第10話 舟
舟を漕ぐ音がひびいている。
公園の池はしずかで、水面には鏡のように山景色が映っている。池を囲み植えられている槐と丹桂の枝の鏡像が水底へ伸びていた。水墨画を連想させる光景は独特で、水辺の葦が小雨が降るような音を立てて揺れる。それが、櫂でかかれた波によって崩れる。この波紋がもしも鳥の羽根だったら、舟は空を飛べるかもしれない。
さっきからずっと舟を漕いでいる
不意に、順桂が顔を上げた。詩集を読んでいた僕に、いつも少し不安げなまなざしを向け、「
僕は詩集に目を落したまま「何」とだけ返した。
「浩宇は
順桂のおっとりした喋り方は古風で、話していると不思議な気になってくる。そんなことはない、と否定すると、瞬きをして「いつも書をよんでる」と言ってきた。
「是は詩だよ」
瀝青の睛がこちらを見上げた。黄色みが薄くて、象牙のような肌をした顎の細い顔立ちが、少し傾く。
「詩……」
薄い唇が緩慢に動いた。支那語を囁く時の彼の唇は、色が悪いが端正だ。周辺地区に一万人もいない満族の血を如実に示す切れ長の目と、曇った象牙のような白い膚に、少し翳がさしたようだった。
僕が彼に構うことなく頁に目を通しているのに、少し順桂が身動ぐのが視界の端に捉えられた。
「浩宇は……」掠れた声が届いた。「
唐突に何を言っているのか、と視線だけを上げる。睫毛を伏せた順桂は続けた。
「
順桂は自分が韃靼の祖をもつことを恥じているふうに見える。…満州族は、一度中華全土を支配したというのに。彼より低い背、浅黒い膚を持つ僕は、彼の青みがかった眼球の中央の不安げな黒を冷たく拒んでいる。
順桂が
櫂の音ばかりが響いている。順桂はまた、心細げな声で話しかけてきた。
「……それども、浩宇は、ぼくの
四合院の中庭で、土をこねて焼くのを黙々と繰り返している、順桂の父親と上の兄弟の太く逞しい腕を思い返す。……学校が終わると、僕はそこへ通う。中庭の葡萄棚の下で、斑に蔓に遮られた陽光を浴びて、土をこねる。……名のない陶器だが、細々と
僕は変わらず彼の目を見ず、錆色の滲む船底に目を向けながら素っ気なく返す。
「お前の
順桂は櫂に手をかけたまま、俯いていた。僕は構わず詩集をひらいた。
船底に水の当たる音がする。
ふと、順桂が櫂を止めているのに気付いた。舟は池の真ん中に浮かんでいる。周囲の景色は絵のようにぼやけた空気感をもっている。古い水墨画を思わせるような岩山……どこからか水が流れ込んできているはずの池から水音が絶えたに等しかった。時折、塗装の剥げかかった安い船に漣が当たる。
ふと、順桂が、舟の縁に手をかけた。その白い甲に骨が浮かぶほど力が入ったのを見て、僕は詩集を投げ出して叫んだ。
「
次の瞬間、順桂は縁に体重をかけたまま水面に身を躍らせた。その重みで、小さな舟は呆気なく引っ繰り返った。直後、全身が奇妙な浮遊感、次いで水の感触に包まれる。反射的に身を強張らせたが、溺れてしまわないように耐えて目を開ける。一瞬何も見えなかったが、すぐに僕よりも深い位置に、ゆっくりと沈みゆこうとする彼の体が見えた。
僕は順桂の手を必死で掴んだ。怖ろしい力でそれが振りほどかれようとするのを、指先が食い込むほど力を入れて止めれば、てのひらはぐるりと水を掻いて僕の手首を掴んできた。互いの手首を握り合うようにして、一度水中でもがくのをやめると、僕はぐいと順桂とつないだ手を引いた。途端、無数の泡が濁った翠の視界をふさぎ、体が一瞬浮力以外の反動に沈みかける。水を蹴って、水面だと思う方向に体を浮かべると、伸ばした指先が空気に触れた。もう一度水を蹴り、反応のない右腕の順桂の手を強く引いた。顔が水面に出て、のけぞってできるだけ多くの空気を吸う。一秒にも満たないのち、順桂の重みでまた全身が水中に没す。痛い。鼻の奥と咽喉が。頑張って目を開けると、泡の隙間から、死体のように無力な順桂が目に入った。水面へ向かおうとする僕よりも底に近く、先ほどまで僕の手首を掴んでいた指先が水の中を藻のように泳いでいるのを見た途端、突き上げるような怒りがこみ上げ、僕は足を振り上げて、順桂を蹴る。腕を引くと、今度こそ指先が僕の手首に絡んだ。
水面に顔が出たとき、今度こそ沈むまいと、僕は腕を必死に伸ばして、少し先に見える船底の曲線に指をかけた。
舟は木葉のように逆さに浮いていた。それにしがみ付くと危うくまた舟が傾いてしまうから、上手く体の力を抜こうと四苦八苦している隣で、ぐったりと船底に体を預けた順桂が、湿った咳をした。そちらに視線を向けると、また憤りが込み上げ、僕は静かに彼に訊いた。
「
僕の声に込められた静かな怒気に、順桂は暫らく俯いていた。前髪から水が滴り、船底の曲線に沿って池の水面に波紋を立てていた。色の悪い貌は今は灰色がかってみえるほど青ざめ、濡れた頬は気味の悪い様子で陽光を白く反射していた。
「
順桂は囈言めいた口調で言った。啜り泣くような声が続いた。
「どうしたらいいかわからない……この先、どうやってぼくは生きていくのか、わからなくなる……」
進学か、村に残るか、それとも……僕は彼の選択肢を知らない。白い膚と切れ長の瞳の、昔に長城をこえてやってきた民族の裔である彼の。
稚拙な言葉の並びに、べたりとした依存の甘さを感じた。手足に纏いつく服や水の温度の低さも、奇妙な浮遊感の中から忍び寄る苛立ち――掻痒感に似た感覚に、知らず、頬が歪んだ。
「浩宇、きみは……きみは……」
長い前髪の隙間から、切れ長の眼光が僕を射抜く。暗澹たる瞳に宿る意志は、僕がこれまでに見たことがないほどに真直ぐに僕を見ていた。
「大人だ。きみは、先のことなんてわからないのに、まるで遠くをみているみたいで……」
この小さな村に閉じ込められた僕あるいは僕たちに、選択しなんて殆んどない。……けして良くはない高校に行き、競争社会に負けて惨めな思いをするか、この村にとどまって生きるためだけに働くか。
僕はそのことを知っているだけだ。
順桂は泣きそうな顔で僕を見ている。その奥の悲観が僕の輪郭を焼くようだ。足場のない池の上の小舟のような、先のわからない僕たちの抱く不安が人形をとってあらわれていた。
「
翡翠めいて見えた水は冷たくて、僕と順桂の膚に制服を貼りつかせるそれは味気ない無色だった。見えない枷が嵌ってるみたいに、つま先も踵も背骨にも、漣の立つ水面に没しようと重く纏わりつく。
順桂がどうしてこんなことをしたのかは解らない。解ろうとも、思わない。
僕はこれ以上彼に何も訊くことなく、舟を起こそうと試みた。ぐい、と舟の縁に手をかけて、大きく息を吸ってから、片側の縁を持ち上げて元に戻そうとする。反動で大きく体が沈むが、持ち上がらない。支点がないからだ、とどうしたものかと思うが、底は深い。
泳いで岸までいこうか、と思ったが、それなりに遠い。勿論たどり着けないはずはないが、舟に指先を引っかけるようにしか命を保つ努力をしていない順桂を置いていくのは考えられた。岸辺に人は見当たらない。……こんな時に。だが、公園というのだから、少し待てば誰か来るだろう。その時に助けを呼べばいい。
体が冷えてきた。寒い季節ではないが、頭まで濡鼠の状態では体温が奪われるばかりだ。荷物も詩集も水底だろう。……教科書はどうしたらいいだろうか。
考えても詮無いことなので、頭を振って水滴と共に余分なことを追い払う。泳ごう、と決めて、船の縁から手を離した。
身が冷たい水に浮くのを確かめて、僕は右手を、順桂のほうへ差し出した。
「順桂」
それ以外のことは言わなかった。掴めとも、好きにしろとも。
順桂はこちらを見ない。僕は手を伸べたまま、黙っている。
冷たい手が、僕の手をゆっくりと掴んだ。
了
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