第4話 モノノケ

 

 立ち昇った闇は徐々に姿を濃くしていった。竹林の奥で、視界の中で。

 霧の如くとした揺らめきが、次第に一つに固まっていく。


 ――ブ… ブブブ… ブ……



「…何?」


 竹の葉がザザと擦れる音に混じって、不快な音が耳に届いた。揺らぐ空気が生臭い。何だろう。神経を逆なでするような、この音は一体何だろう。


 ――ブーン… ブブブブ… ブブ… ブーン……


 「ひっ…」

 

 羽音だ。虫の羽が立てる音。

 何百と、何千と、何万という羽音が凝って、奥から漏れてきているのだ。

 黒い姿は羽虫の大群。それらが腐臭を伴いながら、闇の中から出ようとしている。


 数え切れない程のそれらが、もっと数を増やす前に。私の方へと向かう前に、私はその場から駆け出した。


 音の正体はなんだ。ハエか、アブか。それともハチか。


 後ろなど振り向けない。懸命に走っているのにも係わらず、だって音が近づいているのだから。一塊となって迫る羽音の正体が何であっても、その音に捕われて命があるなど思えない。私が正気を保てるなどと思えない。

 なのに音は、確実に。正確に私の背中を迫っているのである。


「いや、あっ…っ!」


 地面がスポンジのように軟らかい。堪らず声が漏れ出てしまう。意思に反して声が出るのはきっと正気を保つためだ。なのに迫り来る音は、私の正気を奪い去ろうと押し寄せる!


 その音に気を取られていたからだろうか。私の足はもつれてしまった。あまりの柔らかさに存在を疑い始めた地面は凸凹で、落ち葉もあって滑りやすく、だから仕方がないのだけれど。本当は躓くものなどどこにもなくて、足が萎えただけかもしれない。

 擦った手の平に痛みはなかった。ジャリと噛んだ砂も関係ない。とにかくその場で頭を抱え、もうダメだ。そう諦めかけた時だった。




「待てお前ら。ご近所を荒そうだなんて、いい度胸じゃねーか」

 竹林に響く少年の声が、無数の羽音を切り裂いた。




「…ライチ、くん?」

 恐る恐る目を明けた私の前に、期待通りの小さな背中。


「よお宇佐子。なんてもの連れてんだ。ヤバいヤバいと思っていたが、ここまでヤバい女とは気付かなかったぜ」


「…そんなに私って、魅力的?」

「やっぱお前黙ってろ。食い物の恩くらいは返してやる」


 するとライチくんの背中が輝きを放った。闇を拭う黄金の閃光。


 黒い少年を眩しく覆う、オーラの如き輝きはこの世のものとは思えない。しかし彼は神々しくも輝くと、何をすることもなくその場で腕を組んでしまう。

 白馬の騎士ならぬ、黒ずくめの狐はカッコよく登場したくせに、一体何をやっているんだろう…。


 ブーンという不協和音はまだ止まない。見れば彼の目の前で、黒い闇がうねうねと波打っているのが見える。羽音は幾重にも重なって洪水となり響いている。ハエかアブか知らないけれど、不快な羽虫が寄り集まって影を形作っているのは確かだ。


 神経を逆なでする羽音を伴い、波打つ固まりは右に左に変形し、時に触手のような形を伸ばす。

 まるで何かを手探りしているかのように、縮んでは伸び、右往左往して伸びては縮み。…ってあれ。もしかしてあの黒いの、見えていないのかな?


 そんな動きだった。ずっと私を追っていたのに、ライチくんが不思議な輝きを放った途端に見失ったのだ。


「ひょっとして、私たちが見えていないの?」

「ああ。奴らは今、幻覚の中を彷徨っている」


「…どうするの。ライチくんが食べちゃうの?」

「誰がこんなもん食うか。実は俺もどうしたものか考えているんだが…」


 ああ、それでライチくん、腕を組んだまま唸っていたのか。


「私ライター持ってるよ?」

「何でそんなもん持ってんだよ。まあいい。火、起せるか」


「うん。ちょっと待っててね」

「そんな火が役に立つものか」


 震える足を叱咤して、燃えるものを探そうとようやく立ち上がった時だった。

 背後から聞き覚えのある第三者の声が。


「ストーカー、まさかお前の仕業じゃねーだろうな」

 振向けば庄司くんが立っていた。何だか少し雰囲気が違うけど。


「心外だな。こいつら、燃やせばいいんだな」


 そう言うと蠢く塊に歩み寄る。あんなに気持ち悪いモノによく近づけるなと感心していると、庄司くんはバッと腕を振り上げた。すると。


 爆音を伴って火柱が立ち上がる。羽虫たちの中で予告なく立ち昇った業火が一部を飲み込み、ブブブという羽音が一斉に大きくなった。

 燃えた虫は隣の虫を燃え上がらせて、次から次へと。黒い塊は炎の塊へと変化した。


「山で焚き火はちょっと危なくない?」

「大丈夫だ。俺の幻術はそんなにヤワじゃない」


 ライチくんの言う通り、燃える羽虫は火の粉の如くボロボロと落ちれど、拡散して広がることはなかった。時を置かずに消し炭となって、とうとうその場に燃え尽きてしまう。


「ふん、終わったな」


 腰に手を当てて偉そうなストーカー。カッコつけているけど何だこいつ。


「今の何なの、庄司くん?」

「こいつらか、それは僕が聞きたいところだが」

「そうじゃなくて、あの火はなあに」


「ありゃ火薬だよ。普通に高校生が隠し持っているもんじゃねえ。おいストーカー、お前忍者か」


「君こそ一体、何者だ?」


 忍者? 唐突な言葉に私の頭はパニックする。

 どうして忍者がストーカーなんて…。

 まさか私の心を盗むため? 火薬は心に火をつけるため。


「おい、お前よくこんな女に惚れたな?」


「どうも勘違いされているようだが、僕はクラスメイトとして放っておけないと考えただけだ。君こそどうして宇佐子さんに近づいた。悪意だけはないようだが」


「ライチくんはね、私がカッコよく育てるの。忍者か狐か今選べって言われてもまだ無理よ!」


「宇佐子はもう少し人の話を聞けよ。今目の前で、このストーカーはお前のファンじゃないって言いきったぞ」


 そうなの? そんな気はしてたけど、あまりに悲しくないだろうか。私の頭が。むしろ悲しいを通り越してイタイといっていい。


「てか、聞いていいか。宇佐子に惚れる人間がそうそういるとは思えねえ。その勘は当たっていてよかったが、お前にも宇佐子のヤバさがわかるのか。それでコイツを守っていたと?」


「僕の名前は庄司という。宇佐子さんのヤバさが何を指しているのか、多分君と僕とでは見ているものが違うんじゃないか。ただ宇佐子さんの周りから、どうも怪しい気配を感じていた。守るといっても、時間が許す限りだ」


 それじゃあ庄司くん、ストーカーは勘違いだったとしても、今まで影から守ってくれてたってことじゃない。それって好きとどう違うわけ?


「うるさい。お前はしばらく思考停止してろ。じゃあ、こいつらは…」


「あれが何かは知らんが、通常のモノじゃないだろう。逆に問おう、君は宇佐子さんから何を感じる。彼女の何が引き寄せているんだ」


「いや、俺にわかるのはこいつの純粋さだけだ。言うほど純粋でもないから言葉は違うけど。…くそ、うまく言えないな」


「しかし宇佐子さんには何かがあると。そういう事だな」

「ああ。こいつがヤバいのだけはわかる」


「原因がわかれば対処のしようもあるかもしれんが。くれぐれも君は、彼女に危害を加える気はないんだな?」


「もちろんだ。人間に手を出すなんて、百害あって一利もねえよ」

「なら僕は何も言わない。彼女はこれでも大切なクラスメイトだ、君も注意してやってほしい」


「そうだな、社にだけはくれぐれも手を合わせないように。っておい宇佐子、どこ見てんだよ、お前のことを話してんだよ」


「なによ、思考停止してろって言ったじゃない!」


 ようやく私にも発言の機会が回ってきた。とはいっても、二人とも何を話しているのかさっぱりなんですけど。中二病全開にすら聞こえるんですけれど。黙ってろと言われたから素直に従ってあげたのに、私だけが悪いように言われて気に入らない。


 助けてくれたのは事実だし、ホントに死ぬかと思ったし、私ってかわいいし。でもヒロインなんだから黙ってろはないんじゃないかな。ほら、制服もこんなに汚れて血だって出てるし、口の中だってジャリジャリでとってもとっても怖かったんだからねっ!

 可憐な女の子が不安を感じて鼻水まで啜っているのに。うるさいとか黙ってろとか言う前に、俺がいるから大丈夫だーとか、愛してるーとかさ、男の子なら言わなきゃいけないことだってあるんじゃない?


「何でこんなのに係わったのかな。俺…」


 ライチくんはぶつぶつ言っているけれど、それにしてもあれは一体なんだったのだろうか。



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