第15話 狐

「蛇がいつから神聖視されていたのか。それは有史以前のことでわからないけれど、少なくとも縄文時代の土器や土偶には蛇をモチーフとしたものがたくさんあるわ」


 とうに日は落ち月光の中、ザザと揺れる竹林を背景に呉羽様は語る。語る体は私のものでも、冷たい光に揺蕩う声音は、とても自分のものとは思えない。


「そもそも土器を彩る縄文そのものが蛇の模様、あるいは蛇を写したものだと、私は思うの。だって山野に食を求めた人類の一番の天敵は蛇だもの。蛇の力と神秘性を知り、己の力に取り込もうとするのは当然のこと」


 辺りを異界に誘うのは、何よりも語られる内容で。奇妙で異様、蛇と神。


 そうか、そうだよね。熊やイノシシも怖いけど、草に隠れてガブリとする蛇ほど怖いものはないと思う。遠くから避けることはできないし、近くに病院だってない。どれだけ注意しても命取りになるはずだもの。


「そこで一つ面白いことを教えてあげる。冬眠をする蛇が活動を再開するのは春。本格的な春がやって来て生命が芽吹く時期なのね。その時期にやっぱり地面から姿を現すマムシを見たら、人はどう思うのかしら」


「マムシだって? 日本中に存在する毒蛇が、数多の蛇の中でも目立って危険だったことは想像つくが……」


「マムシは口から子供を産むって言い伝えがあるわ」


 静かに呉羽様の説明に耳を傾けていた庄司くんが、問いかけに眉を顰めた。

 いやいやいや、口から子供を、それもヘビを出すだなんて… まって。そんなビックリ人間、たしかテレビで見たことあるよ!?


「宇佐子さんは飽きない人ね、私もビックリよ。その言い伝えは間違いだけれども、体内で卵を孵すのは本当よ。蛇の中でもマムシはね、日本では珍しい卵胎生。手足のない蛇の体から直接同じ体を生み落とすの。何匹も何匹も、同時にね」


 今バカにされた気がするけれど、まあいいや。マムシだけが卵じゃないなんてことがあるのだろうか。私はそのシーンを想像してみる。

 厳しい冬が去って季節は春。辺りに生命が溢れてくるその頃にマムシも地面から現われるけれど、この蛇は毒を持っていてすごぶる危険。さらに他の蛇とは明らかに違うんだ。手足の欠けた姿から、同じ姿をニョキニョキと出産する。

 震えるほどにおぞましくて気持ち悪いけど、どことなく神秘的… なのかな?


「だからマムシは出産の象徴、命の象徴。それは実りの象徴であり、大地の象徴でもあった。自然の神秘と恐怖と力、なの。だからこそ日本人は蛇をここまで神聖視し、全ての神の根源となりえた。日本において蛇神とは、マムシのことを指している」


「神の正体がマムシとは。唯の蛇とは違う特殊な生態だからこそ、人は恐怖を越えてこれほど神聖視したと」


「蛇に対する畏怖と信仰、その神秘の中心にマムシが居たのは確かでしょうね。そして稲作が大陸から伝わったと同時に、大地と実りの象徴である蛇は、豊饒豊作の象徴に転嫁する。溥儀ふぎ女媧じょかという中国の神様は聞いたことがあるかしら。大陸でも蛇は、人間を生み出した原始の神様とされているからその影響も大きいでしょう。穀物に被害を与えるネズミが主な獲物だし、稲を守ってくれて丁度良かったんじゃないかしら」


 え、何だろう。ちょっとだけ引っ掛かりを覚える。

 たしかネズミを捕る動物は……。


「蛇やマムシが神様の正体であることは俄に信じられないかもしれないけれど、信仰とは思いつきで生まれるものではないの。歴史が積み重なった表層に、祈りと文化は生きている。丹念に掘り下げれば水脈は流れているわ。

 全知全能の一神教が制覇した西洋や、多民族が入り乱れる大陸ならば覇権を求めて埋めちゃうこともあるけれど、神道が根本に流れるこの島国においては考えにくい。それが私たちの生きる和の国の姿」


『……鬼、もう良いか。褒め称えられるのは悪くないが、私は娘の体が欲しい』


 ああ、暫く静かだったから忘れてたよ。とぐろを巻いた怖い蛇の神様が、イライラを通り越して本能全開になっておられる。ところが。


「そこで伏見稲荷大社だけれど、稲荷神の他に祀られている神様の名前を覚えてるかしら?」


 呉羽様はそれでも無視して、まだ話を振ってきた。この質問は私に向けられたもののはずだけれど、忘れましたごめんなさい。


「伏見稲荷は三座の神を祀っている。稲荷神を中心に、佐田彦さたひこ大神と大宮能売おおみやのめ大神よ。佐田彦大神とは、呼び名が似ている猿田彦さるたひこ神のことなのだけれど、彼はもう名前が出たわね、カガチの如く輝く蛇神よ。もう一人の大宮能売大神は天宇受売あまのうずめ命で、こちらは猿田彦神の奥様ね。つまり伏見稲荷にいらっしゃる、


 またヘビだ。しかも伏見稲荷大社にいるってことは、どういうことだろう。


「稲荷山――伊奈利いなり山にはね、元々蛇神がいらしたのよ。伏見稲荷大社が成立する前から、豊饒の神である蛇神様がね。西暦700年前後から、飢饉や干ばつが度々続くようになってしまっていたの。時代は元明天皇となり、平城京に遷都したばかりの711年、今回の飢饉の兆候は必ず回避する必要があった。

 そこで稲荷神の呪術を思い出して。伏見稲荷に隠された呪術の目的は、豊饒を招いて飢饉を回避すること。具体的な方法は、の方角の冬の象徴、ネズミを捕まえて追い出すこと。でも、そもそもネズミが配置できない」


「豊饒の神であるはずの蛇神では神威が届かず、飢饉を止められなかったと? 呪術を行おうにも天敵がいるから、そこに前提が揃わないと。そういうことか」


「それでも飢饉を回避する為には、何かしらの方策が必要ね。ならば居座る蛇神様を排除して、新しい神様を召喚してみるのも一つかしら。

 とは言っても一度祀られた神様を追い出すことは容易じゃないわ、下手を打って祟られては薮蛇だもの。…でもね、ネズミや人間の天敵は蛇だけれど、どんなに恐ろしい蛇にだって天敵は存在するの」


 ヘビの天敵。まさかそれって、もしかして。ザワザワと心が揺れる。


「恐ろしい蛇の天敵とは誰か。蛇の巣穴に狙いを定め、地面を掘って捕まえる者。高くジャンプして蛇の弱点、上から頭を狙う者。その通り、


 ライチくん…。


「歳経た狐は神に通じて天狐てんことなる。天狐とはとんびのことでもあるけれど、タカ目タカ科の猛禽類は、やっぱり蛇の天敵だわ。

 何れにせよ狐である稲荷神は適任ね。古くて役に立たない蛇神を追いやり、水属性のネズミを追いやり、新しい豊饒の神とする。この呪術を考えた人は天才だと思うわ。一石三鳥はあるもの」


「待ってくれ。呉羽様は、稲荷神は狐に乗った荼枳尼天だきにてんのことではなく、狐そのものだというのか。確かに古い茶枳尼天の絵には狐と共に蛇が描かれたものがあるが…、その意味など考えたこともなかった。しかしなぜ稲荷と、稲を荷うと書くんだ?」


「それは難しい話じゃないと思うわよ。荷には束ねるという意味がある。狐の尻尾は稲を束ねたように見えないかしら。呆れるほど簡単な話だけれど、伊奈利山に新しい神様を祀ったから、その名前を伊奈利神。稲が成るからイナリとか上手いこといわれているけれど、ならば稲成や稲生と表記すればいい話ね。稲荷はきっと、その見た目から来ているのよ」


『大人しく聞いていれば、狐が蛇の天敵だと? 人を誑かすしか能のない狐が、神に敵うわけがない』


「そうでもないわ。蛇は世界中で根源とされるけれども、狐は世界中でトリックスターとされている。知恵が利く動物として、童話や民話でお馴染の存在ね。でも日本においては単なるトリックスターの枠組みに収まらないの。

 仏教との、特に茶吉尼天との習合によって霊獣よりも妖狐の側面が強調されてしまったけれど、本来の狐は吉兆であり、人界にの出来事を伝え、時には人をすることもあった。もし敵対すればだって起すわ。つまり狐は、と考えられていたのよ。こうして元々神と変わらない側面を持っていたからこそ、仏教によりベクトルが変えられても容易に膾炙かいしゃできたのよ」


 本格的に風が出てきたのだろうか。神秘の月光に照らされて、竹林に絶え間なく音がする。月の光はいくら冷たくあろうとも、蛇の目ほどに凍えていない。ザワザワと揺れる葉音は、まるで棚田を渡る風だ。稲穂を揺らしているかのような。


 狐を動物だと言い捨てるのは、蛇を動物だと言い捨てるに等しいと呉羽様。


 私に難しい話はさっぱりだけど、黄金色の尻尾をした狐がやっぱり神様だったってことだよね。でも、そう聞いてもあまり神様のイメージが持てないのは、仏教が悪いってことかな。


「悪いかどうかはともかく、成仏を目的に掲げる仏教にとっては、狐は人を誑かす愚かな獣でなくてはならないわ。女体に化けて誘惑する悪魔の側面もあったかしら。でも狐の存在は人々に根深く、排除し切れなかったのだと思うの。仏教でも狐の霊的な特性を認めた上で、崇めているのは事実だから。

 全てを調伏の対象としてしまう仏教が、代りに調伏したのは地孤ちこ。狐憑きの話は知っているわね。密教や修験、陰陽道などで執り行われている憑いた狐を落とす呪法は、単に狐に罪をなすりつけて、呪術者の権能を拡大するための施策でもあるのだけれど。でもおかしいと思わない? そもそもどうして狐ばかりが人に憑くことが可能なのかしら」


「人に憑く獣と言えば犬や猫の例もあるが、確かに狐だけが突出している。歳経た獣が化けるのは定番だが、幽霊でもない狐が目立って人に取り憑く道理が薄い」


「神に通じた狐は天狐だけれど、これよりも上位に位置する神として、辰狐しんこという名称もあるわ。こうなると天すら越えて宇宙を統べる狐の意味で、最高神にも肩を並べてしまうのよ。なぜ狐だけが突出して人に憑き、また神となることが可能なのか。それは狐の本性が、零落した神様だったからに他ならないからよ。

 狐が人に取り憑くという事象は、神事と呪術でベクトルこそ違うけれど、神と巫女の関係そのものなの。こうした土台があった上に、茶吉尼天と俗にいう立川流が、不気味でエロティックな妖狐の印象を決定づけたのだと思うわ。でもそれだって悪いことばかりではなかった。十二分に妖しいイメージが付随したお陰で、ごらんなさい。狐は今でも大人気」


 うん、やっぱり理解不能だね。がっつりついていっている感じの庄司くんは一週回ってバカなんじゃないだろうか。


 でも確かに狐は大人気。うどんとか赤いヤツのCMとかあるし、人に化けたり騙したりというお話はたくさん聞く。そうそう、だいたいマンガで神社にいる不思議な子供は狐のお面をかぶっているのが定番だし、私だってライチくんを狐だと思ったのは、そんなイメージがあったからだ。

 考えてみれば無茶苦茶だよね。悪いこともするけれど、憎み切れなくて妖しくて。だけど神聖で神秘的な動物。ひょっとすると、テレビやマンガで狐を見ない日はないんじゃないかな。


「ふふ。まったくその通りね。多くの日本人が神様と蛇の関係を知らなくても、。例え正確な正体こそ失っても、なお神聖さを感じ取ってしまうところが日本人らしいともいえるわね。

 日本においてこれだけ特殊な存在となり得た根源にある事実は、かつて狐が神の一柱であり、数多の蛇神の天敵だったから。伏見稲荷が証明する通り、狐こそが蛇神を屠るたり得るからよ」


『狐が神を屠る神、だと?』「つまり呉羽様、それは!」


「ええ。鬼である私はあなたに勝てない。何故ならあなたが神だから。でもあなたは狐に勝てないわ。何故ならあなたが蛇だから。

 神は容易に排除できない、だって祟られてしまうもの。そこで縄文から支配してきた古くさい蛇神を排除するのが神狐の役割。それこそが狐の正体、。あなたを倒す唯一の天敵よ」



 ザワザワと揺れる。ザワザワと心が震える。ライチくんが神様なんだと、だからヘビなんかに負ける訳がないと、そう呉羽様は言ったのだ。

 当然だよ、ライチくんはライチくん。ヒーローがこんなところで、倒れていいはずがないもの!



「さあライチ、死んだ訳ではないのでしょう! さっさと蛇を屠りなさい。宇佐子さんがそうお望みよ」


『くっ、…ああっ。腹がっ、まさか!?』


 呉羽様の命令に呼応したかの如く、一際大きく風がザザと掻き鳴らした。

 苦悶の声を上げた大蛇の目、感情を映さないはずの瞳に恐怖が過る。

 これってアレだよね、内部から破壊するっていう定番の。

 つまりライチくんが今、白い大蛇のお腹の中でっ!


 余程苦しいのか、のたうち回る巨体が一時、屹立するように天を仰いだ。あらわになった蛇の腹には赤く一筋、つうと走った線がある。その線が体液を吐いて大きく広がり。





「待たせたな宇佐子っ!」

 遅いよ、ライチくんっっ!



 大蛇を裂いて飛び出した少年は、黒い衣に黄金の光を纏っている。

 狐らしく尻尾がフサフサ、耳がぴょこぴょこ動いていた。



 どういう仕組か、腹を裂かれた蛇神は巨体を維持できないようだった。白い体がドロドロに解けて崩れ落ちると、蛇の形に残ったものは黒い瘴気だ。大量の瘴気が渦を巻いて結集し、月光に幽霊の如き人影を形作っていく。


『腹の中からなどと、そんな話があってたまるか。そんなバカな事があぁぁっ!』


 とても神とは思えない小物然としたセリフを吐く神様。一方、スタリと大地に降り立ったライチくんは神々しい。

 瞬間、彼の深い瞳が私の心と交差した。しかしすぐに向き直り、鬼の短刀を天に掲げる。少年に合せて躍る太い尻尾はまるで、稲穂のごとくキラキラと。



「波動を切り裂く刃は天、地方五行を統べる相! 鬼の鍛えしわが名は天辰、円をも剋する破邪の相!」


 少年が唱えるのは鬼が与えた不思議な呪文。

 空に凝った人影に向い、黄金となって空を駆ける。


「円天地方の法理に従い、切れぬモノ無し天辰の刃っ。抗・魔、切・斬!」

『ぐああっ、狐がっ、狐ごときがっ! まさか神の身に届くなどっ…』



 天に弧を描いた三日月の剣閃。

 鬼の鍛えた刃――天辰の刃が瘴気を裂いた。

 天狐を越えた辰狐の操る閃光に、蛇神の叫びが驚愕を帯びて。




「さあ、宇佐子さんも唱えなさい。私と共に心を込めて」


 その様を涼しい顔で見上げていた私――の体を操る呉羽様が首に腕を回した。

 外したペンダントを手に取ると。

 いよいよ私の出番なのね。よーし、宇佐子の変身タイムだ!



「愛は心に。勇気は胸に。溢れる想いを手の中に……」

 ――玉積産日神たまつめむすびの御名に代り、いざ勾玉に鎮魂たましずめたもう!



 ペカーっと青く輝き出したペンダントは、どこかで見た飛行石のごとく。

 八方に放出されたコバルトが周囲を包み、飲み込み、幻惑し。

 世界を覆ったかと思うと、あっという間に終息した。


 光の消えた竹林には、そこに瘴気もウワバミも。神の姿はどこにもなくて。



 

「…ライチ、無事だったか」

「ああ。心配かけたな」


 月光に照らされて、堅く握手を交す男の子たち。

 くっそ、私もライチくんを抱きしめたいのだけれど、呉羽様が動いてくれないっ!


「うふふ。鉄樹てつじゅが咲くのは恐ろしい神々が一同に会する時だと聞くけれど。その必要まではなかったわね」


 後には意味のわからないお言葉と、天空の月。

 宵の静けさだけが残った。


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