第18話 Kuşlar

 一五七〇年の春、中東の覇者、オスマン帝国の都、イスタンブルにはうるわしい美が満ち満ちていた。

 男は、顔に垂らした布越しに香る風に、花と果実の芳醇さを感じ取る。露店から流れてくる芳ばしい焼菓子の匂いや賑々しい商人の声、華やぐ街中の人々の色とりどりの服、異国語でのやりとりや、シナゴーグの外観も心なしか彩り鮮やかに五感を刺激する。視界の上部を、不意につばめが通り、つい目が吸い寄せられた。立ち止まると、腰の剣が服の飾りとこすれて鈴のような音を立てた。青い衣にターバン、佩いた剣、イェニチェリであることを示す出で立ちに、すれ違った娘たちが色めき立つ。しかし、男が、薄く色のついた薄衣で顔を覆っていることに気づくと、皆不思議そうな顔をした。

 オスマン帝国全土から集められたキリスト教徒の隷たちは、イスラームに改宗し、言語や規律を学び、皇帝スルタンに仕える。強き者はイェニチェリとなって戦いに身を投じ、賢い者は宦官キョチェクとなって後宮に入る。

 男は前者だった。目の覚めるような赤毛と端正な顔立ち、野生の獣のように俊敏でしなやかな身のこなしが買われ、巌のように押し黙る父と泣く母をおいて故郷をあとにした。紅い服を着て、都までのあまりに長く感じた道中、覚えているのは岩場を飛び回るつばめだけだった。

 つい最近まで続いていたロシア・ツァーリ国との戦いはあったものの、男は無事にイスタンブルに戻ることができた。そのことを感謝しながら、並木を抜けて、オリーブの茂る小路に入る。少し人気が少なくなって、程よい静けさとあたたかさのあるところが、男は気に入っていた。この道をもう少し行けば、井戸のある広場にも出る。菩提樹が枝をめぐらせ、心地よい憩いの場となっているそこは、彼がいつも向かう場所だった。先に見えてきたそこに、今日は人がおらず、皆賑わいのほうへ足を運んでいるのかと考えた。

 不意に、春の風が吹く。それなりに強いそれに目を細めると、視界の端に白いものが横切った。反射的に目で追えば、亜麻のターバンである。

 誰かが水浴びでもしようとして落としたのか、とかがんでそれを拾い上げると、声がした。誰もいないと思い込んでいた上に、少しその声は遠く、何と言ったかまでは聞き取れなかった。あたりを見渡した男の目に、予期しないものが映った。

 菩提樹の梢の上のほうに、鳥にしては大きな影が見えた。白く、動くたびに葉擦れに似た絹の音を響かせるもの、すなわち人間であった。

 まだ年若い男である。少年とさえ言えるかもしれなかった。垂らした、骨ばった肩をこえるほどに長い黒髪に、つる草が絡んでいた。見開いた瞳は黒く大きい、スルタンへの献上品の宝石のようだったが、踊り子キョチェクのような紗をまとった、華奢で細身の肢体に、宦官か、と勘繰った。

 彼は男のほうを真っすぐに見ていた。視線と視線が絡み合い、その小さな唇がなにか言葉を発したが、聞きとれなかった。男がターバンを手にしたまま一歩踏み出すと同時に、彼は、枝から飛び降りた。

 ふわり、と、まるで鳥が翼を広げて舞い降りたようだった。先の尖った靴が、木の根の隆起を上手に避けて音もなく地面に降り立つ。腰のサッシュに佩いた、装飾品であろう短刀の金属が、澄んだ音を立てた。

 つばめのように華奢な体に、整った顔をした男だった。彼は手をのべ、人差し指をこちらへ向けた。

「それ」

 白い指が手元のターバンを指していることに気づき、差し出す。彼はそれを受け取ると、嬉しそうに礼を言った。そしてから、背の高い男を見上げると、少し微笑み、掠れた声で名乗った。

「僕は〝優美ザリフ〟だ」

 名前らしからぬその響きに、男は、宮廷の細密画師だ、と気づいた。〝嵐〟や〝真珠〟など、不可思議な名を与えられ、スルタンお抱えの細密画工房で働く芸術家たち。写本の頁の縁に金泥を塗り、熟れた果実のなる樹、蜜の河、ちぢれた中華風の雲、色とりどりの葉、小鳥、花、……世の美なるものをその筆で以て紙の上に落とし込む。

「きみは?」

 〝優美ザリフ〟が問い返すと、男は薄い紗の向こうで瞳を瞬かせた。

「ハッサン」

 短く応えた男に、〝優美ザリフ〟はまた瞬きをする。鳥の羽根のような睫毛が上下し、首を傾げた。黒い髪が肩に流れる。

「どうして布をかぶっているの」

 あどけない子供に似た仕草で伸ばされた指先を思わず払ってしまう。大切な道具を強く弾かれた〝優美ザリフ〟は、はっとした表情で手を引っ込めた。

「日よけだ」

 簡潔な応えに、それでも彼は満足しない。不意にまた手を伸ばし、獲物をかすめとる猛禽のような仕草でその紗を持ち上げ、次いで息を呑んだ。光を透さない黒い宝石に映る自分の顔を見るや否や、ハッサンはすぐに布を元に戻し、背を向けた。一刻も早くこの中庭から去りたかった。

 ハッサンの両の瞳は、極めて澄んだターコイズ・ブルーだ。青い瞳は、邪眼と呼ばれ、中東から南欧にかけての土地で忌み嫌われる。呪いをかける力があるというのだ。伝承に過ぎないそれを、しかし彼は気にかけて、その顔を色の入った薄布で隠していた。

 しかし、立ち去ろうとしたハッサンの背に、〝優美ザリフ〟は声をかけた。

「待って、待ってくれ」

 さえずる鳥がまとわりつくように駆けてきて、服の裾をつまむ。驚いて振り返ったハッサンの瞳を覗き込み、彼は紅潮した頬でまくしたてた。

「僕はかつて緑の瞳をみたことがある、ヴェネツィアの虜だった。だがそれは砂漠でさんざん風に吹きつけられた翡翠のように暗く、くすんだ色だった。磨けばきっと美しいだろう、だが瞳は磨けない。虜だったからか、本来の性質か、彼の瞳は黄昏よりもなお昏かった」

 歌いすぎて喉をつぶした金糸雀のようなかすれた声で喋りつづける彼は、未知を目にした少年のように輝く、濡れた黒い瞳でハッサンを見つめた。より正しく言うならば、彼の青い瞳を見つめていた。

「きみの瞳はうつくしい。水晶にとり憑かれたように輝き、季節と愛と悲しみと永遠と、ちぎれていく海、影すら青い夏……神の声に似ている。象嵌などではない、きみの体のなかに青く輝く芯があり、そのきらめきがそのふたつの目からこぼれているんだ」

 止まることのない詩のような讃美に戸惑い、俯いたハッサンの頬に、〝優美ザリフ〟は、そっと布越しに手を触れた。そのままその指先が頬骨をたどり、伏せた瞼の線を撫でる。

「ねえ、きみ……、きみは……」

 言葉を失ったように、ハッサンの瞳に魅入られている若き細密画師との奇妙な関係が始まったのは、この風の強い春の日だった。


   ×××


 それが一か月前だった、とハッサンは記憶している。

 次の遠征があるまで、イェニチェリは都で待機している。ロシア・ツァーリ国との戦い、即ちアストラハン遠征の後、スルタンはまた西進しようとしている。欧州の国をひとつ、またひとつ、と滅ぼし、キリスト教連合諸国の首に手をかけようとしている。楽隊を率い、火器を背負い、新しい兵イェニチェリと名付けられた皇帝スルタンの兵達にとって、都での日々は束の間の休息に過ぎない。次の戦いが始まるまでの、ほんの少しの平和だ。

 この一か月の平和を思い、ハッサンは朝の身支度を始めた。定められた衣をまとい、ターバンを巻く。仕上げに、組紐で色の入った薄衣をくくりつけ、少々の風では目元が露わにならないように長さを調節する。今日はそこまでの風ではないが、一応だ。

 家を出て、オリーブの茂る小路へ向かう。さらにその先まで。菩提樹の姿を脳裏に思い描く。

 今までは、一人で物思いに耽るために向かっていたが。今は違っていた。他者という目的が生まれた以上、そこには明確な違いがあった。

 広場は、今日はそれなりの賑わいを見せている。最初に、彼が小鳥のように枝の上から飛び降りてきた菩提樹から少し離れた井戸の脇で、数人の若い男が歓談していた。皆華奢で、イェニチェリではないとすぐにわかる。彼らが細密画師の見習いの一団であることは、ひとりが口にした、コーランの一場面の絵について始まった議論からだった。地面の色をどう塗るか、から始まり、水仙の描き方、木の葉の枚数、お互いそれぞれ譲れないものがあるらしく、前のめりになって熱心に意見を戦わせている。

 菩提樹へ視線を走らせて、息をついた。

 枝の上に、初めて逢ったときのように〝優美ザリフ〟が腰かけ、退屈そうに足を振っている。やはり今日もターバンを外し、白い布を、極東のおとぎ話における羽衣のように風になびかせてもてあそんでいた。その瞳がこちらに向けられ、蝋燭の火にかざした黒曜石のようにきらめいた。樹からするりと飛び降り、衣服の裾を風になびかせて、足音も軽くこちらへ走り寄ってくる。

「ハッサン――」

 名を呼びながら、目の前まできて、背の高いハッサンの肩に飛びつくように腕を回し、親愛の情を示す。垂らした黒髪から、蓮に似た香が匂った。いいのか、と仲間である集団を目で指して問うと、首を振った。「彼らは見習いだけど、僕は名人だ。どうにもやりづらい」

 奢る風でもなく、当然のように言う〝優美ザリフ〟は、もう一度ハッサンに身を寄せると、耳元で「正直に言えば、彼らといると疲れるし、得る物がない。退屈だ。君といるほうがずっといい」

 黒百合の花弁のように、髪が頬をくすぐる。垂らした布の端をつい、と摘まむと、〝優美ザリフ〟は囁いた。

「……僕の家においでよ」


   ×××


 すいかずらの匂いのする部屋は、調度も物も少なかったが、それらがいつでも適度に散らかっていて生活の様子が漂っていた。その素晴らしい装飾も見慣れてきた、紫と黄の糸で刺繍のされた絨毯を踏み、中央に置かれた卓に座る。卓の脇につるされた鳥籠のなかには大人しい鸚鵡がいて、近頃よく姿を見せる青い瞳のイェニチェリを黒葡萄のような瞳でちらりと見て、一声啼いた。

 部屋の奥にある作業をする机の上には葦のペンとガラスや陶器の黒いインクの壺、描きかけの柘榴の木の絵が置かれていた。一目見て息を呑む出来だった。来るたびに、様々な絵が並び、ハッサンの目を圧倒する。

「どうしていつも座らないの」

 絵を見ているから、と言ったことはない。無言で卓の前に腰を下ろす。〝優美〟はどこか胡乱げな目つきをしながら、向かいに腰を下ろす。

 カーネーションの花びらを浮かべた、アラビアの棗の花で淹れた飲み物を出される。あまりいいものがないけれど、と前置きがあってから小ぶりの堅いりんごを渡された。ハッサンはそれを受け取り掌中で転がしながら、〝優美ザリフ〟が胡桃の実とばらの花びらをつぶしたものを食べているのを眺めていた。目に良いそうだ。あまり美味しくはない、と少し眉根を寄せて笑う様子に、ふと、家族を思いだした。

 ハッサンには弟が二人いた。二人ともコーヒー色の髪に明るい色の瞳をしていたが、その色味はよく磨かれた木目に似た茶であり、見た者が息を呑むような鮮烈さを持つハッサンの容姿とは似つかなかった。彼らは元気だろうか。最近受け取った手紙では、恋人ができた、と書かれていたが、実際にはもう何年も逢っていない。今逢えば、このくらいなのだろうか、と恐らく少し年下に見える〝優美ザリフ〟の、品よく胡桃をつまむ姿を眺めた。見られていることに気づくと、〝優美ザリフ〟は少し照れたように、まとめてばらの花びらを口に放り込み、仕事をしてもいいかと尋ねた。頷くと、立ち上がって奥の机の前に座る。質の良いショールを肩に羽織ると、葦のペンを手に持つ。そのまま、手近な紙に先端を押し当てたかと思うと、幻のように鹿が生まれ出た。伸びやかな肢体、春の若木のような角、躍動と静止。金貨何十枚になるのだろう。不意にそう思ってから、そんな視点でしか考えられないことを恥と思うほどの出来だった。

「初めは指が動かないから、慣らさないと」

 葦のペンがひらめくたびに、鹿の周りに、飾りのように小鳥が飛び回る。いつ何を描いても完璧に描けるのが名人なのだと思っていたハッサンは少し驚いた。

「描くのが好きなものと、そうでないものがあるんだ。……描くことそのものは、好きなんだけど」

 指を慣らすというよりは、気持ちを絵に向けさせるためなのかもしれない、と、ハッサンなりに解釈する。典雅なことに縁のないハッサンは、兵の仲間内で酒を飲んでも、踊り子を見ても、それをたたえる詩ひとつ作れない。

 出逢ってからひと月の間に数回、彼の家を訪れているが、改めて、素人の自分といて、どうして楽しいのか、というような趣旨のことを訊いた。羽根の先まで描きあげた〝優美ザリフ〟は顔をあげ、きょとんとした顔をしたが、すぐに破顔した。「だからこそ」目を細め、続ける。「僕たちの間にあるのは、上手い者への嫉妬や、スルタンに気に入られようという出世欲や、自分の描くものが最も美しいという誇り。傲慢で、頑なで、欲深い。細密画師というのはね、世界でいちばん醜い生きものだ」

 君はそんな世界を知らないだろう。その瞳と同じように、純粋だ。

 ハッサンはかぶりを振る。それだけは肯定できなかった。ハッサンは初めての出征で、腰に下げている柄に紅玉の嵌まった剣で十三人の敵兵を殺した。銃を使って殺したのは何人だろう。耳を聾する火薬の爆ぜる音には慣れてしまって、式典で湾にあがる花火のことも、美しいと思えるようになってしまっていた。

 彼が自分の武具に注いだ視線で考えていることが分かったのか、〝優美ザリフ〟は微笑んだ。

「兵舎のおぞましさと細密画師の醜さは違うものだ。君がどれほど血にまみれていようと、インクにまみれた僕たちには敵わない」

 はたしてそうなのだろうか、と考える。けして交わることのない環境での対立、憎悪、負の感情は似て非なるものなのかもしれない。だが、その感情を抱くのは同じ人間だ。その根底に何か通ずるものはないのだろうか。

 おりた沈黙の帳のなか、ハッサンはふと、机の上の柘榴の絵の右半分が、布でおおわれていることに気付いた。

 試し描きを終えた〝優美ザリフ〟の手がその布にかかるのを見ていると、取り払われた布の下、柘榴の木の横に、女が描かれていた。中国風に眉尻をあげて描かれた、細密画における典型的な美女の描き方だが、どこかが違う。だが、ハッサンには具体的にどこがどう違うのかわからず、少しもどかしくさえ思った。鼻だろうか、眉だろうか、それとも唇だろうか。

 〝優美ザリフ〟はハッサンの様子を見ていると、突然首を振って布を元に戻した。「これは失敗作だ」

 思わず彼の横顔を見た。これが失敗だというのか。

「美しい女の描き方は決まっている。遥か昔の名人から受け継がれてきた顔だ。細密画師はそれを模倣し、そこにけして自分のスタイルを混ぜてはいけない。それは歪みであり、欠陥だ」

 低く囁き、かぶりを振る。しかしハッサンは声をあげた。

「もう一度見せてほしい」

 言葉少ななハッサンのめずらしい懇願に、少し眉をあげて、〝優美ザリフ〟は布をまくりあげた。

 より近寄ってみると、石膏を削り出したような鼻梁に、象牙に似た肌に、練られたように描かれた影が、まるで実際の女のようだった。イスラームの文化における平面的な画法に慣れきったハッサンは衝撃を受けた。

 いつの間にか、傍らに〝優美ザリフ〟が立っていた。

「……ヨーロッパの絵画を見たことは?」

 墨をふくんだような睫毛がゆっくりとしばたたいた。

「ヨーロッパでは、見えるものを見えるまま描くんだ。遠くのひばりはまるでけし粒のようだし、木立の奥の鹿はねずみより小さい。女官が捧げもつ杯は饗宴の盆のようで、こちらを見る皇帝の瞳は満月だ」

 それがどんなものなのか、想像もつかなかった。目に映る景色をそのまま紙の上に落とし込み、色を付ける。アラベスクも金の縁取りもなく、見たままを。

 〝優美ザリフ〟は、そっとハッサンに寄り添い、いつでもそうするように、その瞳を覗き込んだ。彼の瞳はいつでも変わらず、黒く輝いている。

「……近くのきみの瞳は、きっと、この世で見るどんなものよりも美しい光となるだろう」


   ×××


 薄紫のヴェールが舞う。踊り子のひるがえした衣を、羽根のようだ、と思った。傍らの同僚が賞賛の声を投げかけ、踊り子は微笑む。手にした杯のなかの甘い茶が、燈りの下で蜂蜜色に輝いた。

 薄衣を顔の前に垂らした男に、他の客は踊り子たちが目を向けてひそめた声で何か言っているのがわかる。どうして布を垂らしているのか、訝る声を無視して、杯に口をつける。隣に座っている同僚が、苦笑しながらハッサンの方を見た。

「イスタンブルは世界の中心だ。わざわざそんな風にしなくても、髪や目なんてどんな色でもいいだろう、色男」

 布を留める組紐に軽く触れられ、相手を睨みつけると、同僚は肩をすくめて笑った。

「なあ、ハッサン。俺には青い目の友人だって何人かいるし、ケナンもオルハンも目は黒くない。セリムの嫁は灰色の目らしいぞ。

 確かに、お前ほど青い目はみたことがない。雷や、遠い西の海や、宝石よりもなお青い。青く、そして輝いている。だが、それだけだ。邪眼なんて誰も信じちゃいないさ。そこまで臆病に隠さなくてもいいんじゃないか」

 臆病、という言葉を使ったのは挑発のつもりもあったのだろうが、ハッサンは取り合わず、茶をもう一口飲んだ。口許だけ布を持ち上げるたびに、注視されるのがわかって多少居心地が悪い。なじみでない店には来るべきでなかった、と、隣の友人の誘いを受けたことを少し後悔しながら、一息に杯を空け、席を立とうとしたら、また話しかけられた。

「お前、最近あの名人と仲が良いらしいじゃないか」

 一瞬なんのことかわからず、〝優美ザリフ〟のことだとわかって思わず目を見開いた。「知っているのか」

「有名だ。あの画師がそもそも目立つからな。あんなに若いのに、皇帝がいたく奴の絵を気に入っているそうじゃないか。一枚で金貨何十枚にもなる。

その一方で、西洋の画法に傾倒しているとか」

 最後の台詞を言う時、同僚の眉が意味深にひそめられるのを見た。西洋の画法に否定的な感情を抱いているらしい彼は、確かに熱心なムスリムだ。

 細密画師は神を冒涜している、と叫ぶ者は多い。アッラーにのみ許された創造を行う、道を踏み外した者たちだ、と糾弾し、過激な一団は細密画師を殺すこともある。

 それでも、そうか、〝優美ザリフ〟はそれほどまでに名の知れた人物なのか、と思うと、なんだかくすぐったいような妙な気がした。そんな人物と自分が親交を結んでいるという事実が少し嬉しかった。同僚はいつにないハッサンの様子を見て、もう一度身を寄せる。

「それに」耳元で含み笑いを洩らした。「美男だ」

 ハッサンが途端に表情を険しくしたのを見て、同僚は大仰に身を震わせる。「そう怖い顔をするなよ、冗談だ」

「そういう下世話なはなしは好かない」

 堅物だな、お前は、とため息をついた。

「お前はほんとうにわからない奴だよ。なにを考えているのか、なにをしたいのか。こだわることなんてないのかと思えば、その布だけは頑なに外さない。何に代えてでも、という雰囲気じゃないか」

 ハッサンは顔の布にそっと触れた。

 確かなものが何ひとつないから、この薄衣一枚に固執しているのかもしれない。邪眼と言われるから、というのはただの言い訳に過ぎない。身分、世間、生活、様々なものにうわべだけ囚われていて、しかし自分にはうわべしかないから、ある言い訳をひとつ拵えて、取り繕っているのだ。

「たとえば、それを外さなければ殺すと言われたらどうなんだ。一度外すんじゃないぞ、二度と顔を隠すな、ということだ。おまえはどうするんだ。すべてを捨ててでも、その奥に隠れつづけるのか」

 冗談めかした風に問われ、ハッサンは返事をしなかった。同僚はまだ何か続けようとしたが、そろそろお開きに、という他の者の声に反応して立ち上がった。促され、店の外へ出ながら、すべてを捨ててでも、と思えるものがあるというのは、一体どういう気持ちだろう、と考えた。


   ×××


 帰る夜道は暗く、ざわめく樹木の影が嵐の前触れのように月の光を遮ってうごめいた。少し寄るところがあると言って、連れ立っていた数人の仲間とはなれ、オリーブの小路へ急ごうとして、こんな夜更けにいるはずがないと気付いた。

 無性に、あの小鳥のような細密画師を話したかった。訊きたいことがあったのだ。

 おまえには、すべてを捨ててでも求めるようなものがあるか、と。

 このひと月の間で、幾度となく、彼とハッサンは他愛もない会話を交わしていた。菩提樹の上と下のこともあったし、彼の家でということもあった。そのどんなときでも、〝優美ザリフ〟は決まって、あの黒い瞳でハッサンの青い瞳を覗き込み、こういうのだ。

「僕は、きみの瞳を描けるなら、すべてを捨ててもいいよ」

 描きたければ描けばいい、とそのたびにハッサンは言うのだが、〝優美ザリフ〟は悲しげに首を振る。

「このままでは描けないんだ。このままでは……」

 それがどういうことなのか分からずに、彼が仕事で描き上げていく作品を見ながら、あんなに上手いのに、というと、彼はふっと苛立ったような表情を見せた。

「わからずや」

 〝優美ザリフ〟はふいと顔を背け、ハッサンに背を向け、また仕事を始めてしまう。

 そんなことを考えていると、いるはずがないとわかっているのに、あの菩提樹の広場にたどり着いていた。闇に黒く沈んだそこには、やはり生き物の気配はしない。葉が風にこすれる音がして、流された雲が月影をいびつにする。諦めて踵を返そうとした。しかし、オリーブの茂る小路に戻ろうとしても、どうしても、あの黒い瞳が頭から離れない。気づけば、記憶だけを頼りに、菩提樹の広場を横切り、入り組んだ道を急ぎ始めていた。

 いくらか角を曲がり、すると、見覚えのある一軒の家が目に入った。まだ光がどもっているのを見て、深く安堵する。

 あかりのこぼれる扉を叩くと、すぐに軽い足音が近づき、ゆっくりと戸が開いた。ショールを羽織った〝優美ザリフ〟が顔を出し、ハッサンの姿を認めると、やけに低い声で「丁度良かった」と言った。「入って」

 据わった目や、蝋燭の橙のあかりに照らされてなお蒼褪めて見える頬に、尋常ならざるものを感じたハッサンは、言われるがまま入り、そこで凍りついた。


「完成したんだ」


 神秘なまでに艶めかしい女が、そこにいた。

 肉感的な頬の輪郭、はっきりとした鼻梁、琥珀の質感をもった肌……瑪瑙を輪切りにした断面のような瞳が、金箔よりも人の心を魅惑した。

 震える手を伸ばし、その先が平坦なものに触れたとき、ハッサンはそれが絵であると気づいた。

 それは人間の創造であった。

 その女は〝優美ザリフ〟による被造物に違いなかった。熟れたさくらんぼのような唇は今にも吐息を洩らしそうに見えたし、しっとりと潤んだ瞳は確かにこちらを見ているように思えた。

「それが西洋の絵だ」

 絶句しているハッサンの傍らにいた〝優美ザリフ〟は、不意に、彼の膝の上に手をおき、身を乗り出して、鼻先が触れ合いそうなほど近く、顔を寄せた。

「……ぼくの描いた絵が恐ろしく罪深いものだということは知っている」

 指先がゆっくりと、蜘蛛を思わせる動きで、顔を覆う布に触れる。柘榴を、鹿を、女を生み出す手が、その薄衣の下に這入りこんでくる。冷えた指が頬に触れた。ハッサンは動けなかった。

「初めて西洋の絵をみたとき、異教の美しさをぼくは見た。我々の絵にはないものがそこにあった。

 ヨーロッパの画法や様式は、遠くのものを小さく、近くのものを大きく、影を見たままに描くんだ。世界をあるがままに写しとる。そればかりか、自分が考え出した世界を、あたかも現実のように描くんだ。

 それはぼくたちにはない手法だった。なぜなら世界の創造は神にのみ許されたものだからだ。

 しかし、それはひどく曖昧ではないか? 預言者も、コーランも、何が確かだと言えるのだ? 神は本当にそれを望んだのか? いま目の前にあるものがすべてではないのか? それを作ったのが神というなら、僕たちが目指すものとは一体なんだ? 神より賜りし闇に、ほんとうの美があるというのか? 世界とはなんだ? 神とはなんだ? 

 神とは美に優るのか?」

 すべてを聞き終える前に、ハッサンは〝優美ザリフ〟の腕を振り払っていた。小鳥のように細い体が絨毯の上に倒れ伏し、共に倒れた卓から落ちた花瓶が当たった鳥籠が揺れ、眠っていた鸚鵡がにわかにさえずり始めた。

 眩暈がして、自分も紫の渦模様の上に片膝をついた。

優美ザリフ〟の声が頭蓋で反響し、増幅して、戦場での爆音のように支配した。神とは、美とは、皇帝の奴隷として、つばめと共に都にやってきたその日から刷り込まれてきたイスラームの教えが、神が、渦巻く女の瞳に、〝優美ザリフ〟の生み出すものに取って代わられ、そしてやがてそれが、〝優美ザリフ〟そのものの姿となる。

 手をつき、身を起こした〝優美ザリフ〟が、下からねめつけるように、垂れた黒髪の隙間からハッサンの瞳を射抜いた。

「きみならわかるはずだ」

 この広い地上に生きてたったひとつ求めているのは。

 体を引きずるように、〝優美ザリフ〟は、膝をついたハッサンの腕を握る。その左手が一瞬の後、驚くほどの激しさで、薄衣を掴み、組紐を引き千切った。

「僕の求める美は、神から与えられるそれではないことを」

 耳元で糸が切れる音を聞きながら、ハッサンは、茫然と、縋りついてくる小鳥のような体の熱量と、ぼやけるほど近くにある黒い瞳に映り込む青を感じていた。


   ×××


 ひどく、長い夜を過ごした気がした。目を開けると、窓から斜めに差し込む薄明りの元で、蝋燭が燃え尽きていた。消さずに眠ってしまったらしい。赤みを帯びた光は明確に暁のそれで、まだ細いその光の道筋の下に、骨ばった白い背に黒い髪を垂らした〝優美ザリフ〟が座り込んでいた。

 ハッサンがゆっくりと立ち上がると、不意に、〝優美ザリフ〟が振り返った。

「行くのか」

 朝焼けを見つめていた瞳は、黒く燃え立っていた。またすぐに窓の方を向いてしまう彼の背に、知っていたのか、と、ハッサンは低く問うた。〝優美ザリフ〟は外を見ながら頷いた。

「スルタンがまた、遠征するのだと聞いた」

 ハッサンは足元に目を落とした。別部隊の今年のキプロスへの遠征で、都ファマグスタを陥落させたとの報は既に届いていた。それに伴い、皇帝は、地中海へ軍を進めることを表明した。

 オスマン帝国の地中海への南進は留まるところを知らない。それを防ごうと、カトリック教国が連合艦隊を集結させ、侵略を水際で食い止めようとしていることも知れ渡っていた。

 出立の日付は、もう目前に迫っていた。

 生きて戻ってこられるかがわからないことはお互い知りすぎていた。そのせいか、けしてハッサンの方を見ないまま、〝優美ザリフ〟は低く吐き捨てた。

「きみを引き留めるためなら、信仰を捨てる」

 その言葉に、ハッサンは何も返さなかった。代わりに、落ちていたターバンを拾い、ゆっくりと折り畳んで身に着け始めた。〝優美ザリフ〟も何も言わず、止めなかった。

 絵のために捨てられる信仰など意味もないことを、彼自身もよくわかっていたのだろう。

 剣を佩き、青い衣をまとい、慣れた身支度はうすら寒くなるほど簡素で、すぐに終えられる。普段よりも丁寧に、なにか結べるものはないか、と訊いた。何も言わず、朝焼けを見つめていた〝優美ザリフ〟は、机の上から粗末な麻の紐を投げて寄越した。床の上に落ちたそれを拾い、よれた薄衣で、いつものように顔を覆う。光に照らされていた室内が、少し靄がかったようになる。

 何度も毛羽立った麻紐の結び目を確認して、ハッサンはそっと立ち上がった。けしてこちらを見ようとしない〝優美ザリフ〟を少しの間見つめていたが、諦めたように、戸の方へ歩き出した。

 背を向けて立ち去るその身に、華奢な腕が縋り付いた。驚き振り返ったハッサンににじり寄り、〝優美ザリフ〟は叫んだ。

「本当に行ってしまうのか」

 本当にも何も、イェニチェリの自分に戦争に行かないという選択肢は無い。銃を下げ、楽隊の音に従い、皇帝スルタンのために戦う。それだけしかない。それだけしか自分にはない。たとえそれがうわべだけのものだったとしても。

 そんなことは解っているであろう〝優美ザリフ〟は、しかし、血を吐くような声で抗った。

「何をすればいい」

 〝優美ザリフ〟の叫びに、ハッサンは答えなかった。「何をしたら、きみを引き留められる」

 〝優美ザリフ〟の繊細な手がそこらじゅうを這い回り、床に落ちている服の中から、宝飾品の短刀を持ち上げ、鞘は抜かないまま、左の肘と、両膝をその剣で叩いた。いまその剣が触れた肢を、切り落とすという意味だ。それから、ゆっくりと、震える動作でその短刀を眼差しの高さまで持ち上げ、左の瞼に、その切っ先を押し当てた。色を失った唇が震え、言葉を紡ぎだした。

「僕は、ぼくは……ぼくの左目を抉ったっていい」

 途端、堰を切ったように、彼の左の瞳から透明な液体が溢れだした。主の覚悟が真実であると受け取った瞳が別れを惜しんでいるようにも思えた。〝優美ザリフ〟は、魂ごと引きずり出されるような悲痛な声音で呻いた。

「……僕の、利き目だ……」

 たとえ彼が本当にそれをしようとも、自分が都に残ることは許されない。この取引はけして成立しないのだ。しかし、ハッサンは〝優美ザリフ〟に向き直った。ゆっくりと、後頭部でむすばれた組紐を解く。視界を灰色に覆っていた布が取り払われる瞬間を、〝優美ザリフ〟は食い入るように、限界まで見開いた瞳で見つめていた。

 彼の行為と求めるもの、即ち自分が残ることは、確かに等価である。

 自分の中の神が、自分の口を借りて彼に告げた。

「片方ではだめだ」

 〝優美ザリフ〟の表情が憐れなほど引き攣った。真っ青な唇が震え、血の気は失せている。

「その短剣がお前の黒を抉るなら、俺の青はお前のものになろう」

 だが、そうしたならば、二度とお前が俺の青を見ることはない。

 突きつけた言葉が、〝優美ザリフ〟をどのように打ちのめしたかは、すぐに理解できた。

 小刻みに痙攣する手から剣が落ち、地面で一度跳ね返った。柄や鞘の細密画のように美しい装飾が燃えるように輝いた。〝優美ザリフ〟が崩れ落ち、地面に膝をつく。両の手で顔を覆い、慟哭した。

 傷のない美しい瞼から、涙の粒があとからあとから溢れだしてきていた。ハッサンは鳥のようにふるえる体を抱きしめながら、幾度も首を振った。

 盲になる恐怖に抗えなかった。神によって与えられる、絵師にとって至上の幸福であるはずの闇が、〝優美ザリフ〟には何よりも怖れる悪夢でしかなかった。彼がすべてを捨ててでも求める大切なものは、盲になることにより神より与えられる美ではなく、彼自身の黒い瞳で、彼自身が見出す美であったのだ。そしてその美たる青を目の前にしながら、引き換えにその瞳を失うことを知り、彼の中の天秤は折れた。たったひとつ求めていた、描きたいものを得るために、それを描く術を捨てなければならないと突きつけられた彼の心情は如何ばかりであったろう。

 〝優美ザリフ〟はすべてを捨てることができなかった。両目を、両腕を、絵を捨てることができなかった。ただひとつの求めるもののために。それはハッサンも同じだった。立場を、人生を、信仰を、捨てることができなかった。だから失ったのだ。神の加護を。

 うわべではない、すべてを捨ててでも求める大切なものを得る機会を、自分は永遠に失った、と、ハッサンはその瞬間確信していた。

 縋りつく細い腕に手をかけ、ゆっくりと離す。震える手の温度が遠ざかるのを感じながら、最後に、真っすぐに彼の瞳を見返す。黒い濡れた瞳からながれだす涙が頬を濡らしている。その白い頬に口づけると、床に座り込んだあまりにもいとけない姿を最後に見つめ、それから、ゆっくりと戸口を開け、朝の光が満ちはじめている外へ出ていった。

 東の空はすでに明るく、晴れた青が見え隠れしていた。布越しに見るイスタンブルの夜明けは滲んだようにぼやけ、ハッサンは瞳を閉じた。

 つばめが、はるか西の空へ飛び去っていった。














 一五七一年十月七日、オスマン帝国海軍と西欧のキリスト教勢力の連合海軍による海戦が、ギリシア、コリント湾口のレパント沖で勃発した。

 結果は、オスマン帝国の大敗に終わる。この海戦に参戦したオスマン帝国海軍艦隊およそ二百八十五隻の内、二百十隻が拿捕され、二十五隻が沈没。兵三万人は、戦死や行方不明、あるいは多くが捕虜となって奴隷となるか処刑された。




              オルハン・パムク氏と えすとえむ氏に捧ぐ

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