第12話 神
小気味よくカタタンと連なる振動、鼻に燻るレールの匂い。車窓を流れる稲田の多くは収穫が終わっている。
するとあの里はやっぱり、標高が高かったってことなのかな。離れていたのはたった二晩のはずなのに。もっとずっと長い期間、遠くにいたような気がした。
育った場所は米どころだけれども、棚田の景色は馴染がない。九州のお婆ちゃん家は海に近いし、同じ田舎でも三者三様で共通点は薄いはず――。なのに山あいの里が本当の故郷のような気がして切なさが募る。
テレビや昔話で見るような、美しい場所だったからかな。それとも私の中に残る呉羽様の気配がそうさせるのかしら。
人から隠れた鬼の里に住むことは許されないのだろうけど。もし私が死んだら亡骸は、あそこに埋めて貰えないだろうか。呉羽様ん家の庭とか、温泉の真ん中にある松の根元とかさ。
死んでいるから温泉に入れないけれど湯気だけでも美容に良さそう。でもそれは流石に迷惑かもしれないから、黄金に染まった里を見下ろせる場所でどうだろう。
…お墓の売り出しとかしていないかな。一人きりだと寂しいから、お父さんとお母さんの位牌も一緒に。――そうだ!
「ねえライチくん、一緒のお墓に入らない?」
「久々に口開いたら、第一声がそれっておかしいと思わねえか」
あれれ。とってもイヤな顔をされる。
「モノノケの類いはお前を避けるって言ったろう。宇佐子はもう安全だ、あまり下らないことを考えるなよ」
「ライチの言う通りだ。それでも危ないことなどあれば、僕が喜んで盾になろう」
おいやめろ。庄司くんがまだ何かを拗らせている。学校で宇佐子様とか、女王様とか呼ばれたら二度と登校できない気がするよ。
そんなこんなで少しだけセンチメンタルだった心も、改札を出る頃には霧散してしまった。非日常の世界から見慣れた景色の中に戻れば、今までずっと夢の中を歩んでいたような気分だよ。というとは、やっぱりここがホームだってことなのかな。
……もう安全、か。
◇◆◇◇
「本当にゴハン食べていってくれないの?」
「ああ、俺は野生の狐だからな。帰ってゆっくり休め」
いつもの竹林を抜けた先。いつもの神社の入り口で、もう一度ライチくんに甘えてみるも素気ない。
男の子を捕まえるには胃袋からって言うじゃん。食べ盛りのお年頃だし、どうせおんぼろの社に帰るんならさ、私の家にいてくれても良いと思うのだけれど。
「ライチ、わかっているんだろう。察しろ」
あら、なぜか庄司くんがカッコいい。沈み行く夕日を浴びて二割増し。そういえばこの二人、随分と仲良くなっているよね。彼らもスーさん家で夜を共にした仲だから、好きなコの話とかしたのかもしれない。もしも私が議題に上がっていなかったら怒るけど。
「…俺は野生だ。いつまでもここにいる訳にはいかねえし、望むと望まないとに係わらずその時は来る」
「違いない。でもそれは今日でも明日でもない。そうだろう」
「仕方ねえな。明日だって顔を見れば挨拶くらいはしてやるから安心しろ」
…よかった。危機が去って日常に戻ったら、もうライチくんに会えなくなるんじゃないかって、本当は少し不安だったんだ。手を離したくないのは我が侭だってわかっているけど。
私だって卒業したらきっとこの場にいられない。いつか別れが来ることは、時に突然来ることはイヤというほどに理解しているつもりだけれど。
きっと賑やかすぎたのがいけなかったんだよ。物語の中だと普通、危機を越えたら強くなってるはずなのに。どうして私は弱くなったんだろうね、一人になるのがこんなにも寂しいなんて。
「わかった。じゃあまた明日ね」
ずっとは無理でも明日会えるならば。たぶん私は大丈夫。…そのはずだった。
じゃあな、とつれなく手を上げて、さっさと鳥居を潜ろうとする小さな男の子の姿に。私はふと願ってしまったのだ。竹林をザザと抜けた冷たい風に押されて。
――このかわいい狐さんと、ずっと一緒の日々を過ごしたい。それが契機だったかどうか私にはわからないけど。けれど。
『なるほど、神降ろしか』
耳元で囁かれた声に、ぞわりと肌が粟立った。――ザザと世界が揺れる。
「…ちっ、なんてタイミングだ」
「この異様な気配。まさかこれが!?」
舌打ちに庄司くんの顔色が変わる。声が届いたのは私だけではなかったらしい。二人は声の気配を探って鳥居の奥を凝視する。
何故なら振向いても、背後には誰もいなかったから。きっと囁かれたのは気のせいで、後頭部をぞわりと撫でるような声が頭の中に響いたのだ。それでも感じる耳元に息をかけられたおぞましい錯覚。体温を失った死人の呼吸。
「ああ、とうとう起きてきやがった」
ウソでしょう。ライチくんの言っていた神様…… 蛇が?
刹那、降り注いだのは本能に訴える感覚だった。
私にだって感じ取れる異様さに、ハッとして杉の木の向こう側。連なる鳥居の奥を見上げると。
この世とあの世を隔てる結界の向こう側で、ザザと梢が鳴っていた。
渦巻く霊気に下草が揺れている。――足が震える。
呼んでない。私はあなたなんて呼んでないよ。なのに。
体の芯が冷えて凍えて、ザザというノイズと化して、怖気が。
恐怖を振りまくナニかが気配を伴って、連なる鳥居を下っていた。
『良い
「呼んでいねえし、贄でもねえ。用はないからもう少し寝てろよ、神様」
竹と雑木に挟まれた参道を下る気配は次第に存在を濃くして、人の姿を取っていく。それでも幽霊のように薄く朧な姿は、重そうな白い着物を着たお兄さんだった。
この姿はマンガで見たことがある人に似ている。あれだよ、透けた姿で囲碁を打つ人。蛇にはとても見えないけれど、けれど。
『ようやく起きたのにつれないな。社が獣臭かっのは、大方お前の所為だろう。だが良い、働きに免じて見逃してやる』
耳を介さず後頭部を撫でる、氷の如き死人の声。聞く者の体温すらこそげ取る。悪態をついたライチくんにギョロリと向けた目が、どうにもおぞましかった。
白目の代りに金色に鈍く彩られた大きな目。錆が浮いた薄いメッキを、ガラスで覆って誤魔化したような硬質な黄金色は、やはり体温を持っていない。猫の如く縦長の瞳孔。
凹凸の薄い蛇顔に埋め込まれた金属質の異様な目玉は、決して人のものではなかった。生きとし生ける生命の根底を崩し、揺さぶり、ザワザワと周囲に恐怖を掻き立てるかのよう。
「働きとはどういう意味だ」
瞬きを一切しない、金の眼光が私の方を向く前に。蛇眼に射すくめられる前に、庄司くんが私の前に体を入れた。
『少し妙な気配も混じっているが、こうして上等な贄を用意してくれたのだ。祈りによって力も得た。ここまで御膳立てしてくれるとは随分と気が利く狐じゃないか、褒めてやると言っている』
「宇佐子はお前のものじゃねえ。勝手に俺を使いっ走りにするんじゃねえよ」
「どうも贄と聞こえるが。宇佐子さんを食べる気か?」
『それは希少な巫女だろう。食べやしない、体を頂くだけだ。現世は興味深く変わっている様子、せっかく体に降ろしてくれるというのだから、少し楽しませてもらおうではないか』
「……話にならんな」
会話を重ねてみても噛み合う気配にはほど遠く。言い捨てた庄司くんが、どこからともなく小太刀を取り出した。逆手に刀を構えつつ、片手は印を結んでいる。
それを見た神様は僅かに顎を上げ、手にした扇で口元を覆った。
『ほう、心得でもあるか。法師か修験か知らないが、鍛えた術を試してみるか?』
「ムダだ庄司、鬼の加護すらコイツにゃ効いてねえんだぞ!」
「僕も伊達に十界は修めて居らぬ。不動明王のお力、試せというなら甘えよう。オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ……」
止めるライチくんを無視して呪文を唱え始めたけれど、私もそれはダメだと思う。だってこれ、どう考えても挑発でしょう!?
「不動金縛! 臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
ハッ、と気を吐いて印を突き出した。でも。
神様は余裕のままだ。扇の端から緩んだ口元が覗いている。代りに漂ったのは雨後に轢かれたカエルの如き生臭さだった。
異様な匂いに眉を顰めるより早く、庄司くんの足下にワラワラと蠢く影が立ち上がる。下草を縫って細長いモノが大量に這い寄っていたのだ。
「ぬう、蛇か!」
「やだやだヤダ、気持ち悪いっ」
何十匹もの蛇が絡むのは庄司くんにだけではない。次から次へと竹林から這い出でて、ライチくんにも私にも。滑った爬虫類が臭みと共に忍び寄って来たのである。
現われたヘビは鎌首をもたげ、チロチロと赤い舌を出し入れし、隙あらば食いつき飛びかかり足を体を絡めようと伺っている。
『そんなものか。まだまだ修業が足らないな』
「予想以上にコイツはヤバい。いいか、二人とも今すぐ逃げろ」
「逃げろって… ライチくんは!?」
飛びかかろうと隙を伺うヘビも大事だが、ライチくんの言葉が心臓を押し潰した。
一人で何かするつもりだろうけれど、それはダメだよライチくん。感じる異様さは羽虫の集まった化け物なんてものじゃない。あれの親戚みたいなことを言っていたけれど、この人は絶対に違う。根本から違う何かだ。
この神様が出来損ないの神様なのか鬼なのか、そんなことはわからないけれど、私にだって確実にわかることはある。ライチくんがいくら強くても、この人の相手はムリだって。
「やってみるさ、時間を稼ぐ。…宇佐子を頼んだぞ、庄司!」
なのに恐ろしい言葉を吐いて、体にオーラを纏い始めた。ライチくんの幻術だ。眩しさに神様が目を細めると、足に絡みついたヘビの大群がピタリと動きを止めた。
「宇佐子さん、こっちだ!」
その隙を逃さずに、ヘビの首をスパスパとはね飛ばした庄司くん。私の手をぐいと引くけど、そんなのって。
しかし大群が動きを止めたのは一瞬だった。逃れた私たちを追って、再びうねうねとくねり出す。庄司くんの火薬が火を吹いて、ヘビの一部を吹き飛ばしても多勢に無勢。
『熱を捉える蛇に対して、幻術も効果は薄かったようだな。もっと遊びたければ遊んでやるぞ?』
口の端を釣り上げた神様の言葉が終わるのが早いか。不穏な地鳴りが山を覆う。ライチくんの足下が鳴動し、陥没して崩れ始めた。
本能がそうさせたのか、素早く飛び下がったライチくんは無事だ。それでも陥没は周囲を飲み込みつつも益々太く、長くなり。鳥居前の地面に巨大な顎門が刻まれると。
中から現われた影がある。大蛇だった。太さが一抱えほどもある、大きなヤツが――二匹、四匹、八匹も。裂けた地面からニュルニュルと、天に向かって竹のごとく。
「ライチくん!」
「俺に構うな。行け!」
私の叫びは空しく、駆け寄ろうとした体は庄司くんに抱え止められた。
ライチくんは短刀――天辰の刃を構えたままに、伸びる蛇の動きから目をそらさない。きっと私たちに構う余裕すらないのだろう。地面から生えてゆらゆらと蠢く大蛇の群れを見上げつつ、小さな背中が逃げろと語りかけるのみ。
竹よりも高くグングンと伸びた大蛇は互いに絡み、太くなり。黒い瘴気が風を孕んで渦を巻いた。その様を悠然と見上げていた神様が鼻を鳴らす。光を透した体のままに、浮かび上がって瘴気の中に消えると。
――纏う闇が晴れ渡った。姿を表したのは白く輝く一体の怪物。
八体もの大蛇が一つになって、森の古木をものともしない、巨大なモンスターとなって顕現していた。
手足を持たずに怖気を振るう、一本の長い体。滑りを帯びた白いウロコが赤い空を反射している。悪夢のような三角の頭が遥か見上げる位置にある。硬質に輝く紛い物の目玉は、まるで死を齎す二つの月。
この世の生物とは思えない、色を無くしたウワバミが。
雑木と竹林をなぎ倒し、黄金の目で睥睨しながら小山の如くとぐろを巻いた。
「……逃げろ、宇佐子ぉ!」
中身はともかく見た目は子供のライチくんだ。七、八十メートルもあろうかという不気味な巨体と比べれば、象とネズミほどに違う。それでも金色のオーラを纏って気合を吐いて、高く高く大地を蹴った。巨大な三角の頭に向けて。
滑って硬いウロコではなく、怖気を振りまく月の光に刃を突き立てようとしたのだろう。でもそんなもの、元より勝負になるはずもなく。
体をうねらせたウワバミの尻尾に易々と弾かれて、小さな体が天を舞う。
「いやあっ、ライチくん!!」
大蛇が僅かに頭を引いた、次の瞬間――。
裂けた顎門が、少年を一呑みに消してしまった。
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