第8話 伏見稲荷と狐の話
「そうじゃったか、難儀なことよのう」
ということで、私たちは妖怪の里、じゃなかった鬼の里? に戻ってきた。出戻りだ。スーさんと呉羽様に助けられた手前、本日二度目のやひこ婆に挨拶に伺うと。
「宇佐子さんの漏れ出る力は格別じゃ。本来なら修業によって己の力と向き合うべきだが、こうも危険なら仕方なし。別の方策を取るしかあるまい。準備が済むまで儂の名において滞在を許そう」
と滞在許可を出してくれた。二人もきっとそのつもりで連れ帰ってくれたんだね。方策というのが具体的に何かは教えてくれなかったけれど。
因みに庄司くんも首根っこをつかまれて婆ちゃんの前に突き出されていた。呉羽様に脅されて、スーさんの顔にもビビっていたから里に何かしようとは考えないと思う。学校はどうするかって? なにそれ美味しいの。
「あなたは私の所にいらっしゃい。男の子たちはスーさんの家ね」
もちろん隠れ里に宿泊施設などない。てっきり豆婆ちゃんの所で客人扱いされると思ったら、そんなに甘くはなかったよ。いえ文句を言える立場じゃないのはわかるけどさ、ライチくんと離れて呉羽様と二人きりになるなんて、不安しかないじゃない。
「怖がらなくても大丈夫よ。むしろ一人で他の人に出会うとどうなるかしら」
「よろしくお願いしますっ!」
そうだった、ここは鬼の里だっけ。そして私はご馳走でした。呉羽様に食べられないという保証はないけれど、スーさんの怖い顔にあむあむされるよりは、まだマシってもんじゃない?
少なくとも私、あんな気持ち悪い虫にだけは食べられたくない。ライチくんになら… アリかも。
「うふふ。じゃあお風呂に案内してあげる」
ああっ、少し覚悟はしたけれど、今ちらっと舌なめずりしたの見たかんね!
…なんていうドキドキは杞憂に終わって。連れられてやって来た場所は里の一角、大きな露店風呂だった。これ何人同時に入れるんだろう。粗野な岩で組まれた湯船は広く、きっと私の家より大きいよ。
真ん中には盆栽みたいに小振りな松が枝を広げて、周囲は立板で目隠しがされていた。もちろん源泉掛け流し。本当に源泉かどうかは知らないけれどさ、雰囲気的にはそんな感じで。寂しい村には不釣り合いな施設に思える。
日が落ちた里に電気なんてものはない。代わりに仄かなランプが灯って、柔らかい明りが逆にいい感じ。
湯船に身を沈めると、暖かいお湯に緊張が一気に解れる。微かに香る硫黄がとっても気持ちいいよ。日が落ちた山あいは寒くもあったのだけれど、やっぱり温泉って天国だね。
「どうかしら。自慢の温泉なのよ」
手ぬぐい片手に、隣に身を沈めたのは呉羽様だ。はい、気持ちよくてフニャフニャです。
仄かな明りの中でますます冴える白い肌。昼間は農作業をしていたはずなのに、とても重労働をしている体に思えないよ。そして何より、この美貌にこの胸はずるい。私もライチくんにこうしてもらうはずだったのにな…。
そういえば、みんな鬼だっていうわりには角がついていないんだよね。呉羽様も豆婆ちゃんもスーさんも。普通の人間じゃないのは雰囲気で納得だけど、一体どうなっているのやら。
あまりジロジロ見るのも失礼だから空に目を移すと、湯煙の合間に美しい星が瞬いている。聞こえるのは流れるお湯と虫の音だけ。こんなにも星空って明るかったっけ。
「この里には何もないけれど。何もないからこそ、温泉だけは豪華にしたの。唯一の楽しみよ」
「だから呉羽様って、こんなに美人なんですね」
「あら嬉しい。でもそうね、肌は温泉のお陰かしら」
「肌もスベスベだけど、怖いくらいに奇麗だもの。こんな素敵な温泉があるなら、私もここに住んでみたい」
「ふふ。宇佐子さんは若いのに、もうお婆ちゃんみたいね。こんな田舎が好きなのかしら」
そうかもしれない。どんなに背伸びをしたって私は田舎者だしね。東京にだって行ったことがあるけれど、あんな場所で生きていける気がしないよ。
たまに街に出てかわいい服を見るくらいが私には丁度良いんだ。そもそも都会だと、みんな歩くのが早すぎるんだよ。
「…だぶん急かされるのが苦手だから。田舎の方が長生きできる気がするし」
「あまり長生きしても、退屈かもしれないわよ?」
「それでも私、できる限り長く生きていたいです。ゆっくり」
お父さんやお母さんの分もね。
今の私は無防備な裸で、隣にいるのは未だ正体不明のお姉さまなのに。ヒシヒシと感じていたヤバい存在感も、暖かいお湯に溶けてしまう様だった。
「のんびり屋さんなのね。ライチが狐だと知っても驚かなかったと聞いたけど」
「そんなことないよ。あまりに可愛いからビックリ。むしろ出会えたのはラッキーって感じで」
ライチくんも一緒に入ったら良かったのにな。二人はスーさんに修業をつけてもらうとかなんとか。お風呂は汗をかいてからだって言うけれど、男の子はよくわからないよ。
…あれれ。今気づいたけれども、ひょっとするとこの広さは混浴なんじゃあ。脱衣所の作りからしてきっとそうだよね。でもスーさんと庄司くんは要らないや。
「あなた面白いわね。私ばかりが質問していても申し訳ないわ、聞きたい事もたくさんあるでしょう?」
頬を拭った呉羽様が目を流す。今なら何を聞いても良い気がする。あまり考えないようにしていたけれど、疑問なら星の数ほどあるからね。ということでお言葉に甘えて。
「ライチくんて何歳なんですか?」
「……あの子が何歳かは知らないわね。鬼と同じで、あまり年齢は関係ないんじゃないかしら。狐は齢五十にして女人となり、百にして丈夫となる。千を数えて
ふーん、呉羽様でも知らないのか。どこから見ても低学年なのに、見た目通りってことでもないみたい。とりあえず私が逮捕される心配はなさそうだね。
特殊っていうのは、神様のお使いだからってことかな。
「狐が使いというのはどうかしら。神に使役される存在というよりは、神に近い存在だと思うわよ」
「ふえ? 狐って神様なの?」
「神様に近いわ。…宇佐子さんは、稲荷社のことはどれだけ知っているかしら」
確かに神様のお使いは勘違いって狐本人が言っていた気がするけれど、狐が神様だっていうのもピンと来ないよね。でも稲荷社のことならライチくんから教えてもらったばかりだよ。えっと…。
「京都にある伏見稲荷大社が本社で、
「そうね。普通の人は宇迦之御魂神の名前どころか、稲荷には狐そのものが祀られてると思っている人もいるわ。でもそれは今に始まったことじゃなくて、昔からずっと言われているのだけれど。詳しい人は狐を指して宇迦之御魂神の御使いだというわね。でもこの場合はね、本当は狐が祀られていると思った方が正解かしら」
……?
狐は神様の使いで正しいけど、本当は狐が祀られている?
何かこないだもそんなパターンがあった気がするけれど、デジャブってやつかな。
「伏見稲荷の起源は和銅四年と伝えられる。西暦ならば711年、元明天皇の御代ね。稲荷山に謎の神様、稲荷神を祀ったのが始まりなの。当時は
ああそうだった、思い出したよ。ライチくんの話では、本当は宇迦之御魂神とは別人の、稲荷神って神様が祀られているって話だった。
「もちろんメインは稲荷神だけれども、伏見稲荷大社には他にも、神様が二座祀られているの。
そうなんだ。食糧危機があったから、たくさんのご飯が食べれるようにって稲の神様にお願いしたってことなんだね。それが稲荷神。ライチくんの話でも稲荷神と宇迦之御魂神は両方とも稲の神様で、だから二人を混同したとかなんとか。
「そこで興味深いのは、なぜ伏見稲荷の御使いが狐とされているかよ。宇佐子さんは、狐の鳴き声が
ふるふると首を振る。聞いたことあるわけないじゃん。知っているとか知らないとか以前に、何のこっちゃなんですけれど。
聞けばミケツカミって言うのは個人名じゃなくて、食べ物の神様の総称なんだって。さっきからお話に出ている宇迦之御魂神や稲荷神以外にも、オオゲツヒメとかトヨウケノオオカミのことだって呉羽様が教えてくれたけど、そう言われても誰のことやら。
とにかく昔の狐はコンコンと鳴かずにケツケツと鳴いていたそうな。それがミケツのケツに聞こえるからだって。だから食べ物の神様の使いが狐だって、ダジャレかよ。お尻のことじゃなくて良かったけど、ちょっと強引すぎじゃない?
「まるで定説みたいな勢いで語られているのだけれど、バカバカしいくらい強引ね。あるいは稲荷山には、狐塚があったからなんて言う人もいるわ。稲荷神が祀られたと同時に、元々住んでいた狐が信仰に取り込まれたと考えたのね。
でも最も一般的に知られている話では、狐が穀物倉庫の鼠を食べてくれるから。稲荷山に穀物倉庫なんてあったかどうか知らないけれど、これの場合は単純ね。収穫した稲をネズミから守ってくれる存在だから、それが理由で稲荷神、あるいは宇迦之御魂神の使いだと言うの」
「狐って油揚げだけじゃなくて、ネズミも食べるの?」
ライチくんが夢の国を襲うところなんて、見たくないんですけど。
「うふふ。本当に油揚げが好きかどうかは知らないけれど、ほぼ肉食なんだからネズミは食べるでしょう。狐の主食の一つよ。でもこの話で本当に重要なポイントは、狐じゃないの。ネズミなのよ」
姉ちゃんがまたわけわかんないこと言い出した。狐の話なのに。
頭の中でミッキーがダンス始めちゃったよ。
首を傾げる私を見て、湯をかいた呉羽様は楽しそう。
しかしネズミがポイントとは一体…?
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