第9話 ヴェネツィアン・ラプソディ

 アドリアの海の女王、あまりにありふれた称号の組み合わせ。だがそれがこれほど似合う地もない。女王。まさにその言葉が相応しい。アドリア海の最深部、ヴェネツィア湾にできたLaguna di Veneziaの上に築かれた、運河が縦横に走る水の都。花を飾ったゴンドラや渡し船が、歌いながら船をこぐゴンドリエーレに導かれ、天へ伸びる鮮烈なコントラストの建築の合間を抜けていく。女王、真珠、どれほどきらびやかな二つ名もその麗々しさをあらわすに足りない。

 この美しい要塞に生活する人々が、そのことを誇りに思う気持ちをどうして分からずにいられるだろう。彼は連綿と受け継がれた美の血脈を肌に感じながら、浮き立つ気配の街中をそぞろ歩いていた。

 夜があちこちの水路をたどり、都市中を浸食しようとする頃合いだった。空はまだ薔薇を燃やすように渦巻き、情熱的な炎が淡い紫や青と混じり合いくすぶる夕刻を示しているが、街にはあかあかと火がともり、カンテラや燭台を掲げた人の姿も見受けられる。宮殿の天井まで届くような結い上げた髪、帽子の飾り、地をはく絨毯のようなマント、まるで森のような上着、鳥籠のようなスカート、そして、その主は、皆仮面をつけていた。

 ヴェネツィアのカルネヴァーレ。虚飾と自意識と峻別の渦巻く仮面舞踏会。おどろな祝祭。サーカス、ジプシー、マジック・ショウ、それらを合わせたように不穏さがそこにある。ひしめく顔、顔、顔、それらはすべて虚構である。笑い声をあげる動かぬ口元、ピノッキオのような鼻、黒い種子の形をした眼窩、垂れ落ちる髪すら不吉な銀である人々もいる。子供が恐る恐る、それでいて好奇をあらわに、それらの足元を走り抜ける、その幼い顔にすら、甘く装飾された羽根のような仮面が目元を覆っている。

 運河の畔には多くの、中世の絵画から抜け出したような人々がさざめいている。ブーゲンビレアやハイビスカス、南国の麗々しい花を、透けるような薄衣で幾重にもまとって、眩しい白の仮面が照り映える……鏡をふたりのあいだにおいたかのように対称なゴンドリエーレ。金のモールを滝のように下げた雛罌粟のオレンジ色の帽子の下に、いぶした金で蔓草模様を描いた仮面をつけた女が通る。中世の鎧に無数に花を溢れさせた騎士が、孔雀と見まがう豪奢な羽根飾りを揺らして行き交う。今しがた低い笑い声をあげたユニコーンのような角を生やした人物の仮面は、石を砕いたような細かな中東風のモザイクで、襟を高く立てたマントはペイズリー……松かさ、菩提樹の葉、カシミヤの花。背の高い人物とすれ違う、白地に銀で幾何学模様。アラベスク。顔を振り向けるたびに、仮面の頬を光が奔る。Ciao, 耳慣れた母国語の挨拶に、微笑み、返す。

 橋の上にさしかかる。細身のゴンドラからはみ出しそうなドレスをまとったご婦人方の宝石が水面のさざなみと同じくらい灯りを反射し、水路中が万華鏡のようだった。橋桁に身をまかせ、少し体を水の上へ乗り出す。ゴンドリエーレの歌があちこちで混ざり合い、反響し、ひとつの音の渦となっていく中で、橋の上に手を振る乗客たちは、仮面の奥に眼差しを秘めている。

 一隻のゴンドラが、音もなく近寄ってきた。客引きか、と訝しく思ったが、ひとりでそれをこいでいるゴンドリエーレは、一言も発さずに、橋の下で船を止めた。その船の中を覗き込み、彼は驚いた。船底は無数の花に埋め尽くされていた。紅や黄の薔薇、ひと際芳香を放つ百合、船の揺れに合わせ蠢くジャカランダ、ダリア、ミモザ……贅を凝らした饗宴に目を奪われた。その中に、ひとり立つ仮面の人物。

 深い青の帽子が、豪奢な果物籠のようにひだを寄せた絹やリボンで溢れているが、そのどれもが波間のように青と白だ。ビーズも、宝石も、何もかも。足元に波紋をつくるマントも、光沢のある深い青。シンプルに一色で織り上げた良質の糸の一本一本が光る、素晴らしい布だった。その人物が顔を上げ、橋の上の彼を見た。

 顔の上半分を覆う青と白の仮面に、金のスパンコールとスワロフスキー・ビーズが打ち寄せるさざなみのように細密かつふんだんにあしらわれていて、こめかみの部分から下がる控えめな金の房が耳元でたえず美しい音を立てる仕立てである。そのゴンドリエーレは、船底を棺の献花のように埋め尽くす極彩色のなかから、ひとつをゆっくりと拾い上げ、こちらへ差し出した。

 濃い紅色と紫の、妖艶なアネモネだった。かろくそれらを黒紙と縁が波打った銀の紗でくるみ、薄紫のリボンで腰を巻いた、Esoticoな花束。

 彼はそれを受け取りながら、貝殻の内側のように磨き上げた爪の先で、その人物の指を弾いた。手袋越しに、かたい金属を弾く感触。骨董のシンプルな指輪。奇麗に磨かれた様さえくっきりと思い描ける予想通りのそれに、彼は侮蔑的に舌をひらめかせ、受け取った花束を水路へ抛る。緑や青、さまざまな色に濁ったヴェネツィアの水の上へ。一瞬、リボンが無数の灯りのきらめきの上を通過し、不意の水音と共に水中に没す。あとには何も残らない。

 ゴンドリエーレはそれをじっと見ていたようだった。仮面に隠された目が、水面に残る波紋ときらめきをたどっている。

 やがて彼はゆっくりとこちらを振り向き、カルネヴァーレの灯りにてらされた暗い赤の唇をひらいた。

「どうして判ったの?」

 はずされた仮面の下の瞳は、憂いを帯びたようすで優しく瞬きをする。ゆっくりとあらわれた顔立ちは見知ったもので、わからいでか、というように橋の上で彼は鼻を鳴らした。

「ルチアーノ」

 橋の上から名前を呼べば、青年と少年の端境期のような体つきの彼は、アドリアン・ブルーの瞳を細め、少し掠れた声で囁いた。

「……おかえり、ロベルト」

 ロベルト、と美しい発音で呼ばれた橋の上の少年は、豊かな赤毛をかき上げた。かがり火のように燃え立つ紅によく映える、黒いアイアンワークの繊細な仮面で目元を覆っている。その隙間から、地中海的で鮮烈なエメラルドが光った。

 彼の衣服は至極シンプルなブレザーだ。正真正銘ただの黒、喪に服していると思わせないのは、中に着込んだ烈しい朱。鳳凰の尾羽よりも火に近い、極東の色。青い少年はその鮮やかさにくらりとする。足の下、板一枚隔ててそこは水だ。まばたきを繰り返し、オールを強く握る。

「いつ帰ったの?」

「二日前。サンタ・ルチアで二泊した」

 微笑む唇がアンスリウムの真っ赤な花弁のような、耽美で頽廃的な艶をもつ。十五歳という年齢に似合わない魅惑的な笑みが、人を惑わす悪魔のそれに似ていた。目元を覆う黒い仮面もその印象を強める。何せ今夜は仮面舞踏会だ。目の前の少年が、昔馴染みの彼だと誰が言いきれるのだろう。

「……乗って」

 ルチアーノは花に埋もれたゴンドラを指した。ロベルトは目を細める。そして顎の動きで、ゴンドラを岸に寄せるよう指示した。その横柄な態度にルチアーノは苦笑し、言われたとおりに寄せる。橋を渡り、軽やかな足取りで傍らにやってきたロベルトの、磨かれた革靴のつまさきが花を踏む。ゴンドラが揺れ、花びらが舞う。煽情的な妖美さを持つ花々の上に、無造作にロベルトが腰をおろしたのを確認して、何も言わずにルチアーノはこぎだした。乱舞、喧騒、混沌とした美の饗宴から遠ざかるように、ゴンドラは狭い水路をたどって、奥へ奥へと進んでいった。あとに花を散らしながら。

 ジュデッカの運河に沿った道に、「不治の病人たち」というおぞましい名のついた河岸がある。以前は病院だったというそこには緑の茂みが小さな水路に姿を映す、しずかな庭がある。少し奥まった地区にあるここは、かまびすしい観光客がひしめくこともない。退屈そうに、蘭の肉厚の花弁を毟っていたロベルトが、緩慢に立ち上がった。ひらり、その痩身が岸に飛び移れば、ゴンドラは大きく揺れる。繊細に飾り立てられた舫い綱を結び、ルチアーノもマントをひるがえして岸へ降りたった。錆びついた門を開ける音が大きく響く。庭にはつつましい草の香気と青い夜が、霧のようにあさく満ちていた。そこに、ふたりは足を踏み入れる。長身のルチアーノの影がロベルトの上に落ちる。ふと彼は振り返ると、ルチアーノの柔和な顔立ちを見上げて瞬きをした。睫毛が上がると、驚くほどあどけない顔立ちに見える。仮面に指をかけ、そっと外す。ルチアーノの行為に、ロベルトは瞼を閉じ、硬い感触が離れるのを待つ。あらわれた素顔に、見知った面影をみとめてルチアーノは息をつく。

 水路から街のようすが見える、岸辺の菩提樹の下にふたりは腰をおろした。

 夕焼けが最後の輝きを放ち、消えゆく昼を惜しむようにヴェネツィアが染まっていた。半ば以上夜に浸食された暗がりで、ロベルトはどこか陶然と呟く。

「夜が始まるときめきとさみしさがごっちゃになった、いい色……」

 歌うようなイタリア語を聞いて、ルチアーノがマントの襟を掻きあわせる。まるで風から身を守ろうとする旅人のような仕草だった。

「君らしくない言い回しだね」

 どうしたの、と言いたげな瞳が、冬の海のように重たげな色をみせた。それにも構わず、投げやりに「そうかもね」と言い、夕焼けを見つめる。冬は灰緑色に曇るアドリアの海、ロベルトは見慣れた景色を思い返す。記憶と情景がまざりあい、世界がほどけていく気がした。ヴェネツィア。故郷の景色。

 傍らのルチアーノは、居心地が悪そうにすこし身じろいだ。マントの裾の波紋が広がる。

「日本はどう? うまくやってる?」

 ロベルトが何も言わずにいると、ルチアーノは膝を抱えた。芝生に広がる深い青のマントの、古めかしく艶やかな光沢がひどく現実離れして見えた。外した仮面を指先でもてあそびながら、ルチアーノは、少年の名残が消えゆこうとする掠れた声で囁いた。

「日本は美しいところだときいたよ。……」

 ぼくも行きたかった、という詞は、紙がかさつくような咽喉の奥で消えてしまった。

 ロベルトは遠くを見ていた。運河の先、アドリアの海、そしてその向こう。何にも遮られることのない眼差しが瞬いている。地中海に夕陽が輝いている。薔薇が燃ゆるエメラルドが、瑪瑙のように混ざり合い、その瞳に吸い込まれそうになる。アドリアン・ブルーを燻る残り火のように曇らせたルチアーノも、彼の視線をたどって遠くを見ようとする、が、できない。目に映るのは、少し曲がって高く上に伸びていく狭い建築に切り取られた、ヴェネツィアの黄昏のみだ。

 見たことのない東洋の島国。東の涯て、太陽の昇る国。

 美しいというその国を見た彼はしかし、ふ、とゆるめた唇から甘い呼気をこぼし、呟いた。

「……汚いよ。この運河と同じくらい」

血管のような水路の流れは、質のよくない翡翠の濁った緑によく似ていた。湿気があって、臭気を強く鼻にはこんでくる。腐ってにごって底のみえない水のにおい。死のにおい。

 海に浮かぶ美しい要塞、ヴェネツィアには、すべてがある。花も、芸術も、戦争も、恋も、愛も、死も。美しさも醜さも。すべてが混ざり合い、蕩けて蜜のような極上の腐臭を放つ。その甘美な頽廃こそが、きらきらしくあざやかなイタリアの水の都の髄だ。

 ルチアーノは、彼の横顔を黙って見つめていた。青白く照らされる輪郭は宗教画の聖人にも、天使にも見えた。幼い頃から見慣れたはずの彼が、それでも手の届かないところに行ってしまったようにふと思われた。故郷を離れると人は変わる。何かが彼を変えてしまったのだろうか。ルチアーノは若木のように際限なく伸びていきそうな手足を小さく折りたたみ、身をできる限り縮こめる。なりばかり大きくなって、自分は何も変わらないままだ。

 人の声も楽器の音も、遠くでまぼろしのように響いている。その宴の賑わいは、ふたりの少年がひそやかに身を寄せる庭には届かなかった。

中世を模したまがいもののカルネヴァーレが妙なる美を放つ町並みから少し隔てて、こんなにもしずかな場所がある。

「誰も、気づかない」

 ロベルトは口角をゆるく持ち上げて、隠された庭の空気を吸い込む。自分しか知らない。気づかない。少年はその秘密の甘美さと脆さを何よりもよく知っている。……来年の夏には忘れてしまうような、そんな一瞬のきらきらしくてほの暗い果実に似た。ルチアーノ、隣の友人を見やる。聖ヨハネの肖像のような穏やかな瞳と顔立ちによく似合うあまやかなボーイソプラノは、長すぎるほどに伸びた背と手足と引き換えに消えていこうとしていた。十五歳、少年と青年の転換期。しかし、その純粋な暗欝に似た感情を漂わせる面ざしには、いまだ十五という年に相応しい不安定さとやわらかさが揺れていた。古いなじみの少年に見知らぬ影をみとめた彼が、不安げにこちらを見ているのを知りながら、ロベルトは黙っていた。ふたりの上を風が渡っていく。

 やがて視線を外し、自らの膝に顔をうずめて所在なさげに座っていたルチアーノが、不意に顔を上げた。

「みて、……」

 ルチアーノが立ち上がり、遠くを見る。つられて少し身を乗り出すと、水路の向こうから、船影があらわれた。

 真鍮の色をしたモーターボートに、黒い被いをかけた棺がのっている。薔薇の花束についたリボンが夕闇にたなびいていた。共同墓地のあるサン・ミケーレ島に死者が運ばれていくのだ。祝祭の影でも人は死ぬ。きっと、この水の都の人々の血には、一滴の海の水が混ざっているのだ。船乗りの言い伝えを転換し、ロベルトは笑む。

 死んでも水と関係の深いままであるヴェネツィアの人々。自分もそのなかに入っている。ロベルトは傍らのルチアーノを見やった。青と白のよく似合う、ヴェネツィアの少年。生まれたときから水と共にある、ゴンドラ乗りの彼。

 かつてのヴェネツィアの民、今は遠い島国からの旅人としてここにいるロベルトは、泡立つ水路をじっと見つめている。

「……灯台へいこう」

 遠ざかるモーターボートに目を奪われていたルチアーノのアドリアン・ブルーが瞬く。体は大きくなっても、瞳はあどけない少年のままだった。「灯台?」

「そう」ロベルトは微笑み、いまだ葬列の波紋に揺られている小さなゴンドラを指さした。花に埋もれた小舟。

「どうして」

「どうしてでも」

 それ自身が輝くほどにあざやかなエメラルドの瞳は、菩提樹の葉に遮られた青い光によって、見たことのない海の色に染まっている。たゆたう波間の反射をかすかにたたえた深いブルー、それに視線が縫いとめられる。

 緩慢にルチアーノは頷いた。ゆっくりと帽子を手に立ち上がる。もう仮面はつけない。これから向かうのは舞踏会ではなく、水路をたどる秘密の航海。

 潰れた花が、重たく淫蕩な香りを振りまいている装飾的で華奢なゴンドラにつま先をつける。そのまま花を弾き、天鵞絨めいた襞が水に身を躍らせるのを見届けた。重たく青いマントを引きずった少年がゴンドラに乗り移り、櫂を手に取る。水音が響き、ゆっくりとゴンドラは水路へこぎ出した。

 日没の最後の輝きがアドリア海に没しようとしている。

舟は進んでいく。夜に満ちたヴェネツィアへ。ざわめきは収まらない。かがり火とイルミネーション、虚飾の洪水と奢侈の真髄が渦巻く仮面舞踏会が始まる。ヴェネツィアン・カルネヴァーレ。祝祭の影、限られた瞬間の輝きに、少年たちは飲み込まれる。

 ゴンドラの去った水の上には、艶やかな花びらが、残り香のようにほのかに漂い、やがて波の下にその色を消した。




                        Fine.

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