第13話 鬼

「ライチくん… ライチくんっ!」


 ライチくんは巨体に飲まれ、私は庄司くんに担ぎ上げられていた。必死に手を伸ばすのだけれど、その先に小さな男の子の姿はない。

 大きな荷物を抱えたまま疾走する庄司くんの姿を、大蛇が見逃すはずもなく。


『贄が逃げるな、面倒な』

 薄暗くなった竹林に、不気味な声が追ってきた。


 庄司くんが山を駆ける。追って大蛇が蛇行する。巨体を遮る障害を求めて山中に逃れたのだろうけれど、相手はうねる途中で竹林をつぶし、大木をへし折っても一向に気にかけない。いくら身軽な庄司くんでも私を担いでスピードなんて上がるはずもなく、瞬く間に距離が詰まった。


 竹薮に隠し切れない白い姿。チロチロと覗く舌の先に、ライチくんが見えるのではないかと凝視するのだけれど、炎のような舌は嫌悪の感情しか齎さない。

 何よりも怖気を催すのは硬質な金の目だ。ガラスで覆われたような丸い目は瞼もなく、感情もなく、なのに絶望を見るものに与える。ヘビに睨まれたカエルが自失するという話はきっと本当なのだろう。


「く…、なんという早さだ」

「ダメ、私を降ろして庄司くん!」


 掴まるのは目前で目的は私だ。私を捨てればきっと逃げられるのに、庄司くんは荒い息遣いのままで、しかし私の願いに応えない。ダンプカー程もある巨大な顔がぬるりと迫り、とうとう顎門が開かれる。鋭い毒牙が目に留まった。


 もうダメだよ庄司くん。私がバカなばっかりに、巫女だなんてわけわからないものだったために。


 ――臨・兵・闘・者…。


 あのお腹の中に入ったら、死の間際にライチくんをぎゅっとできるのだろうか…。

 諦めかけた私の耳朶に、風に混じった音韻がどこからともなく渦を巻いた。

 これは幻聴なのだろうか。竹林の合間を縫って今、誰かの声が。


 ――皆・陣・列・前・行。不動金縛。


 瞬間、大蛇の動きがぴたりと止った。鎌首をもたげ、いざ飛びかからんとした姿勢のままに。



「これは…、不動金縛法。僕の、呪言は、違ったのか?」

「力が隔絶した相手に呪言なんて効くわけないわ。文言ではなく、魂の問題よ」


 息を切らしてようよう呟く、庄司くんに答えた声は。

 体をひねって振向くと、竹林の中に美しく咲いた紅葉の小袖。

 隠れ里と変わらぬ涼しい顔で、黒と紅の異様な雰囲気を纏う女性が立っていた。


「呉羽様っ!」


「ライチが気にしていた社、蛇神が目覚めそうだと言うから確認のつもりだったのだけど。ギリギリ間に合ったというところかしら」


 あれれ。凛と佇むお姿に安心してしまったのか、涙がじわりと湧いてくる。鼻が痛くてツンとするけど、泣いているヒマなんて今はない。ヘビに呑まれたライチくんを早く助けなきゃ。


「呉羽様、ライチくんが!」

「ええ、今のうちに逃げるわよ」




 …………え?




「呉羽様、ライチくんが食べられて」

「そうね。あなたまで食べられる前で良かったわ」




 ……何を言っているんだろう。私の訴えに呉羽様は目を合せない。どうにも言葉が噛み合わない。




「私の術でも足止めは一時だけ。蛇神相手にとても持たない。今すぐここを離れるから付いていらっしゃい」


「えと、ライチく…」


「狐は諦めなさい」「なんでっ!?」



 そんなつもりは全くないのに。

 呉羽様の言葉がわからなすぎて、思わず大声を出してしまう。

 だって諦めなさいだなんて、諦めろって意味に聞こえるじゃない。

 まるでライチくんを助けないみたいに!



「問答しているヒマなどないのだけれど。ライチには逃げろって言われなかったかしら。命を賭したあの子の願い、私には届いたわ。あなたは聞いていなかったの?」


「もちろん聞いたよ! でもそんなの、逃げる訳にいかないっ」


「あら、ならばどうするつもりなの? まさか立ち向かうつもりなの。狐の命を無にして、あなたまで無駄に命を捧げるの」

「呉羽様は強いじゃないっ!」



 全く意味がわからなくて目の前が滲む。呉羽様だってライチくんのことかわいがっていたじゃない。それを狐呼ばわりで、助ける気さえないみたいに。

 確かに私は聞いたよ、ライチくんの言葉を。恐ろしい巨体を前にして、絶望的な状況で、逃げろ宇佐子って。頼んだぞ庄司って。でもそんな言葉……。


 呉羽様は見ていたのだろうか、ライチくんが食べられるところを。

 なのにどうして平然と。助けるために来てくれたんじゃないのだろうか。 


「…多少強いから何だと言うの。相手が蛇神なのを知っていて、私にまで全て捧げろと言うのかしら。男に担がれて鼻水を垂らして、自身は何も懸けずに勝手な懇願だけを重ねる。まるで周りの命を命とも思わないようね」


 そんな――。そんなこと私、一言も。

 私の思いは汲まれることなく、逆に注がれたのは蛇のような冷気だった。


「あの子の願いはあなたの無事。犠牲になるのが安易な覚悟でないくらいあなたにもわかるでしょう。私が叶えようとしているのに、なのに魂を賭した願いすらも踏みにじる。それがあなたの本質なの?」

 

 わからない。私は何を言われているの、なぜ罵られているの。


「呉羽様の言葉は正しい。いくら彼女が強くても流石に相手が悪すぎるんだ。ライチが託した最後の願い、僕は必ず守りたい。だから無事にここから逃がす」


「……降ろしてよ、庄司くん」


 黒く塗られた私の囁きに、庄司くんはあっさりと従った。

 卑下された場所から降ろされて、でも足下は泥濘のように覚束なく、自身の重い体重を支え切れずに崩れてしまう。


 私がライチくんを軽く見ているわけがないじゃない。ライチくんが大切だから、だから助けたいと思っているんじゃない。でも私には助けられない。

 呉羽様は強く奇麗で、頭が良い。スタイルだって良い。私にないものをたくさん持っているのだから助けてくれても良いはずなのに。なぜ私を蔑むのか。憧れていたのに。全てを持っているくせに。


 ……呉羽様でも蛇神に勝てない。だからライチくんを助けられないと、伝えられたのは単純な事実だったはずなのに。この時の私は理解したくなかったのだろう。

 何も受け止められずにそんな様子だったから、素直に降ろした庄司くんの意図にも気がついていなかった。


「呉羽様。宇佐子さんをお願いします」


 恐ろしい言葉に顔を上げる。庄司くんまで、何を言い出したの?


「時間稼ぎにもならないと思うわよ。ここで命を捨てる意味を全く感じないけれど」

「ライチとの約束は彼女の無事です。僕の願いも同じです。だから後は己の矜持に従います」


 庄司くんの言葉がとても怖くて、私は震えた。思考はフリーズさせたままで。

 何かしなきゃ、何か言わなきゃ。止めなければ庄司くんまで死んでしまうだろうから。…そうしたら私は、また一人になってしまうから。


「なら宇佐子さんだけかしら。さあ早く立ちなさい」


 震える私に呉羽様は、あくまで残酷な言葉を投げる。怪物に向けて歩み始めた庄司くんは振向かない。助けが必要なのは庄司くんの方だ。もう残された時間はない。

 呉羽様はそんな私に整った眉毛を上げて、それ以上何も言わずに背を向けた。死地に向かう庄司くんをそのままに。崩れる私をそのままに。

 まるでもう、付き合い切れないと語るように。人の意思を問うかのように。


「呉羽様…」


 凛としたその背中に声をかける。頭の中はぐちゃぐちゃでフリーズしていて、漸う声を出したものの、何を言いたいのかわからない。

 何を言ってもきっと罵られるのだろう。二度と立ち上がれないほどに。それでも声を出さなきゃという思いだけで、縋り付いてもどうにかしなきゃという思いだけで、涙も鼻水もそのままに、ただ彼女に頭を下げる。


「……ありがとうございました」


 でも口を割ったのはお礼だった。今生の別れに等しい。言葉を絞り出したことで、少しだけ足に力が戻ったことが意外だ。闇色に浮かぶ紅の葉が微かに揺らぐ。


「…あなたの願いは亡くなった人の分も生きること。想いを継いで生を全うすることと、そう私は思っていたのだけれど」

「そんなことないよ、一人で残りたくなんてない」


 願いは長生きすることだと、確かに言ったことがあったかもしれない。お父さんの分もお母さんの分も。それが残された私の意義だと思うから。

 でもそんなの本心なわけないじゃない。もしも許されるのならば、顔を見て文句だって言ってやりたいよ。どうして私を置いていったのって、残すくらいなら連れていってよって。――もう誰にも置いていかれたくない。


 何とかしなきゃと絞り出してみたけれど、ゴメンねライチくん。ゴメンね庄司くん。考えなしの私では、やっぱり何もできないんだ。

 強くもない知恵もない。誰かに縋ることしかできないけれど、でも呉羽様の言う通り、ただ懇願するのだけは違う気がする。ならばせめて私も一緒に。


「そう、残念ね。ライチの願いを叶えたかったのだけれど。あなたの願いが叶うと良いわね」


 側で助けてくれた二人を犠牲にしてまで生きたくはない。呉羽様まで無理に巻き込んで犠牲になんてしたくない。だから私にできることは、唯一。


「私はバカでどうしようもないけれど、呉羽様の言葉もわからないけれど、ライチくんを助けたい。庄司くんを死なせたくないよ。それが本当の願いなの」


 ――できることは唯一、神様に願うことくらい。


 ねえ神様、ヘビではない本当の神様。もしも奇跡があるのなら私を、二人を助けてください。

 だって私は巫女なんでしょう。何も知らない私でも、それが神様に祈る人だってことくらい知っている。私一人ではどうしようもないけれど、こういう時こそ神様はいるはずだと思うから。

 人の力でどうにもならない事柄を、人知を越えた存在に祈ることしかできないのなら。奇跡を求めて死の間際まで、心から。


「代償のない願いはあり得ない。大切な何かを犠牲にして差し出さなくてはならないの。それでも神に請うのなら、あなたは何を差し出すのかしら」


「何だって差し出すよ。助けてくれるなら全部あげる。命だって」


 代償とは何だろう。助けてもらうばかりで何も持っていない私が、少ない持ち物の中に見合うものがあるとは思えない。あるとするなら私自身だ。ちっぽけな命を差し出したところでどうにかなるとは思わないし、吊り合うとも思えないけど。

 でもこのままならば、どうせ全て失ってしまう。呉羽様が寄越せと言うならそれでもいいよ。そんなもので奇跡を請うことができるのであれば。


 紅い紅葉が流れる。振向いた呉羽様の目が射貫く。心の中すら見通すほどの視線を前に、私ができるのは本心を紡ぐことのみだ。


「願いのために命も捨てる、魂を賭ける。その覚悟があるのなら、ならば全てを差し出しなさい。その体ごと差し出しなさい。それが本当にあなたにできて?」


 呉羽様の言葉はわからない。実を言うと、何を話しているのかもわかっていない。祈る相手が神なのか鬼なのか、受け答えしている呈の私自身が理解していないのだから。


 それでも私は奇跡を求めて。

 祈る価値があるのなら、賭ける手だてがあるのなら。


 ――私は。



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