に、ロマンチシズムな趣味はない」と呟いたが、奴の耳には届かなかったようで、当人は騒がしい人混みの方へ体を向け、「人が多いですね」と囁いた。ひるがえった緑のさきから、ふと花が薫った。香水ほど主張しない、自然な芳香。かすめる程度で、馥郁たる、というには少し足りないが、そのまぼろしのような感覚が快かった。

「花」

 A flower, という、こぼれでた単語に、奴は片眉を上げた。「ああ。これですか」胸元をちょっとつまんでブローチを示したジュリアンに、俺は首を振りながら「いや。それもそうだが、全体の雰囲気がな」

何気なくそう言ってから、自分は何を言っているのだと急に我に返った。

それを誤魔化すように、よく母が口にする東洋の国のはなしを持ちだすことにした。彼女は異国の地に長いこといるからか、よく故郷の言葉の話を俺にするのだ。適当に、花に関連して、尚且つこの場で口にしてもおかしくない話題を探す。

「東洋には、美しいものをあらわす多くの言葉がある。特に、美しい女や、美人が着飾っているさまを、花に譬えることが多いようだ」

 もっともそれはヨーロッパも同じだが、と言えば、奴も肯定するようにひとつ頷いた。

「東洋の漢字は好きですよ。豪奢で贅沢な絵画のようです」

 端正な顔にどこか狼めいた微笑を浮かべ、ジュリアン・ローズは言った。野心的な瞳をしていた。指を立て、やおら俺に向かって熱心に語りだした。

「東洋の話といえば、次は着物をつかったドレスを作りたいんです。雲母びき綸子に、くれないの紗を重ねて――」

 空中に衣装を掲げるように手を踊らせる。その指先までが図ったように美しい。つい目を奪われ、はたとまたあの感覚を覚えさせられるのはぞっとしない、と気を紛らわせるようにポケットに手を入れた。が、目的のものはない。仕方なくポケットから手を出すと、目の前に「はい」と、細く巻かれたシガレットが差し出された。

「あなた変なところで抜けてますからねえ」

 低く喉の奥で忍び笑いを立てられ、俺は頬がゆがむのを抑えきれなかった。

「銘柄はこれでいいですか」

「ああ」

 頷いて咥えると、次いで奴は無造作に銀色のライターを投げてきた。宙でキャッチして、火をつける。揺らいだ炎の中に、目前に立つジュリアンの胸元の金の薔薇が見えた気がした。「好みは変わりませんね」笑みと共にこぼされた言葉は黙殺した。

 向かい合っている男は、俺の返したライターで、自分も一本に火をつけた。片足に重心を預け、紫煙を吐き出す姿は斜に構えた下町の青年風で、まったく先程再会してから、見るたびに印象が変わる。どれが本当か解りゃしない。内心ぼやき、息を深く吸い込んだ。

 しばらく、人の声とかすかなフラッシュ音を背景に、二つの細い煙が立ち上っていたが、その沈黙を破ったのは俺だった。

「次号のヴォーグの表紙だってな」

 すごいもんじゃないか、と軽口をたたけば、肩を竦められた。「遅すぎたくらいですよ」

 俺はこのとんでもない自信家にため息をついた。もっとも、これくらいでないと、こういった業界ではやっていけないのかもしれない。つい自分と較べてしまいそうになり、嘆息した。考えてはいけない。比べられるものでもないのだ。それでも。

 やりたいことをやりたいようにやる、と、決意すら滲む声音で呟き、ジュリアンは俺の方へ向き直る。

「今日はイギリス、明日は世界。学生のときから言っていたではありませんか」

 そう言って細めた目が、猛禽類のように金にきらめいたように見えて、寸の間身が竦んだ。

 この男はそうだ。まるで無性の人形のように端正に振る舞っていたかと思えば、思わぬところで獰猛さをのぞかせる。その落差も不気味なのだ。アンドロギュノスは怪物である。それこそ「アンドロジナス」と形容されるファッションをまとい、生み出す奴の二面性が、ひとを魅了するのかもしれない。しかしそれは、捕えられた獲物に近い。……もう逃げられない。

「スチュアート。どうしました?」

 完璧な微笑を浮かべて、首をわずかに傾けた男の目を見ないようにしながら、俺は「いや、なんでもない」と言った。

 俺が奴の姿を見るにつけ、畏怖に似た感覚を覚えるのは、変わらぬ笑みをたたえて立っている男に捕らわれるまいと、生物の本能が抗っているのかもしれない。

 俺より早く吸い終わった殻を、無造作に懐から取り出した携帯灰皿に押し込むと、ジュリアンは周囲を見回した。初夏の庭園にはみずみずしい気配が満ち溢れている。背後にみえる古城もどこか童話のようで、取り囲む森も、ライトを取りつけられた広葉樹の木立。解放的で、こういった催し物のためにつくられたような胡乱さがあった。つくりものの舞台。そうであればまるで俺達は書き割りの前で踊る役者だが、今日は何せファッショニスタの祭典である。一日くらいショウの役になってみても、悪くない、のかもしれない。

 人の少ない方、ランウェイやステージからも遠ざかる向きへ目を向けた奴は、俺の方を振り返っておだやかに提案した。

「まだ始まるまでに間がありましてね。少し歩きませんか」

 メインがほっつき歩いていていいのか、と思ったが、ジュリアンは俺の返事も待たずにさっさと歩き出してしまったため、数秒逡巡してから仕方なくそのあとを追った。木立を通る散歩道に向かうその背はまたとても端正な、ただの年若い青年の姿にすぎないように見え、梢が淡く影を落とす径を、踏んだ痕から次々に花の咲き出でるような足取りで優美に行く佇まいに、俺は目を細めた。

 思えば、学生時代からよくわからない男だった。

 秋のはじめの入学式に、学年指定のグリーンのタイを、ホワイトとのマドラス・チェック、しかも百合の刺繍入りに変え、ワインレッドのドレスシャツのひだを寄せた襟元に蝶結びにして登校してきたやつを見て、俺は度肝を抜かれた。深い紺のブレザーとズボンは、複雑なかたちに切り取られた裾を折り返せば極彩色のペイズリー。銀の校章入りのカフスボタンの代わりの、陶器の花の閉じ込められたガラスのボタンを見たときは、眩暈がした。当然、登校初日から呼び出されて、翌日には支給され直した制服を、また原型をとどめないほど改造して、さらに罰を喰らっていた。悪しき伝統である鞭うちの痕をその背に見た時は、さすがに怖気が走ったものである。それでもやつは、着飾ることをやめなかった――ある夏の朝、貴族の家も学籍も何もかも捨て、トランクひとつで、南仏行きの船に乗り込むその日まで。

 ジュリアン・プランタジネットは常に着飾っていた。女のような衣裳もまるで恥じることなく、それどころかその華美な装飾が似合う自分を誇るかのように、ある日は腰にキルトを巻きつけ――クラン・タータンだった――、ある日は野あざみの刺繍のショールを全身にまとって。当時から首筋で切り揃えたまっすぐな金髪を時たまアヴァンギャルドな色彩に染め替え、気ままに寄宿舎を闊歩していた。神学の授業を抜け出し、わざわざ礼拝堂まで行き、祭壇に腰かけて煙草をくゆらせているのを、昼休みにパイプオルガンの練習をしようとして遭遇した時には、さすがに言葉を失った。そしてやつは、あろうことか、その煙草の火口を、背後の十字架の彫刻に押しつけて消し、扉を半分押し開けたまま凍りついている俺に向かってこう言った。――『あなたも一本どうですか?』と。

 俺に喫煙の悪徳を教え込んだのはそういえばこの男だったな、と、ほろ苦い気持ちで思いかえす。礼拝堂の長椅子の影、そこで俺は凝る紫煙の味を知った。わけもなく、何かに反抗したい時期だったのだ、とささやかな悪事を苦々しく、少し懐かしく反芻した。幾度にもわたる誘惑に負けた級友を嘲っていたのか、それとも仲間を得て嬉しく思ったのか、咳き込みながらふて腐れた顔で煙草を銜えている俺に、奴は微笑みかけていた。俺は今でもその銘柄の煙草を吸っている。

 結局学内にいる間にそこまでの親交があったわけではないが、背徳を共有したという点で、奴とは、ジュリアン・プランタジネットとは、妙な絆で結ばれていた。人前で奴が俺に話しかけてくることはなく、俺も奴に何か働きかけることはなかった。だが、ときおり、礼拝堂やあるいはほかの人気のないところで、ごくたまに、言葉はなく、ちいさな禁じられた遊びに浸る程度の仲だった。あの夏の朝、奴が俺の級友という位置づけを抛りすてて、イギリスの地を離れる日まで。

 校門まで、この生徒を見送ったのは俺ひとりだった。六月も終わり、既に長い夏季休暇のきざはしに寮生が浮足立つ季節だった。俺はほぼ大丈夫だといわれていた卒業試験のことに思いを馳せつつ、卒業したら何をするべきなのだろうと考えて、はたと、そういえばこの目前の少年は、これからどうしていくつもりなのか気にかかった。級長であった俺以外、見送る友人もなく、花を贈る家族もおらず。イギリスを出て、ヨーロッパに渡ろうとしているのは耳にしていた。そうして、そこで、どうやって生きていくのだろう。三歩先を、古びたトランク一つ持って歩くジュリアン・プランタジネットの肩にかかる金髪が、風に揺れていた。

 確か俺は尋ねたのだ。この奇妙な同級生に。なぜ去るのかと。奴は答えなかった。ただ振り返り、唇で笑みを描き、わずかに尖った白い犬歯をのぞかせた。

 ねえ、スチュアート、と、俺を呼んだ奴の声が、いまも耳に残っている。

 奴が学校の外へ足を踏み出し、鉄格子めいた校門が閉まるまさにその瞬間だった。俺の名前の余韻に重なるように、鉄の門の閉ざされる音がひびき、二人は門の内と外に隔たれた。

 金色が降ってくる。

 そう錯覚したのは、門を囲むように生えていた木に、金色の小さな花が房となって咲き誇っていたからだ。鉄の黒い槍が無数に突き立つ校門は、さながら金粉をまぶしたようで、目を射るかがやきが一面を覆っていた。蝶の群れや、鳥の羽根にも見える、ふしぎな形をしていた。

 俺は咄嗟に、その一房に手をかけた。掌にこすれた花が地面に落ち、指先から金が溢れだしていた。力を込めて、そのよくしなる花を手折ろうとした。せめてもの餞に、と、柄にもなく考えたのだ。金色に惑わされたのかもしれない。それほどまでに、その花は美しかったから。

 そのまばゆい中で、十重二十重に降る黄金のきらめきに彩られ、俺はもう一度名前を呼ばれた気がした。音にださないまま、唇だけをStuart, と動かした、十七歳のジュリアン・プランタジネットは、見たこともない表情を浮かべていた。俺は花をつかんだまま凍りついて、その言葉を待った。

 鉄の檻の外で、ゆっくりと、ばらいろの脣がうごいた。

――『       、もっと美しいことをしましょうよ』

 次の瞬間には、吹いた強い風が、散った金色を浚い、去りゆく少年の声すら攫っていってしまった。無数の花房に視界をおおわれ、思わず目を瞑り、再び開けたときには、鉄格子の向こうに、奴の姿はどこにもなかった。中性的な容貌も、まばゆい金髪も。俺は、手折ろうとしていた金の花から、力無く手を離した。押さえをなくした枝は大きく反動ではねあがり、むなしく花を散らした。それはもうあの輝かしい金色の花でなく、ただの黄色い、マメ科と思しき植物だった。

 そう、あの花はなんという名前だったか。


「スチュアート。眉間に皺が寄っていますよ」

 考え事をしながら歩くのはおやめなさいな、と笑みを含んだ声音でいわれ、我に返ると、だいぶ喧騒からは遠ざかっていた。

 木洩れ日に新緑と透けるショールが、オーロラのように棚引いて、俺の頬にふれた。風がふれたほどの軽やかな感触だった。昔別れたときより、随分と長くなった髪がひとすじ、金の糸となって踊った。ショールの内側に入れ込まれた髪は肩甲骨より長く伸び、淡緑のひかりと重なって風にゆれていた。

 林のなかの小径を模したような道は、あまやかに野苺やひなげしに彩られてはいたが、よく見ると腐葉土は新鮮に湿って周囲の芝から浮き、石を敷き詰めた道も踏まれるためのものでないほど真新しく磨かれている。このコレクションのために、花を植え、石を敷いたのだろう。まがいもののステージ。そんなのはどうでもいいことだった。ジュリアン・ローズは支那の纏足のような豪奢で繊細な、金の細工模様の靴を履いて、高く細いヒールで音を奏でるように歩いていった。広く城を取り囲む庭園内を一周する道は、傍らの茂みから幾重もの白い花をつけた弧を描く枝がせりだしているような、花園めいた小径だった。草木のトンネルは、俺には多少丈が足りない気がしたが、その秘やかな雰囲気は気に入った。子供の頃のお遊びだ。暗がりに隠れて、ちいさな悪徳に耽る。その様を演出するかのように、路はカーブを描いて木々の向こうに消えている。

 その内部に分け入り、少し先を行くジュリアン・ローズの、羽根のような緑を追った。

 奴は軽やかにステップを踏み、先を歩いていく。その背になびかせるヴェールにふと旧い東洋の故事を思い返した。誘ったわりに振り返りもせず、気ままに逍遥しているようだった。俺はその様子を、なんとはなしにただ眺めていた。

 すると、奴は通り過ぎざまに、小径にたおやかな枝を垂らす野ばらの一房を手折った。大きくしなった枝から、雪のように花びらが散った。まだ五分咲きのひとふりで、それを弄ぶように翳したり、ショールに絡めたりして、しなる柔らかな枝の莟にキスを落とすと、ふっとそれを躊躇なく道端へ投げ捨てた。そして後を見向きもせず、そのまま、先へ歩いていってしまった。俺が反応できずにいると、しばらくも行かないところで、また、今度は真っ直ぐに生えているべつのばらに目を留めた。絵に描いたように見事に花開いたそれは、朝露をびろうどのような花弁に残し、誇らしげに天に向かって茎を伸ばしていた。それにも奴は手をかけ、無造作に摘み取った。花からしずくが落ちた。俺は息を呑んだ。奴はそれを、先程の白い野ばらと同じように慈しみ、矯めつ眇めつした。その濃いくれないの一輪は気に入ったようで、胸元の金の薔薇に重ね、ベストの襟元のボタンホールに挿した。

「プランタジネット」

 奴は俺の声を無視した。「ジュリアン・ローズ」呼び直しても、まるで聴こえないように、次々と身を囲むばらを折り取り、つぼみを指でほどき、芽を摘んだ。ちぎられた花びらが地面に降り積もり、奴がすすむ道に、ばらの無垢な残骸が華やかで、生々しくむごたらしいランウェイを描いた。尖った靴が踏みにじる花弁が裂け、汚らしく引きちぎれた。それらには見向きもせず、ただ前を向いて歩く。俺は堪え切れず、小走りに奴に追いついて、その腕を掴もうとした。

 しかし、できなかった。

 掴めそうと思った距離は一瞬で影のように遠ざかり、すり抜けた腕はまだずっと彼方だった。俺は一瞬立ち竦み、そのまま奥へいなくなってしまいそうな背に、急いて呼びかけた。

「花を、」

 どうしてだか解らない、声が震えた。

 俺の声には反応せず、ひどく緩慢な動作で、ジュリアン・ローズは、あまい黄色の一輪に手をのばした。密やかにそそぐ陽射しのもとで、淡く金色にかがやいてみえる、いとけない薔薇だった。新芽のような、まだ初々しい、野ばらや犬ばらでない、まるで品種改良されたような完璧な造形の、ちいさな薔薇。

「……薔薇を、折るな」

 みっともないほど声が揺らいでいる。奴は振り向きもしない。俺は一度息をつき、目を強く瞑った。何かに酔ったようだった。眩暈がする。ばらだ。薔薇のかおりだ。

「花をつむのは罪、だ」

 喉になにかが引っかかっているようだった。上顎に花びらが張り付くように舌が動きづらく、背に語りかけようとする言葉は拙かった。

 小径の先で、奴が振り返った。

 コーラル・ピンク。グリーン。ブラッド・オレンジ。モーヴ。襟元に、袖に、裾に、指先に、全身にばら色を浴びながら、ジュリアン・ローズは哄笑した。

 伸びゆく花茎、それを取り巻く瑞々しい葉、先端を薄赤くそめた棘、絡みつきほどける花のような衣装に身を包み、蘂を思わせる金の髪をながして。高く烈しく、慎みも恥もなく、まるで娼婦か、あるいはもっと純な存在であるかのような笑い声を、降る花を全身に浴びて、狂ったように笑い声を立てていた奴は、ふっとそれをやめ、果実を切り裂いたように紅い唇で、艶然と――そう、それこそ、薔薇の花のように、ジュリアン・ローズは微笑んだ。

 ひどく傲慢な笑みだった。ひどく傲慢で、魅力的な、あの、悪魔の笑み。十七歳のあの朝とおなじ、それよりももっと凄絶なそれが、俺の今この世界で、かろうじて捉えうる光景のすべてだった。蛇の髪をもつ化け物を見たかのように身が凍りつき、声は失われた。瞳はその姿に架刑にされ釘付けになった。

「スチュアート、」 あなたという人は。

 その怖ろしい微笑みを浮かべた暗い紅の脣で、奴は俺を嘲笑った。


「薔薇の芽をつむほどの悪徳しか知らないのですか」


 ひどく残酷な声音で言われた瞬間、悟った。

 捕らわれた。

 ジュリアンの足元にばらが散っている。そうだ。こいつには生きたものから引きはがした飾りがなにより似合う。生きた花枝を躊躇いなく手折り、ちぎり、悪女のように身を飾る。そのうつくしいかんばせを残虐な美にそめて。無性の美貌は悪魔の証だったのだ。十字を焦がすように、薔薇をつむ。既に喧騒は遥か遠く、俺の周囲を取り囲む木々ばかりが不穏にざわめく。深い緑に映える無数の鮮烈な悪夢のような薔薇を散らして、金をまとった彼は足を踏み出す。靴音すら俺をとらえる枷のようで、一歩一歩近づくごとに俺を淵に引きずり込む。 花に囲まれて微笑むジュリアンは、昔から、ずっと、なによりも怖ろしく美しい、怪物だった。

「Stuart」

 うつくしい発音で、俺を呼ぶ。

 手折った薔薇を投げ捨て、金の炎が渦巻く双眸で、俺の瞳を絡め取る。

 ああ。

 人を魅せる悪魔はうつくしいのだと、その笑みを以て、身に思い知る。

 俺の肢体に幾重にも絡みついてくる緑のヴェール。瞳が触れあいそうなほどに、美しい怪物が近くにいる。痺れるような花の香りに、酩酊した。脳の中央からほどけていく。甘いにおい。反響する呼び声に、俺の名のアクセントを聞きとる。にじむ視界のなかで、ジュリアン・ローズという悪魔の笑みだけが俺を支配する。

薔薇色の唇が囁いた。



「花を手折るより、もっと美しいことをしましょうよ」





Finale (But the show must go on!)

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