第7話 地獄の涯てまで United States America

「デイヴ」

 俺の声はエンジン音にかき消された。サックをかき分け「デイビッド」と運転席に向かってもう一度呼ばわると、ややあって「……あ?」と不機嫌そうなハスキーボイスが返ってきた。俺は満足して、また荷物の隙間におさまった。隣のマドカズラの鉢植えから土がこぼれていた。荷台の上に、デイヴのトランクはひとつ、俺のサックは四つ。カーラジオから流れるチャートに合わせ鼻歌をうたっていると、もう一度デイヴの不機嫌な声が聞こえた。「アレックス、用も無いなら呼ぶな」

「面白いサボテンがあった」俺は大声で叫び返してやった。そうしないと、デイヴが無免許のくせに飛ばしているスクラップ寸前のジープのエンジン音と、荒れ野を吹き渡る風に、かき消されてしまうからだ。「たぶん、サボテンだ」付け加えると、デイヴは何も返事しなかった。俺に聞こえなかっただけで、たぶん舌打ちくらいはしてるはずだ。ひょっとしたらfxckingとでも吐き捨てたかもしれない。

 俺は声をあげて笑うと、衣服を適当に詰め込んだまくら代わりのサックに背中を預けた。空が遠い。からからに乾いた風が、道路脇の砂を運んでくる。この辺りの水分の九〇%はサボテンの中にあるに違いない。産湯にも困るだろう地域だ。錆びた色の空と赤茶けた荒野……いや、ここには嵐が丘なんてないか。とにかく、どんな土壌かもわからない白い砂が広がっている。Googleで位置検索しようとして、やめた。意味がない。愛用のkindle――驚いたことにキーボード付きの第一世代――も置いてきてしまったし、かさばる書籍は一冊も持ってきていない。親に秘密の買い物の記念すべき一つめの小説、「チャーリーとチョコレート工場」ですら。字の読めないデイヴが無論本など持っているはずもなく、早くどこかに――活字のある場所につかないものかと俺は首を反らせて黄土色のスクリーンがかった空を見上げた。それでから、やっぱり、活字漬けだった以前の生活からは抜け出せないのかと気づき、まるで麻薬中毒の人間みたいだ、と自分を嘲るつもりで呟いた。バカバカしい。いっそマリファナの方が何億倍もマシか知らない。目を閉じると、体に伝わる振動に意識が集中する。見た限りそれほどの悪路には見えなかったが、結構揺れる。数か月付き合った女(白茶けた金髪だった。物理の授業中によくペアで実験をした)に、ボルナイトみたいと言われた髪が目にかかる。次の町についたらデイヴに切ってもらおうと思って無造作に払った。

 荷物を枕にしていても寝心地は悪い。諦めて身を起こすと、ハイウェイの向こうの方に、なにかぽつんと見えた。標識でも、サボテンでもない。目を凝らせば、車だった。道端に停まっている。

「デイヴ。止まれ」

 運転席に身を乗り出して命じれば、あからさまな舌打ちとSxit,という単語と共に、急ブレーキがかかった。まあ、荷台にいる俺がぶっ飛ばないんだから、手加減してくれてんだろう。衝撃をやり過ごした俺が荷台から飛び降りると、ややあって乱暴に運転席側のドアも開いた。

 現れたのは、浅黒い肌と痩せぎすの長身、オリエンタルな切れ長の、金属を瞳孔からゆるやかに融かしたような灰色の目が、風になぶられて舞い上がる小麦色の髪に隠される。ヨーロッパと南アメリカからの移民同士の混血児。エキゾチックな見かけに反して、奴は労働者階級の半分以上スラングで構成された英語しか喋れない。おまけに字も書けない――でも、他のことはなんだって出来る。ハイスクールに通って、本の知識ばかりをのみこむお利口さんよか、よっぽど頭がいい。だが奴はなにも言う気はないようだった。俺が降りたから、仕方なく運転席から出たようなもので、俺の背後でそっぽを向いて立っているだけだった。

 俺はデイヴの分まで愛想のいい笑みを浮かべて、驚いて固まっている中年の男に言った。「ハロー。元気?」

 男の横をすり抜け、車の脇にかがむ。適当に色んなところをチェックして、先ほどまでの俺たちのオンボロジープと同じ状況だと判断して、そっぽを向きっぱなしのデイヴを振り返って、オイルだよな、と唇の動きだけで問うと、ぶっきらぼうな首肯が返ってきた。

「オイル切れだよ。おっさん、ここの道を真っすぐ四マイルくらい行きな。ゴー・ストレイト。寂れてるが、オイルくらいなら手に入れられる町があるぜ」

 俺の存外まともな英語を聞いて、男は目を見開き、戸惑ったように礼を言った。「あ、ありがとう。助かったよ」

 わりにちゃんとした発音だ。たぶん字も書けるだろうな、と俺は値踏みし、とびきりのスマイルを浮かべてやる。「良かったな、おっさん。俺達がここを通りかかって」

 でなけりゃあんた、このままここで立ち往生だ、と笑えば、男もつられて少しだけ笑った。なんでこんなとこいんの? とフランクに訊くと、「故郷がこの先の町でね。久々に帰ろうとしたらこの様さ」と、頭頂部が薄い頭をかく。穏やかそうな眉尻をした、特徴のない男だ。

「君たちは……」男は少し口ごもった。目線が訝しげ。「どうしてこんなところを?」

「ああ、俺達? 俺達はね、逃げてんの」

 男は理解できないという表情をした。解りやすく、もういっぺん言ってやる。「逃亡中。若者ふたりでグレイト・エスケープ」

「映画みたいだね」男は月並みな感想を洩らした。つまんねえ、と思いながらも表面上は愛想よく、「そうそう。ボニー&クライドみたいな感じで」ギャングの仲間はいないけど、と言うと、男は少し笑う。

「じゃあ君達はなにをしたんだい?」

 半分笑いながら男も訊いてくる。ああジョークか、と合点のいった表情をしている。俺も笑い、男の耳元で囁いてやった。とびっきりの秘密を打ち明けるガキみてえな、馬鹿げた口調で。

「―――親殺し」

 男は一瞬目を見開いて、瞳孔が痙攣する。しかし、それだけだった。はぁっと息を吐いて、趣味の悪い冗談だ、とでも言うように眉根を寄せてから、唇を震わせてまた笑う。乾いた笑いだ。砂漠の風より。つまんねえジョークに付き合いで笑うような。

「それは大変だ。行先はどこまで?」

 妙な問いに、俺も笑って「逃亡生活に終わりなんてねえよ」世界の涯てへだって逃げ続けるのさ。男はそれもそうだ、と言う。笑みを含んだ目。行きずりの人間とかわすジョークを楽しむ目。休暇を遣って旅をしている若者ふたり、くらいに思ってんだろう。まあ間違っちゃいない。人生の休暇だ。ハイスクールは辞めた。優等生のアレクサンドルはうんざりだ。休日にヘルメットとゴーグルで顔の半分を隠して怯えながらバイク転がすような生活はまっぴら、そんな同級生たちにさっさと別れを告げて、俺はエリートコースから見事なドロップアウト。後悔なんざしてない。

「アレックス」

 苛立たしげに呼ばれる。男の視界から外れるような位置で、デイヴが舌打ちをする。

「ごめんね、俺のツレ、気ィ短えの」

 俺は男に手を振り、一足先に車に戻ってしまう友人の後を追う。「よい旅を!」叫ぶと、男も同じ言葉を返してきた。旅ね。思わず笑いがこぼれる。

 荷台に乗っかると、珍しくデイヴの方が運転席から振り返って、剣呑な目つきで睨んできた。

「ばれたらどうする」

 肩を竦めたら、無言で前を向かれてしまった。エンジンをかけると、ジープ全体が大きく揺れる。これは相当おかんむりだ。捕まりたいなんて思ってねえよ、と返すと、そういうことじゃない、と低く言われ、容赦なく車体が傾いで急発進する。荷台を転がって肩をぶつけたが、怒らせたのは俺だから仕方ない。

「あんなこと言って。顔覚えられたぞ」

 俺だけでも車から出なきゃよかった、と吐き捨てたデイヴに「あいつが警察に言わなくても元々追われてるだろ」と返すと、車のスピードが上がった気がした。デイヴが、自分だけでも車から出なければよかったというのは、自分の方が特徴的な外見をしていることを鑑みての発言であることを充分に承知してる俺は、「お前となら撃たれて死んでも構わねえよ」とからかうように投げかける。勝手にしろ、と怒鳴られる。何度も言うが、邪魔になるなら置いていくからな、という言葉の裏を読み取り、俺は小さな声で呼ぶ。「デイヴ」

 俺の声は、奴に届いたかは解らなかった。

 あの男がみつけるのは、ピストルで撃たれたオイルを売る店の主人と、壁に描かれたfxck youのペンキ文字、荒らされた店内。俺は三つめのザックを押さえた。布地越しに、硬い鉄の感触が伝わる。Stay with me, 使い古された決まり文句がカーステレオから流れてくる。なぞって俺も口に出す。ステイ・ウィズ・ミー。似たタイトルの映画を思い出すけれど、俺たちはあんな青春は送ったつもりはない。

 どうして男にあんなことを言ったのかは説明できない。罪の意識に耐えかねて、でもないし、自分たちのやったことを誇示したいわけでもない。……まだ、現実を受け入れかねているだけかもしれない。今車をUターンさせて戻れば、そこにはオイルを売る寂れた店で、主人がマリファナをふかしているかもしれない。不機嫌なツラで運転席から降りようともしないデイヴに代わり、俺が愛想よく言うのだ――おっさん、オイル切れなんだけど、いくら?

 そう、どんな時でも、俺があいつの前に行動するのだ。

 薬中とアルコール漬けの親父の頭に風穴を開けて茫然としてた友人の手を掴んで、ガレージのジープを盗み、生まれ育った州を逃げ出したのは俺の方だった。そのことを、今でもデイヴは気に病んでる。

 ふとした時にそのことを口にするデイヴに、勝手についてきたのは俺だよ、と言うと、言葉少ななあいつは苦しそうな表情で押し黙る。本心なんだけどなあ、とサックに身を預ける。マドカズラの葉が揺れる。乾いた砂塵が、空を黄色く霞ませた。膝に埃が白く積もっているのをみて、俺は息を吐く。ステイ・ウィズ・ミー。呼気に混ぜて呟く。デイビッドがどう思おうと、アレクサンドルはどこまでも共に行くだろう。デイヴとアレックス、俺たちは共犯者だ。俺はあいつとどこまでも逃げるだろう。

「I will stay with you」

 囁いた声が、風に吹き散らされる。


「地獄の涯てまで」





                   Till the end.

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