第10話 儀式

 甘いはずの黒い煮豆が驚くほどにしょっぱくて。お母さん、塩と砂糖を間違えたんじゃないだろうか。この塩辛さを消すにはミカンが良い。


 テレビの横に鎮座した白いて丸い二重の物体、その上にちょこんと乗った橙色を目指して手を伸ばす。

 ミカンは遠く、届くはずもないのだけれどコタツからは出られない。出なくても本気になればこのくらいの距離、届くんじゃないかと思って精神を集中する。


 今こそ伸びよ、私の腕。ミカンよ来い… ちょっと、お父さん! 突っ立って年賀状を見てないで、そこのミカン取ってよ――。



 なんて夢を見ていた気がする。

 目が覚めれば私は一人、畳の部屋の真ん中でボオッとしていた。秋だし。


 障子の向こうを横切るのは雀の影か。チュンチュンという声に、ここがどこだか思い出す。お婆ちゃん家じゃなくて呉羽様ん家だよ。田舎なのは変わらないけれど、私は食べられることなく、生きて朝を迎えることができたのだ。


 チュンチュンに混じって不思議な響きが聞こえている。堅くて高い音階の調べ。

 きっとこの音のせいで、お正月の夢なんか見たのだろう。

 音の出所を探そうと、障子をそっと開けて廊下を覗くと。


「おはようございます」


 はんなりとした声をかけられた。声の主はおまんさんと言って、昨夜もご飯を作ってくれた人。

 家族って感じではないから、きっとメイドさんみたいなものだろう。奥ゆかしい所作が日本美人的な和服姿を指して、メイドさんも何だけど。この里に普通の人間がいるとは思えないから、この人もソレ系だろうとは思っている。


「あ、おはようございます!」

「着替えをお持ちしたので、こちらを。お手伝いしましょう」


「ありがとうございます。ところであの、この音は?」

「呉羽様です。美しい音色でしょう、お琴の名手ですから」


 やっぱり奇麗な人って多才なのね。腕の善し悪しなんて全くわからないけれど、お正月っぽい音は琴線に触れるものがある。なんてね。

 着替えも何も用意せずに、突然お泊まりになった私に用意してくれたのは、当たり前のように和服だった。朱色に舞った小さい紅葉が可愛らしい。呉羽様は黒地に大きな紅葉だったから、なんだか姉妹みたいだね。

 七五三で着た時以来の体験に嬉しいやら恥ずかしいやら、少しドキドキしてしまう。驚いたのは腰巻きみたいなのを巻くだけで、パンツは履かないんだって。下半身の違和感にビックリだけど、馴れてしまえばこれはこれで。えへへ。


「まあ宇佐子さん。とても可愛いわ」


 どうにか帯を締めてもらって挨拶に伺うと、呉羽様は演奏の手を止めて微笑んでくれた。

 あ、丁度いいところにライチくんと庄司くんもやって来た。二人も今日は浴衣を着ていて、何だかお祭りみたいだね。


「ふっふー。どう、ライチくん?」

「おはよう宇佐子。孫にも衣装ってか、意外と似合っているじゃねーか」


 顔を赤らめて「別に」とか言っちゃうタイプを予想していたのに、そうでもなかったよ。でも褒められたのはとても嬉しい。


「ね、かわいいでしょ!」

「別に」


 あれれ。想定していた所と違う箇所で頂いたけれど、どゆこと?

 女心がわかっていないお子様然とした少年に比べて、庄司くんは大人だった。うんうんと頷きながら可愛いと返してくれたけど、あなたはいいや。


「さて宇佐子さん。今日はあなたの身にかかる危険を回避するために、儀式を行います。時刻は夕刻だと連絡があったわ。けどその前に禊が必要。少し不安かもしれないけれど、言われた通りにしているだけでいいわ」


「…今さら疑う気もないが、何をする気かだけは教えて貰えないだろうか」


 素直に頷いた私とは違い、呉羽様を問い詰める庄司くん。彼なりに心配してくれているみたい。


「そんなに難しい事ではないの。あなたも一緒で構わないから、安心なさい。きっと興味深いと思うわよ」


 うふふと笑う呉羽様。結局肝心な点は教えてくれない。もう恐怖心は抱いていないけれど、私の命は彼女にがっつり握られているみたいだね。




 ◇◆◇◇




 赤く染まった空も明度を落とし、そろそろ夜が訪れるかという時刻。そこかしこに立てられた篝火の明りが存在感を増している。昨夜の静けさや日中の長閑さとは違い、異様な雰囲気が支配していた。


 里の中心、やひこ婆の家の向いにあったこの建物は、きっと集会場だったのだろう。本来なら広い板間が一室だけの簡素な室内らしかった。

 今は戸板を取り外されて、左右の柱だけを残す形で外に大きく開かれている。三方には壁も残っているのだけれど、その様はまるで演芸の舞台のようだ。


 舞台に上がっているのは主役だけではない。勢いで自分を主役と言っちゃったけれど、舞台の中心には私と呉羽様が並んで正座している。

 少し離れてスーさんが仁王立ちし、壁際には人がぐるりと足を組んでいた。やひこ婆を始めとして、ライチくんや庄司くんの姿もある。

 開かれた正面には村人の姿がひしめいている。もちろん知らない顔ばかり、二百人ほどいるだろうか。老若男女、つまり子供の姿もあるけれど、これが里の全員ならば本当に小さい村だ。


 日が傾いた頃からたっぷりと滝に打たれた私が、ブルブルと震えながら着せられたのは白い浴衣。誰が見ても死に装束。もし呉羽様やスーさんも白くなければ、酒池肉林を覚悟していたところだろう。その場合のお肉は私だけれどね。

 不安な気分になった私に気を使ってくれたのだろうか。呉羽様が穏やかな声で口を寄せた。


「怖がる必要は全くない。宇佐子さんは気を楽にして座っているだけ。そして感じたことを感じたままに、受け止める。ただそれだけよ」


 コクコクと頷く私。怖がるなと言われても注がれている大勢の目が怖い。その中でいつまで正座していなきゃいけないのかが、今のところ一番怖いのだけれど。



 間を置かず刻が来たようだ。乾いた太鼓が打ち鳴らされると、ガヤガヤとした雰囲気が一気に去って空気が変わる。一斉に注目する観衆。


 ――正面に歩み出たスーさんがおもむろに腕を上げると、脇の篝火が反射した。


 光ったのは手にした刃物。ライチくんの短刀らしい。天空に掲げた刀身がチロチロと揺らぐ妖しい間隙。そして。


 訪れた一切の静寂と緊張の中。突如、スーさんの巨体が舞った。

 ドンと両足を踏み、間を空けず二歩前進。スーと引きずった足を揃えて、ストンと落とす。静寂を破る足踏みで、大きな体が移動する。



 ドン。タンタ。スー、トン。 ……ドン。タンタ。スー、トン。



 揺らめく篝火に照らされた舞台の上を舞いながら、四隅を睨む。

 時々歯をカチカチと噛み鳴らすのは、何ゆえか。



 ドン。タンタ。スー、トン。 ……ドン。タンタ。スー、トン。



 不思議な感覚だった。爆ぜる炎の音に混じって、届くのは大きく響く足音のみ。空気を震わす振動と、床を震わす振動と。スーさんの心臓から放たれる鼓動が振動そのものになって、私の体を揺さぶっているようにも感じる。


「六甲六旬十二時神。青竜蓬星せいりゅうほうせい天上玉女てんじょうぎょくじょ六戊蔵形ろくぼぞうぎょう天神地祇てんじんちぎ。…我ら神々乗るところ、巡るところ居るところ。悪賊畏れ悪鬼は滅ぶ!」


 舞台を一周したスーさんが、朗々と。謡うような大声を響かせる。

 里を越え山を越え、まるで世界に宣言するかのように。野太い声が空を裂いた。


禹歩うほ天罡てんこうに応じ。玉女傍らにはべ不祥ふしょうく。…万精厭伏ばんしょうえんぷくし向かうところ災いなく、願うところのものは就る。天上玉女、今我らに従い進まん事を請う!」


 (ドンッ!)


 舞台の隅にいた初老の男性が、乾いた太鼓を打ち鳴らした。

 するとスーさんが気合を吐いて短刀を振るう。小刻みに空を斬る。まるで空中に文字でも書くかのようだった。


 (ドンッ!)


 複雑な手数で文字を書き、舞台の周囲に文字を置く。一つ置くごとに音が鳴る。

 耳に響いた太鼓の音は、全て数えて二十四。


 成すべきことを終えたのか。巨体が膝をつくと、次いでお婆ちゃんが立ち上がる。

 恭しく差し出された短刀を受け取り、墨のような羽織を翻した。


 トン。 タンタンスー、トン。 ……トンタンタンタン。 スー、トン。

 

 小さな体で軽やかに、ステップを踏む。刀が踊る。豆のようなお婆ちゃんは、老婆とは思えない足さばきで剣と共に舞うと、嗄れ声が世界と炎を震わした。


「陰陽乾坤けんこん北南天地。ここに両義を太極し玉女の加護を与えん!」



 …刹那だった。私の手が引かれた。隣に座る呉羽様にだ。

 驚くヒマもないうちに、バランスを崩して柔らかい胸に抱き留められてしまう。ふわりと香が鼻腔を過ぎる。



「追う者は死、邪念は潰え、捕らうる者は忽ち滅ぶ」



 …何が起こっているのかわからない。体からは力が抜けて、何もできない。

 私に許されたことはおそらく、ただ感じることのみだから。



 ――感じるのは呉羽様の温もり。トクトクと流れる心音、香木の香り。崩れた足がジンジンと脈打つ。


地戸ちこから入り遊行し、いざ守門せよ。急々如律令!」



 ドン。タンタ。スー、トン。 ……ドン。タンタ。スー、トン。

 (ドン。ドドン。カッ、ドンッ! ……ドン。ドドン。カッ、ドンッ!)



 意識の外で床が響く。彼方では太鼓が響く。魂を愛撫するかのような深い香りが全身を包み、夢心地とはこのことだろうか。

 …暖かい膝の上、お母さんに包まれて。ひんやりとした長い指が頬を這って、微熱を拭う。



 ドン。タンタ。スー、トン。 ……ドン。ドドン。カッ、ドンッ!



 あれ、呉羽様って髪の毛を結っていなかったっけ。

 なのに何故、さらりとした感触が今、私の耳朶を撫でるのだろう。


 …微かに湧き上がった疑問もすぐに閉ざされてしまう。

 何故なら魅する香りと体温が近づいて。私と、私の視界の全てを覆って。



 ――唇に重なる、柔らかな感触。



 呉羽様が侵入する。剥出しになった私の中で、心音がとくりと波打つ。

 蠱惑の吐息に跳ねたのはきっと心臓だけではないのだろう。

 どことも知れない奥底が波打つと、暖かい波紋がジンと湧いた。


 …湧き出した快楽に足が引かれ、太ももが擦れる。


 真芯を濡らした波紋は熱く、残った理性をじわりと溶かしていく。

 次第に表層へ広がり、ぬるりと溢れ、いよいよ全身を満たそうかという頃。


 口腔から奥を目指して侵食していた、もう一つの波紋が重なった。


 熱く沸き立った波紋は呉羽様に撫でられ、抱かれ。取り込まれ、吸われ。

 一つになって、沈んでいった。



  ドン。 ダダン! スー、 ドドンッ……



 大きな足音、太鼓の響き。一際大きな余韻を放って、儀式は終わる。




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