第12話 金のひつぎ、銀のくい

 蝶番のきしむ音がして、瞼のむこうがあかるくなった。蝶番っていうのは最近知ったことばで、蝶々のつがいなんて、とても詩的な名前だとおもった。ルナールだったか、蝶々を二つ折りのラブレターとあらわした詩があったとおもったけど、ぼくは自分では本を読めないから、たしかめようはなかった。また誰かが本を読んでくれないかしらんとおもったけど、今度のひとは本には興味がないのか、黴くさい書斎の匂いがしない…でも、羊皮紙のあまい匂いがした。文を書くのが好きなひと? …インクの香りもする。これはきっと、ブルー・ブラック。それと、不思議な……。

 話す声がする。ひとりはずっとききなれてる声。パパの声? ひどく苦しそう。それよりも、ずっとちいさな音だけれど、ずっときこえてる声。ママの声? 泣いてるの?

 もうひとり、誰か知らないひとの声がした。ひくくて、匂いとおなじように、不思議な声だった。やっぱり、なにをいっているのかはわからない。ママが泣く。パパがあえぐように、なにかを言う。

 この子のために最高の棺を、という声だけがしっかりと聞きとれた。



 さてどうするか、と、ジェーン・バクスターは腕を組んだ。

 子供の棺は、初めてだ。

 気が重い、ということはなかった。人の死に携わる仕事は尊い。その自負はある。人は遅かれ早かれ皆死ぬ。そのことはずっと昔から解っているつもりだ。机の上に広げた黒い表紙のスケッチブックの新しいページを見下ろす。

 ジェーン・バクスターは、ひとりの棺に対し、一冊のスケッチブックを用意する。そこに、彼女の出来うる限りの仕事の記録を、取っていくのだ。

 棺の装飾を任されるようになったのは五年前で、そこから相当の数の棺を作ってきた。木材を削り、鑢をかけ、表面を仕上げ、布を張り……彼女のデザインを元に作り上げられた木の箱が届き、ジェーン・バクスターの手でそこに、美しい装飾を施される。

 人生の最後の最後にはいる部屋。

 金属はあまりに無骨だろう、と思う。彫金もできなくはない。だが、やはり木製だと彼女は思う。コフィン型*でと注文を受けた。すでに大きさは決まっていて、工房のほうでは木材を複雑に組み合わせて形を作っている。

 表面のベルベットは何色にしようか、と思う。黒や赤が主流、けれども、子供ならば、紺色、深緑、青緑……ジェーンは、見本の布を張った大判の本を繰り、ざらついた指先でなめらかな表面に触れる。

 内装は、青か灰色かかった白で、オークの葉を飾る。

 花はどうしよう。無論、白い百合はいるが、それよりももっと似合う何かを、蓋に彫ろう。

 自力では目をあけることも出来ないのだ、と両親は泣いていた。少し瞼を持上げさせてやって、せめて美しい絵本や細工を見せてやるのだ、と、そうすると、睫毛が震えるのだと。ボタニカル・アートの書籍を特に嬉しがった、と母親は涙を拭いた。それを嬉しがっていると解釈するのは彼らの想像にすぎないが、そうでもしなければやっていられないのだろう。葬儀とは生者のためのものである、という考え方は、確かに根強い。

 それでも、棺に入るのは子どもの方なのだ。

 ジェーンは机に手をつき、大きく息を吐いた。

「なんの花が、いいんでしょうね」



 ばらが好き。

 おもわず喋って、ぼくはびっくりした。喋れる! 喋れるっていうか……これは? 思ったこと、心のそとへちゃんとでていく感じ。夢でなんども想像したのとはちょっとちがってた。ふしぎ。

 ふりかえったひとの灰色の瞳が、まんまるに見開かれていた。

 ぼくのひつぎを彫るのは、背の高い女のひとだった。長い金髪をくくっている、やせたひとだった。

「……誰か?」

 ぼくのほうをみていたとばかり思っていたのだけど、女のひとはすこし辺りを見回してきいた。ここだよ、とぼくはまた、「喋って」みた。魔法みたいだった。

 女のひとはまたぼくのほうを見て、目をきつく細めた。それから、大股でこっちへ歩いてきた。ちょっと驚いたけど体は動かなそうだった。ああ、喋れるのなら動くこともできたらいいのに。

 女のひとはぼくのすぐ前にきて止まった。ママとはちがう顔だった。顎も鼻筋もほそくてとがっていて、灰色の瞳は絵本の猫みたいで、髪は金色の河みたいにまっすぐ。なにか変なかんじ。手袋をした指が、ぼくの頭にさわった。

「……人形、ですか」

 おや。

 どうやら「人形」になってるらしいぼくは、突然頭がぐらついてびっくりした。ベッドの上で体の向きを変えるときみたいに、女のひとがぼくを持ち上げたみたいだった。

「……あなた、誰ですか」

 ぼくはじぶんの名前を言ってみた。すると、女のひとはきゅうっとまた猫みたいな目を細めた。女のひとはぐいっとぼくを抱え上げ、目線をあわせた。「私、仕事のし過ぎでしょうか」首を傾げられたけど、ちがうんじゃないかな、とあいまいに返すしかなかった。女のひとはおおきなため息をつくと、ぼくを置いて、また机のほうへ歩いていった。いま気づいたけど、ぼく…というか、今のぼくである、人形は、棚のうえかなにかに置かれているらしい。待ってよ、と、ペンを手に取った

「ばらがいい、と言いましたか」

  うん。きいろい、ちいさな蔓にさがってるやつ。

「……それ、いい匂いがしますか?」

  するよ。好きなんだ。ママが春にまくらもとに持ってきてくれる。

 すると、女のひとは何かぶつぶついいながら立ち上がって、壁際までいって、ぼくがいるのとはべつの棚から本をひきだした。薄っすらぼくが目をあけているときに、ママがしていたしぐさとよく似ていた。

 暗っぽい部屋の壁にはたくさんの本のページのような紙がはりつけられていた。ぼくは覚えることはできないと思って、パパもママも字は教えてくれなかった。寝たきりのぼくに、声で本を読んでくれた。だからぼくは字を知らない。目をあけたとき、見せてもらえたのは絵ばかりだったから。

 ぼくは夢をみた。夢のなかで、ぼくは自由だった。ぼやけた目でみた絵の風景が、はっきりとひろがっていた。

 これはそのときの感覚によく似ていた。ぼくは眠っている姿勢ではなく、横からものをみることができる。ママやパパが見せて、教えてくれるもの以外――本に載っているだけのようなものや、そのほかのものも見える。

 ぼく、いまどうなっているのかしらん。鏡がないからわからない。鏡って、いっぺん見てみたいのだけれど。ママがいうには、ぼくは絹糸みたいな紅茶色の髪に、朝の湖のようなブルーの瞳らしいのだけれど。ああ、でもそうか、いまのぼくはぼくではないのか……と残念に思った。ぼくのその、紅茶色の髪とブルーの瞳は、あと一日もしたら土の中に埋められてしまうんだろう、と思った。まあいいや。ぼくはいまや魂の自由をてにいれたのだ。きっとここ以外にも、いけるに違いない、と思ったところで、見えるかぎりの部屋の観察をすることにきめた。なんてったって女のひと――ジェーン・バクスターと名のった――は、ずっとぼくに背をむけて作業しているのだ。眺めるものなんて向かいの壁の棚くらいしかない。本で見たようなガラスばりのキャビネットのなかに、目をこらした。

 奇麗、とおもった。棚のなかには、いっぱいに並んだガラスのうつわ! ……こんなに青いガラス見たことない。ママの瞳はもっと灰色っぽいし、絵本の空はぼんやりした青。

 あれはなに?

 女の人には通じたみたいだった。なにか紙に線をひいていたのをやめて、振り返った。「日本の、キリコというガラス細工です」

 きりこ、と呟いてみる(まねをする)と、「青が好きですか」と、ふり向かずにきかれた。ううん、青も好きだけど、緑がいちばん好き、とこたえると「わかりました」と少しだけこちらをむいて頷いた。

 好きないろにしてくれるのかしらん、と考えていると、ジェーンは、突然作業をやめて、ぼくのほうを向いた。灰色の瞳。あなたの、好きなものを、きかせてください。

 最初、できるものなら目をまたたかせていた。よくわからなかった。好きなもの、と考えて、ああ、もしかしてそれもひつぎにくわえてくれるのかしら、と思い、それならと考えこんだ。

 夢でぼくが見たもの、ふれるものは、すべてまぼろしにすぎず、ぼくはけして本物を知ることなく去る。けれど、ぼくのまぼろしでいいのなら、ぼくは。

  金いろ。紅い百合。湖。樅の木。

 ぼくは思い描いたものをあげていく。いつかぼくが自由になったなら、本物のそれらを、知ってみたいと思えるものを。

 ジェーンの灰の瞳が、まっすぐに銀のかがやきで、ぼくを見た。



 石膏をくり抜いたままの球体関節人形から声が聴こえてきたときは、自分もいよいよかという気になった。ジェーン当人は自分をそこまで弱い人間と思うつもりはないが、依頼を受けてからずっとデザインを練り続け、二十五時間かけて棺の蓋を彫りあげる作業は彼女が想像していたよりも自身に負担をかけていたのかもしれない、と、三十路を目前にして職を失う危機に晒されたが、事態はもっと複雑なようだった。

 戯れに、彫刻の修練として削った、幼児ほどの大きさの人形――眼球も髪もない、つるりとした球体関節人形である――に、どうやら、先ほど訪ねてきた依頼者の息子、すなわちジェーン・バクスターの真の顧客が、有体にいえばとり憑いているようだった。

 いやそんなことはありえない、それなら自分が精神を病んだという方がまだましだ、とジェーンは頭を抱えたが、人形は心なしか寝台に横たわっていた少年によく似た口元で「ばらが好き」と確かに言った。これがもし彼女の幻聴だとしても、デザインの構想を練っている最中ならばそれは天啓として受け取ろう、あとは知るまい、と製図用のペンを紙に走らせた。

 文様を描くのは苦労した。少年の発言から察するに、どうやらばらはばらでも木香ばらのようで、それだと多少通常の薔薇紋様とは異なってくる。まず図鑑を引いた。花や葉の構造をつぶさに調べ、それから様々な今までのノートをひっくり返し、アール・デコのデザインを集めた資料の棚も引っ掻き回した。その間、背後からは確かに少年の声が聴こえてきて「青よりも緑が好き」というまたもや貴重な情報をくれた。やはり入る本人の意向を優先させるべきだろう、と、やや麻痺しがちな脳で考えながら、ざらついた指先で、見本のベルベットの海から、深い森の緑の一枚を選び出した。

 どういうことか。

 棺に張るびろうどを選び、デザインを練り、彫刻刀を手にとったところで、ジェーン・バクスターは木の板に向かい合って自問自答した。

 臨終のさい、カソリックなら司教からの病者の塗油や聖体拝領が行われないはずはないのに、どうしてあの少年の魂はこの世をさまよって――いや、人形という居場所はあるからさまよってはいないが――いるのだろう。悪魔憑き、ということはなさそうだ。よくわからない。考えていると頭が痛くなる。

 カソリックの教えもそこそこに、棺の装飾を職としてしまったのがまずかったのかもしれない。宗教にとらわれず、故人のためのものを作りたい、というだけの理由だったのだが――とにかく。齢二十八歳にして隠遁生活に入るのは避けたい。

 とにかく混乱する。

 インク、木、ニス、様々な匂いの混じり合う部屋で、彼女は机に伏した。そうして、考えた。背後には変わらず、魂のはいった人形、否人形にはいった魂がいる。そこに、いるのだ。少年が。ジェーンが作る棺に入るものが。

 ジェーン・バクスターは、「改宗」することに決めた。すなわち、信じる対象を、自分の理念に変えたのである。

 彼女は作業机から離れ、ふり向いた。人形の眼窩の空洞と、しっかり目を合わせる。そして訊いた。

「――あなたの、好きなものを、きかせてください」



 気づくと、またベッドに横たわっている感触がした。うまれてからずっとなれ親しんだ、なめらかな布。

 葡萄色のシーツに横たわっていたぼくの体の下に手が差し入れられ、ぐいっと抱き上げられる。頭がのけぞって、瞼が持ち上がる。シャンデリアから金の洪水が降ってくるみたいだった。ガラスにはみんな金の火がともっていて、眩しかった。パパの腕。ママの泣き声。

 まるで森のようなびろうどに、ぼくは横たえられる。棺のうちに、ああ、ママのもってきてくれる、きいろいばら。甘くて懐かしい匂いがした。びろうどに香水がしみこませてあるの? すごくうれしかった。

 ジェーンの指が、ぼくの瞼をとじる。すぐに彼女のものとわかるざらついた表面が、そっと睫毛をなでた。

 ありがとう、って、自分の体だからいえないのがつらかった。また、あの人形にもどれたらいいのに。でも、きっとむりだ。もうすぐぼくは埋められる。永遠に。黒い土のなかに。

 ジェーンの指先が、ぼくの瞼をなでる。

 ふわり、と、胸元に、なにかおかれた。さいしょはわからなかった。けれど、ふと、匂いがした。……百合?

「おいきなさい」

 耳元で、ジェーンの声がした。ぼくは驚く。彼女のことばを聴いたとき、ふと、体が軽くなった気がしたから。

 ふと、意識がとおくなる。ジェーンのところに行ったときとよく似ていて、でも、ずっと体は軽くなる。なにかがほどけていく気がする。ぼくは、どこへ? ぼくをしばるものは?

 ジェーンの声が聴こえる。ああ、まって。もしぼくが、このままどこかへ行ってしまうとしたら、土の中でも棺の中でもない、どこかへ、それなら、ぼくは、ぼくがひとつだけ、あなたに。

「どこへでも、あなたの、好きなところへ」



 棺に釘をうつのは、初めてのことだった。

 棺の蓋に釘を打つ。銀の杭の代わりだ。吸血鬼の胸に穿つ杭はない。少年は吸血鬼ではないからだ。

 ニスを塗り、陽光の元で金にかがやくような、木の棺。

 銀の杭はかれの魂をしばりつけるもの。永遠に飛び去ってしまうかれの魂を、呪われぬうちに無垢のまま閉じこめておくためのもの。

 棺の底の厚いびろうどに横たえられた少年の体。生まれてから一度も歩いたことも喋ったこともない、人形のような少年の体。

 ジェーン・バクスターは、紅い百合を手に棺の傍らに跪いた。

 少年の魂がほんとうに天へもいけず、とどまっているというならば、ここへ、この暗い土中へ、それを埋めるしかない。さまよう魂がどうなるか、キリストの教えではそれは悲劇なのだ。天国の門をくぐれない魂の末路は。

 けれども、棺職人のジェーン・バクスターは、こう願う。

 金のひつぎに銀のくいを打つ、その前に、かの少年の魂が、自由にどこへでも飛び去ってしまえれば。

 それは、なによりの幸福であるのではないかと、思うのだ。

 ジェーンは、紅茶色の髪のかかった白い瞼にふれ、棺のなかに囁いた。

 おいきなさい。

 金のひつぎに、銀のくいが打たれるまえに。

 どこへでも、あなたの、好きなところへ。

 あなたはもう、自由なのだから。



  ありがとう、 と、聴こえた気がした。




コフィン型*…棺の形の一種。六角形ないしは八角形で、肩の部分が最も幅が広く、足元になるにつれ幅が狭まっていく形。

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