第8話 イタリアン・ラプソディ

「ロベルト・ジュリアーノです。――イタリアから来ました」

 お高く止まった、というよりも、もっとずっと冷ややかな――まるで道端に落ちてる腐りかけの果物をみるような声で、ぼくたちの前で自己紹介した彼は、ふいっとその彫刻みたいにかんぺきな額から鼻筋までの梁をさらしてそっぽを向いた。

 ぼくたちは十五歳の日本人で、彼は十五歳のイタリア人だった。彼はその真っ赤な髪を揺らして、教室にひしめき合う黒っぽいばかりの頭を見下ろして、地中海的なエメラルドの眼をまたたかせた。彫りの深い目元の縁をなぞる細い眉も暗い赤で、最初に名乗ったきり閉じられている唇は、温室で育てられてるラン科の植物の花弁みたいだった。ざわざわと彩度の低いさざなみが起きている教室のなかで、黒い学ランでも紺色のセーラー服でもない、白いブレザーを着ていた。制服のそれのように野暮ったいシルエットじゃなくて、オーダーメイドで、彼の細身に合わせたような丈の短めのジャケット。目を瞠るほどの長身ではなかったけれど、なんだか、海外のメーカーのこしらえたマネキンのような、そんな体つきをしていた。

 彼は学校にいる間、つんと澄ましていて、休み時間になるとどこかへ行ってしまった。クラスメイトはみんなひそひそ囁きあったけれど、そんなの意に介さないというふうだった。かんじわるい、誰かが言ったことばがまたたく間にクラスすべてに広まった。かんじわるい。ほんとうにそうだろうか。ぼくは彼を見ていた。彼はエメラルド・グリーンで何かを探していたようだった。前を向いてつんとしている間も、その地中海のなかに、きっとなにかがある気がした。

 下校時刻は午後四時だ。三々五々、みんながおなじ鞄を背負って教室を出ていく。彼は悠然と、奇麗な濃いブルーの鞄をもって、教室を出ていった。ぼくも教室を出て、下駄箱を出て、校門を出た。すると、ぼくが帰る道の数十メートル先を、イタリア人の転校生が歩いているのを見たので、小走りに追いかけて、横へ並んだ。足音をきいて振り返った彼は、黒い髪をなびかせて走ってきた日本人に驚いてちょっと立ち止まった。ぼくはちゃっかり隣にならんで、長年の友達に言うみたいに気軽に、けれどしっかりと礼儀はわきまえた声音で「こんにちは」とあいさつをした。彼も戸惑ったふうに「こんにちは」と言った。

「家はこっちなの」「……」「ぼくの家は海辺なんだ。きみもそう?」「……ちがう」「じゃあ山の方?」「……」

 ロベルトはほとんど答えない。質問ぜめはよくないのかなと思って、ぼくも黙ることにした。彼から話しかけてくれるのを気長に待とう。その気配はないけれど。

 この町は潮の匂いがすると、外の人は言う。けれどこの土地で生まれ育ったぼくにはわからない。午後四時の薄ぼんやりした陽光に灰色にゆらぐアスファルトを歩く。道路にはまゆうの葉がくたりと垂れていた。二人分の影がすこしずつ進んでいく。その影がこっちをみた。

「……なんでついてくるの」

「家がこっちなんだ」

「そうじゃなくて、どうしてわざわざ話しかけてきたの」

 日本語が上手いなあと思った。日本人と話してるみたいだ。「正直、意味わかんないんだけど」

「ぼくも意味がわからない。だから話しかけようかなって思ったんだ」

「きみ、頭がおかしいの?」

 おかしくなんてないと思うけど、もしかしたらそうかもしれないから、頷きも首を振りもしなかった。ロベルトは薄気味悪そうにぼくをみると、ふんと鼻を鳴らして前を向いた。

「日本なんてロクなところじゃないね」

 彼は唐突にそう口火を切った。「街がきれいだなんて嘘ばっかりだし、小汚くって、アートのセンスがかけらもない。原色の看板ばかり掲げて、いまいましい電線をはりめぐらせて、無個性で無秩序に建物をふやしていくばっかりの都市に、昔ながらのうつくしい風景は失われて、半端なものばかりが寄り集まる田舎」

 突然の罵倒に、ぼくはふんふんと聞き入った。興味深い意見だ。日本人のクラスメイトにもとげとげしかったのはこの意見のせいかなと思った。そうしたら、続いた彼の発言がそれを裏付けた。

「人間だっておんなじさ。みんな同じ服、同じ表情、集まってるところなんて波止場の汚れた泡みたいだ。……ゴミに混ざって浮いてる、油分の泡。……退屈だ」

 そうかあ、退屈かあ、と思った。そうかも。ぼくも意味がわからないと言われたし、目の前を歩いていたから話しかけようと思っただけなんだけれども。ぼくも泡の粒に過ぎないのなら、彼の対応ももっともだ。ぼくは深く頷いた。

「そうだね。日本はそういう国さ」

 ぼくが肯定すると、ロベルトは軽蔑したふうに目を細めた。自国の文化に誇りを持てないなんて、という目だった。彼のエメラルド・グリーンの瞳はひどく雄弁だ。

 沈黙がおりた。海辺の道は砂に薄くおおわれ、足を踏み出すたびに靴底で見えない粒がこすれる。

「……ねえ、本当に、きみ、なんなの?」

 不気味なものを見る目でロベルトに訊かれた。なんなの、と言われても。まあ、そうだな。何から話そうか思案していると、ロベルトの足が早まった気がしたから、ちょっと速度をあげてついていく。何から話そう。まず、肯定的なこと。そう、たとえば好きなことから。

「ぼくはね、旅をするのが好きなんだ」

 そう言ってみると、ロベルトは訝しげに眉根を寄せた。どこへ? 訊かれたから「どこへでも」と言うと、わけがわからないという顔をされた。ぼくは微笑む。「ぼくはね、空想のなかで、どこへでも旅をするんだ。形而上的、ってやつかな」

 ロベルトの顔が、何言ってんだこいつ、みたいな表情になった。形而上的って難しかったかなと思いながら、ぼくは彼の瞳を見つめる。彼は少し驚いたふうに瞬きをしたから、ぼくは彼の故郷へ形而上的に旅をしたときのことを話そうと思って、口を開いた。

「イタリアっていうのはね、そう――水と深い関係があるんだ」

 ぱちん、彼の瞳がまばたきをして、翠色がはじける。ぼくは思い出の引き出しをひっぱりだして話し始めた。

「青と白がよく似合って……そう、灯台がある。白くて、ろうそくみたいで、真っ青な空を背景に、浜の植物におおわれた海辺の崖の上に立ってるんだ。そこには灯台守りがいる。それはおじいさんなんだ。片足が不自由だけど、しわに埋もれた瞳は黒みがちの青い目で、それはまるで、渡り鳥のまなざしのようなんだ。

 夏になると、おおくの人が海辺へやってくる。けれど、誰もそこへは行かない。灯台っていうのは閉鎖的なところで、あの白くって細い塔のなかにはぎっしりと機械がつまっているもんだとみんな思い込んでるんだ。ピンクやラベンダーのむぎわら帽子をかぶった女の子や、パラソルをさして、銀のつぶが弾ける、炭酸水の満ちた、エメラルドの水平線のかなたを眺めているひとはけっして気づかないけど、ふと、誰かひとりの男の子が、三日月型の湾の端をみて、叫ぶ。――〈灯台だ!〉」

 かなたを指さし、言う。ロベルトがつられたように、道路のずうっと向こうを見た。ぼくの指さした、見えない灯台を。

「……こんなふうに、イタリアへ来る人は、皆多かれ少なかれ水ってものに魅かれてくるんだ。そのなかで、少年だけが、灯台に気づくだろう。それは甘美な秘密なんだ。……次の年の夏には、忘れてしまうような。

 少年じゃないひとたちは、イタリアの水を見に来る。きっと、ロマンチストな人々はまず真っ先に、ヴェネツィアを夢みるだろう――水の都。

 ヴェネツィアでは、ゴンドラが、色彩がまだらに眩くうごめく青い水路を縫って、煉瓦造りの縦に長い建物の群れを抜けていく。……煉瓦は土色だけど、それはすごくあざやかな色だ。陰影は濃く、影は黒と、それ以外。すべてのものに厚みがあって、ぎっしりと満ちた賑やかさが、強いコントラストで迫ってくる。

 太陽がラグーナに沈みゆくときに外へでれば、街の足もとにたゆたう波と、黄色や白の壁の色をした建物がヴェネツィアの青に染まるとき、道ばたの旅行者は時を忘れたように皆足を止めて、空を見上げる。それがまた、夜が始まるときめきとさみしさがまざりあった、いい色なんだ。

 マスカレイドの晩は、きっとみな、誰が誰だかわからない仮面をつけるだろう。――青と白のマーブルに、金のスパンコールの縁取りをしたものかもしれないし、銀いろの房のついた、綾のもようの、輝くワインレッドのやつかもしれない。縁のめくれ上がって、孔雀の羽根と大きなてのひらくらいの宝石のついた帽子をかぶって、王様よりすごいマントを引きずって歩く人もいる。妖精のような羅紗の上着を、カラフルな革紐を編んだベルトで留めて、つまさきの尖ったブーツを履いて駆け回る人もいる」

「そんなんじゃ……」

 不意にロベルトが呟いた。ぼくは口を閉じて、彼のことばの続きをまつ。けれど、途切れた先は続けられることなく、彼は何度か息を吸い込んで、それからやっと繰り返した。

「そんなんじゃあ……ない」

 ぼくはただ黙って彼の横顔をみていた。

 潮風が吹いて、ロベルトの赤毛とぼくの黒髪をなぶる。夕焼けと夜が混ざり合うみたいで、素敵だった。

 言葉を探しあぐねたロベルトが髪をかき上げてしまい、イタリアと日本の夕まぐれのコントラストが消えてしまう。彼はどこか寂しそうに喋りだした。

「ジャッポーネが黄金の国なんて幻想はもってないつもりだった。

……でも、こんなに落差があるなんて、思わなかったんだ。

ぼくは四季の美しい、Esotico……エキゾチックな国を――神秘につつまれた極東の島国を……想像してた。桜が雲みたいにたなびいて、木の清々しい香りのする建物が整然と並んでいるなかを、豪奢な絵画みたいな漢字と、無邪気であいらしいひらがなと、レトロで清廉なカタカナが混ざり合ったたくさんの文字が、輝くような墨で書かれている……」

 彼の語る日本は、確かに素敵なところだ。ぼくも行きたい、と思わせる。形而下の日本、つまりぼくと彼が今いるこの町なんかを見ると、ほとんど剥がれたシャッター商店街の看板や、ところどころ消えたネオンの、パチンコ店の看板は、なるほど清廉でも無邪気でもない。けばけばしいけど、退屈だ。桜の木は校庭に植わっているかもしれないけれど、咲いた花の印象はあまり残っていない。

 落胆が彼を頑なにしたのだとわかり、ぼくは納得がいった。期待したのとちがった日本人はよどみに浮かぶなんとやらに見えたとしても不思議はない。形而上的に水と関係の深いイタリアも、ほんとうは違うかもしれないのだ。ロベルトに言わせれば、「そんなんじゃない」。

 でも、落ち込むことはないとおもうなあ、と言ってみた。

「きみの思う日本だって日本なのさ。形而上的な日本だよ。形而上的なイタリアは美しいし、形而上的な日本だってきっと美しいだろう。それでいいのさ」

 そう慰めると、彼はこっちを見て、変な顔をした。慰められたのかはわからないけど、ちょっとだけランの花のような唇を開けて、息をついた。

「きみって、変だよ」

 そう言われたから、腕を組んで、ぼくのどこらへんが変か考えてみた。よくわからなかったけど、ロベルトの表情が少しだけ晴々してたような――少なくとも、遠くの灯台を見つけることができるくらいの天気模様に変わっていたから、なんだか嬉しくなって、わからないことを考えるのはやめた。変でも、よいのだ。

 海辺の道は道半ば以上きていて、もうすぐ二つの道にわかれる。片方は山へ、片方は海へ。ぼくの家は海辺で、彼の家はたぶん山だ。彼の頑なな態度はほんの少しほぐれたかもしれないけど、もうちょっとでぼくたちはわかれてしまう。明日も出逢えるから、いいけれど。

 なんとはなしに感じていた開放的なさみしさを、隣のロベルトも感じていたらしい。少しあいた二人の距離の向こうから、ふとこちらを見て、控えめにまばたきした。

「ねえ、……僕の日本語って、へん?」

 ぼくは首を振った。「いいや。とても自然だ。ずっと日本で暮らしてたのかなっておもうよ」

「Mammaが教えてくれたんだ。……」

 そういうとまた俯いてしまった彼に、「どうしたの?」と訊く。彼は戸惑ったように何度も夕焼け色の睫毛を瞬かせ、「……自信がなくなったよ。僕、本当に間違ってない?」エメラルド・グリーンが波間のように揺れる。大丈夫だとも、と請け合うと、彼は小さな子供みたいに首を傾げた。

「でも、〈ぼく〉って、男の子が使うことばじゃないの?」

 彼は、ぼくの目を見た。ぼくは、イタリア人の少年の瞳が、ぼくの胸元やスカートから伸びる足、長く伸ばされた黒い髪を見ていることを承知で、彼のエメラルド・グリーンに微笑みかけた。

「日本っていうのはそういう国なのさ」



                 Fine.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る