第3話 稲荷社

 私が神社――ライチくんの稲荷社に向かったのは、学校が終わって日が傾いた頃。

 授業中もずっと彼のことが気になっていたんだ。せっかく知り合ったかわいい男の子だしね。


 カレンダーはそろそろ十月。早いところでは稲刈りも終わっているのに、日中はまだ暑さが尾を引いている。それでも確実に季節は巡り、木陰は涼しさが勝るようになっていた。

 青々と竹が茂る傾斜を抜けて雑木が目立つようになると、山際におんぼろ鳥居が現れる。


「おーいライチくん。油揚だぞ〜」


 竹と雑木に挟まれた境界を歩み、連なる鳥居をひょこひょこ潜ると。


「来るなっていったのに、なんで来るんだよ」


 拗ねたように、怒ったように。黒くて小さな少年が姿を見せた。

 よかった。今朝現われたのは気まぐれで、もしかすると二度と会えないのかもと思っていたから。


「そんなこと言わないで。ほら油揚げ」

「ありがとう」


 口は悪いけれど、この素直なところがたまらないのよね。

 モチモチと柔らかそうな頬を緩めて手を伸ばすも、すぐに口はヘの字に戻る。


「でも本当に来るなよ。いや来るなと言ってもダメなら、せめて社に手は合わせるな」

「どうしてダメなの。そのあたりちゃんと聞いていないよ?」


「ここの神様はクズだって教えたろう」

「ロクな神様じゃないって聞いたけど」


「聞いてんじゃねえか。いいか、宇佐子の願いは叶わない。願い自体がロクでもないが、何か叶えようなんて殊勝な神様じゃないからだ。むしろお前の願いは眠っているこいつを起すかもしれない。俺はな、それを危惧しているんだ」


「食べ物の神様なんでしょう。何でそれがクズでロクでもない神様なの?」


 そうなのだ、できることなら私は食べたい。ケーキとかプリンとか毎日。

 おっぱい大きくしてくれなさそうなのは何となくわかったけれど、食べ物をねだるくらいはいいじゃない。


「…まあそうだよな。仕方がねえ、面倒だが説明してやる。稲荷社っていうのは日本中にたくさんあるんだが、その大本は京都にある」


「それって、伏見稲荷大社ふしみいなりたいしゃのことだよね」


 ライチくんから稲荷社だと聞いて、私も少し勉強したのです。授業中に。

 調べてみて驚いた。稲荷社と検索して現われた神社は私も見たことがあったから。

 テレビや雑誌の中でだけどね。


 ザ、神社・オブ・神社。赤い鳥居がズラッと並んだ有名なアレ。

 数え切れないほどの鳥居がトンネルを作る姿は幻想的で、まさにワンダーランドなJapanの姿。神社と聞いてまず思い浮かべるのはこれじゃないかな。


 ざっと読んだ説明によると、この伏見稲荷大社が稲荷社の一番偉い神社で、つまりは本社。名前を覚えるのに苦労したけど、神様は宇迦之御魂うかのみたま神というそうな。


 この小さな社も(赤くはないけど)鳥居が十コも並んでいるのだから、似ているといえば似ているのか。しょぼいけど。


 あと一つ、稲荷といえば有名なのが狐さんだ。

 狐ってどこの神社にもいるものだと思っていたけれど、そうでもないんだね。宇迦之御魂神の使いとされていて、大切にされているんだって。


「宇佐子のくせに優秀じゃねーか、正解だ。そして稲荷社がどれだけ多いかっていうと、それはもう社の中で一番多い」


「へえ。伏見稲荷大社ってカッコいいものね。東洋の神秘って感じで」


「そうじゃねえ。稲荷っていうのは、これは流行り神なんだ。江戸時代に大流行したんだよ。祭神の宇迦之御魂神は食べ物の神様の中でも、稲の神様だって言われている。だから米を作る農家が信仰するのは当然なんだが。これが江戸時代になると豊かさの象徴として、商人にも信仰されるようになった。稲荷を信仰すれば商売繁盛、儲かりまっせと、そんな感じで関東を中心に一大ブームが起ったんだ。《伊勢屋稲荷に犬の糞》なんて言われるほど」


「犬のフンって。神社でワンコ飼ってたの?」

「稲荷とフンはその辺りにゴロゴロあったってこと。江戸の町で多いものの象徴だよ」


 え〜。ワンちゃんがかわいいのはわかるけどさ。フンはちゃんと飼い主が責任持って片づけてよね。でないと水戸の黄門様とか、暴れん坊のあの人とかも大変じゃん。


「とにかく、どいつもこいつも稲荷社を建てて拝んだんだよ。現世利益の最たるものだ。それだけじゃなくて稲荷神――宇迦之御魂神は早い時期から荼枳尼天だきにてんとも習合した。ここまで稲荷信仰が世間に流行ったのはその影響が大きいんだが、話が逸れるからそっちはいいや。問題はあまりに流行ったもんだから、屋敷で祀る屋敷神や、その辺の小さな祠、来歴不明の社までこぞって稲荷社にしちまったことだ」


「よくわかんない言葉がちょくちょく入るけど、不明って、どゆこと? 神社なのに神様がわからないってこと?」


「その通り。神社で祀られている神様なんて本当は正体不明ばかりだよ。稲荷社だって宇迦之御魂神と言われているが、それすら違う。正体を見誤った一例だ」


「何いってんの。ライチくんバカなの?」


 今まで神様が宇迦之御魂神だって言っておいて、この後に及んで違うとか、意味わかんないよね。


「宇佐子にだけはいわれたくねえ。でも大切なところだからよく聞けよ。もし学校でテストに出たら、伏見稲荷大社の祭神はだ。稲荷社も同系列で、一般的には。でもな、伏見稲荷の創建時に祀られたのはあくまで稲荷神で、宇迦之御魂神だなんて一言も言っていねえのさ」


「まって。さっきから出てくる稲荷神いなりしんってなに?」


「ああ、これは俺の説明が悪かった。稲荷神ってのは伏見稲荷大社が造られた時点で祀られた神様で、宇迦之御魂神とは違うんだ。似たような神様だから同じだろうと、一緒にされたんだよ」


「フュージョンしたってこと?」


「言ってることはわからねえが、たぶんそんな感じだ。稲荷神は《稲成りいなりの神》だと… 稲の神様だと言われている。でも日本書紀や古事記――これらを合わせて記紀って言うんだが、記紀には載っていない神様だ。一方、宇迦之御魂神も稲の神様で、こちらは記紀に名前がある由緒正しい神様。両方とも稲の神様になるだろ。性格が同じならば、じゃあ同じ神様だと解釈されただけのこった」


「つまりコナンくんと新一くんは、別人だって言いたいのね?」


「別人だ。稲荷神と宇迦之御魂神が同じ神様だと言い切って、わかっている気になっているだけだ」


 かわいい顔を微かに歪めて、ライチくんは鼻で笑う。何だかそれが自嘲めいているような気がして、私は少し不安になった。しかし今の問題は稲荷神だ。この神様が宇迦之御魂神じゃないのだとしたら。


「じゃあ、稲荷神って何なの」

「その正体が何かって話はややこしくなるからまた今度な。問題なのはこの社だ」


 忘れかけていた問題の本質を思い出す。そうだった、この社の神様がロクでもないって理由。そのために訳わかんない講義を聞かされていたんだっけ。また今度、という言葉に少しだけ安心したことは内緒。


「この社はな、本当は稲荷社じゃねえ。蛇塚だったんだ」

「……へび?」


「蛇。蛇を祀った祠が稲荷社になっている例は多くて、この社もその一つだよ。ここの神様は蛇だ」

「ライチくん、何でそんな神様に仕えているの?」


「仕えてるって、どゆこと?」

「どゆことって、どゆこと?」


 二人で頭を傾げる。だって狐ってほら。神様の使者とか、そういう感じなんでしょう?

 狐は稲荷社のお使いなんだって、そう書いてあったけど。ここが本当は稲荷社じゃないならあんまり関係ないかもしれないけれど、それでも神様のお使いだからここにいるってことじゃない。


「だって、ライチくんは狐なんでしょ」

「お前そこまでバカじゃなかったのか」


 どこまでバカだと思われていたのかしら。言いたい事はいろいろとあるけれど。


「俺はここに住んでいるだけだし、そもそも狐と稲荷は関係があっても特に仕えているわけじゃねえ。それもややこしい話だから今は聞くなよ、どうせ理解できないし」


 またバカにされた気がする。でもやっぱりこの子は思った通り、狐だったのだ。

 耳はないし尻尾もないけど、だからこんなにかわいいのね。

 あれ? ってことは、私人間。バカにした子、きつね…。


「お前また失礼なこと考えているだろ」

「そんなことないよ。ねえ、私のお家に来ない? ゴハンご馳走してあげる」


「気持ちはありがたいが、俺はペットじゃねえ。野生のプライドってもんがある」

「ペットだなんて、そんなこと。ひかるげん…」


「やっぱりロクなこと考えてねーな。いいから今日はもう帰れ。油揚げありがとよ」

「わかった。ライチくんは明日もここにいるよね?」

「生きてりゃな。ストーカーには気をつけろ」


 ライチくん、ぶっきらぼうだけど優しいんだよな。さっさと社の陰に姿を消してしまったけれど、きっと明日も顔を出してくれる。話の続きだって聞かなきゃいけないしね。


 願いは叶わなかったけど、彼と友達になれただけで価値はあった。

 あとは毎日顔をあわせて、今のうちから手懐けといて。…って、あれ?


「相手が動物じゃ、ダメじゃん」


 計画の決定的な弱点に気づいた時。

 不意に、ゾクリという悪寒が走って振り向いた。



 ……何、今の。


 社からの帰り道、ここは人気のない竹林だ。林の合間を縫う風が一陣、ザザと音を立てている。日は落ち切っていなくても十分に暗い。

 今まで意識してこなかったけれど、改めて思う。乙女の独り歩きには危険なロケーションじゃないだろうか。まさか。


「庄司くん?」


 彼であって欲しい。彼なら私に嫌なことはしないだろうから。


 中肉中背、特に目立つことのない人。いつもは優しそうな雰囲気なのに、時折厳しい目で見つめてくるクラスメイト。

 なぜ彼が私を気にするのか、それは一向にわからない。顔はそれほど悪くないからストーカーなんてしなきゃいいのに。

 少し気持ち悪いけど、それでも人畜無害な確信があるからこそ、私は彼を信頼していたのだ。放っておいた、それなのに。



 私の声は虚空に消えた。震えた声に答える声はない。ただザワザワと揺れる風。



 心臓をきゅっと掴まれる感覚。この予感はまずい。

 私は本能に突き動かされて、その場から逃げようとした。でも。


 今まさに背を向けようとした竹林の、奥。


 影になった竹の向こうに、ゆらりと蠢くものがある。

 闇よりも濃く揺らぐ何かが奥で立ち昇ったのを、私は確かに見てしまった。




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