第13話 ナイフ

 ぼくはきらきらしたものが好きだ。たとえば、冴え冴えとした冬の星とか。裏庭につもる早朝の雪とか。乾いた布で磨いたスプーンとか。チョコレート一粒しか買えない、ちいさな硬貨とか。あと……つくえのなかのナイフとか。

 秘密っていうのは誰にもいわないから秘密なのであって、十二歳のぼくはそのことを誰よりもよく知っていた。だからその小さな銀色のナイフは誰にもみせたことはなかったし、仲のいい友人の誰にもいわなかった。そう、誰にもだ。

 なのに、どうしてそれがなくなっているんだろう。


 ぼくのナイフはちょうどぼくの掌と指のながさを合わせたくらいの小さなもので、お母さんが林檎をむくようなそんなちっぽけなナイフだった。でも、そのかがやきは、ぼくのなかで格別の銀色だった。白くて眩しすぎるほどでもなく、ちょうどいい、魔法の鏡のようにみごとなきらめきだった。火に翳した角度をすこし変えれば無限の表情をみせ、ぼくはそれを何時間でもみていられた。そのなかに吸い込まれてしまいそうだった。

 ぼくはそれを白いハンカチでつつんで、へやの書き物つくえのいちばん下のひきだしの奥に、注意深く、雪の結晶図鑑のあいだにはさんで隠しておいた。

 ある冬の朝、ぼくがめざめていつもどおりナイフをみようと引き出しを開けて図鑑をひらいたところ、そこにあったはずのナイフが忽然と消え失せていた。ナイフをつつんでいた絹のハンカチだけが、真ん中にまっすぐに切れた痕をのこして、六角形の花の写真のあいだにはさまっていた。ぼくはこれはどういうことかと思って、さっき自分の手であけたはずのひきだしの鍵を思わず確認してしまった。ぼくがいつも枕の下に敷いて寝る、三日月のもようのついた銀の鍵は、知らぬ存ぜぬという顔でぴかぴか輝いていた。今日はクリスマスだってのについてない。学校で図工の時間に、のこぎりの使い方を習ったので、仕切り板をつくって、より安全にしておこうかなんて考えていた矢先のできごとだったので、ぼくはもっとはやくナイフをひかりから隔ててしまうべきだったと悔しく思った。一見なにも入っていないひきだしの奥の板に指をかければ、それが外れ、射し込んだひかりに薄っすらと浮かび上がる銀のきらめき。そういうふうに、空想していたのを、さっさと実行するべきだったと歯がみしたが、もうおそい。ぼくはとりあえず図鑑を端から端までめくり、ひきだしを取りだして奥をさぐり、なにもないことを確認してから、ため息をついてそれらをしまった。真ん中に、ナイフで切ってしまったらしい傷のついたハンカチだけが、手元に残った。ぼくはハンカチの中央の裂け目から部屋をのぞいて、そのあとそれをちゃんと折りたたんで、図鑑にはさみ直して、もとの場所へもどした。それから時計をみて、立ち上がった。

 とにかく、ナイフをさがさなくちゃ。

 へやの扉を押しあけると、蝶つがいのきしむ音が廊下にひびいた。そとの空気はつめたくて、冬なんだ、とぼくは当然のことを思った。冬の朝の空気は針のようにするどい。でも、針はうつくしい。銀色の、はりつめたうつくしさだ。ぼくは朝もやのような息をはき、はだしで廊下にふみだした。フローリングは凍った湖のようで、足のうらから血が雪のなかの小川のようにひえて、からだのなかに入ってくる気がした。冬の水面はすきだ。きらきらときらめくから。銀色の上に雲の灰色と冬空の青さを溶かして、周りをとりかこむ景色を、クリスマスのガラスの飾りみたいに変えて、鏡に映り込ませている。こんど、近くの湖につれていってもらおう、と思った。

 磨きこまれた床にうつる、ぼんやりとした自分の頭のかげを見下ろしていたら、ふと妙なことに気がついた。ぼくの右足のつまさきの少し前の板に、浅い切り傷がついていた。小指くらいのながさの、ちいさな傷。むかし、ぼくがまちがえて花瓶を落とした、リビングの床みたいだ。でも、ここ最近はなにも落としていないはずだ。もう十二歳なのだし、と首をひねりながら目を上げると、すこし先に、もうひとつおかしなものが見えた。ぼくはそのちかくまで行くと、立ち止まって、そのまえにしゃがみ込んだ。

 お母さんのかけかえた、冬のカーテンが、裾のふさをななめに切り落とされていた。ちょっとだけ厚い布のほうにも切れ込みは入っていて、アイボリーの糸の刺繍がすこしほどけていた。どうしてこんなところが切れているんだろう。お母さんに怒られるかもしれない、と思いながら、立ち上がってそこを通り過ぎた。

 しずかな廊下をいくと、つきあたりにくるりと半回転して一階におりる階段がある。マホガニーの手すりにふれると、てのひらがはりつきそうなほどつめたかった。足をおろすと、とん、という堅くて軽い音がした。

 階段の途中に、妹の靴下がおちていた。妹はまだちいさくて、ぼくのつまさきくらいのお母さんが編んだ毛糸の靴下を、いまはいている。それが片方だけ、おちていた。金色の糸で名前のつづられた、ミルク色のかわいい靴下は、かかとのところがちょん切れて、ふわふわした毛糸がでていた。

 ぼくはそれをひろってパジャマのポケットにいれると、一階までおりていった。普段なら、お母さんがキッチンでクリームを泡立てる音や、ハミングが聴こえるのだけれど、今朝はまだ早くて、つめたい空気はしんとしていた。そこに波紋がひろがるみたいに、ぼくの足音と白っぽい息がまじっていた。

 誰もいないリビングは、あかるい冬のひかりに満ちていた。カーテンがあけっぱなしだったからだ。ぼくは窓に歩みより、霜でちいさなアラベスクの描かれたような、つめたい窓にふれた。ガラスは氷のようで、庭につもった雪に日が反射して、まばゆくかがやいていた。でも、今日の雪は白すぎて、銀色じゃない。天使の梯子のようなひかりの束は、ぼくのすきな銀色よりも、ずっとまぶしすぎる。やっぱりぼくのナイフがいちばんだ、とうなずいて、ぼくは窓のそばを離れた。

 キッチンに行って、あたたかいミルクをのもうと思って、食卓のわきをとおったら、床にスノードロップが落ちていた。深い緑の茎がなめらかに伸びて、白い花びらがフローリングの床に広がっていた。食卓のうえにお母さんが飾った、花瓶のなかの一本だった。きれいにななめに切られた断面をみながら、ぼくは、お母さんにスノードロップたちの茎をもういちど切り直してあげるよう頼もうとおもった。

 ぼくはそのままキッチンにはいった。そこで、ぼくは、ぼくのさがしていた銀色をみつけた。

 キッチンの上で、ナイフは、クリスマスのケーキに突き刺さったまま、きらきらかがやいて立っていた。シュガーのパウダー・スノーの降りかかったケーキに、マジパンの花とたっぷりの生クリームがのっている。サンタやトナカイはいないけど、お母さんがつくったクリスマスケーキだ。この世のすてきなものをぜんぶ詰め込んだみたいに、かわいらしいケーキだ。

 ぼくはナイフを見つめた。あわいピンクとブルーの花の隙間に、ぼくのナイフが突き刺さっている。ななめに立っているそれは、まるで庭につもった雪のなかに刺さっているようだった。きらきら、銀色のなかに雪がふっているようで、いつか図鑑でみたダイヤモンドダストっていうのは、こんな感じかと思った。透明な銀のなかに、奥底からわきあがるようにひかりが差し、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとあざやかな鋭いかけらが降り落ちていった。ぼくはそれを見て、不意に、ナイフが家出をした理由にきづいた。

 物がきらきらひかるには理由があって、星がひかるのは見つけてほしいからだし、スプーンがひかるのは紅茶とまざりあって自分が溶けてしまわないようにだ。おんなじように、ぼくのナイフにもきらきらひかる理由があった。物を切るためだったんだ。

 ぼくはそのきらきらかがやく柄をにぎってナイフを抜き取り、べっとりと白いクリームのついた刃の部分をみた。汚れてはいたけれども、それは、いままでぼくがみてきたナイフのかがやきよりも、ずっときれいに、解放されたようにまぶしくきらめいているようにみえた。ぼくはそのきらめきを見つめて、そこに映るぼくの瞳に降る銀色に、まばたきした。

「おまえはなにかの役に立ちたかったんだね」

 ぼくはかかげたナイフに話しかけた。あんな深いひきだしの奥に閉じこめたっきりで、かわいそうなことをしたと思った。ナイフは、ものを切るためにつくられたのだから、きっとなにかを切ってみたくてうずうずしてたんだろう。もっとも、床やカーテンや靴下は、よけいなことだったけれど。これからは、布にくるんで図鑑にはさむのはやめて、ひかりの満ちるキッチンで、きらきらと銀にかがやいていてもらおう。

 お母さんに、果物を切るときにつかって、と手渡そう、と考えた。なんといったって今日はクリスマスなのだ。

 それじゃあ、お母さんと妹のおきてくるまえに、ケーキをきっておこう、と思って、ぼくはナイフをしっかりとにぎった。



                      End.

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