第14話 蛇
ナウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボッケイビヤク・サラバタ……
竹林が侵食した山中を低く、重く。質量を携えた呪言が流れる。安らかであるはずの
逃げ遅れた鳥が過る狭い空には明度も残るが、山中は影の様相がすごぶる濃い。濃いのは光を嫌う闇であり、闇が引き寄せた瘴気でもある。
瘴気を纏ってそびえる蛇体は、この世に暮らす生物の絶望を体現していた。汚れを知らぬ白いウロコがカタカタカタカタと鳴動すると、差し込む残光を反射して錦の波を描き出す。
感情を逸した長細い瞳孔がギロリと動く。決して閉じることのないガラスの瞳が捉えた先には、大蛇に比べて哀れなほどに無力な人間が立っていた。
彼が胸に抱いたものは、小さな矜持に他ならない。対するは絶大な力を持つ神である。それでも譲れぬものがあると、絶望的な戦いに今、臨む。
――時が来た。一陣の風がザザと竹林を掻き鳴らし、刹那。
双方の体躯に漲った意地と力が、弓矢の如く。
いざ放たれんとするワリといい感じの雰囲気だったかもしれないけれど。
「待ちなさい!」
そこに割って入ったのは、何を隠そうこの私。
可憐でかわいい辛島宇佐子だ!
「宇佐子さん… 何をしている、何故逃げぬ!」
『ようやく観念したか贄よ。――おや?』
悲壮な表情で振向いた庄司くんとは異なり、月の蛇眼がギロリと射貫く。
ヤダ怖い。でも見上げる私はライチくんのために臆しているヒマなどないのだ。
『その気配、娘じゃないな。忌々しい術をかけてくれた鬼か』
「ご明察。一目で見抜くとは、さすがね」
バレたか。二人の戦いに水を差した私は、自信たっぷりにうふふと笑う。――実は今の私は私であって私じゃない。私の中の呉羽様なのだ。急な展開で何を言っているのかわからないと思うけれど、私だって困惑している最中なのだから許してね。
「呉羽様、だと? 宇佐子さんに何をした。彼女の体を、この場で何を!?」
そんな私の元に跳躍した庄司くんの頭を、呉羽様がグワシと捕らえた。
あっという間の出来事に驚く暇すらない。餌を前にしたウツボの様な動きで庄司くんを引き寄せると、一連の動作で唇を重ねる。
竹林をバックにどこからともなくヒラヒラと舞い降りる楓――ナニコレ?
「……急に何を。宇佐、様?」
つかの間のキスからポイ捨てされて、唖然としている庄司くん。ものすごく混乱しているけれど顔が真っ赤だよ。
…ってまって。ちょっとまってまって。キスしたのは呉羽様だけど、この体は呉羽様のものじゃない。これは私の体であって、じゃあキスしたの私じゃん。ヤダ庄司くん何してるのバカっ!
「ゴメンナサイっ。…これはまさか、頭に直接?」
あれれ。思念が庄司くんに届いたらしい。体は呉羽様が乗っ取って動かしているから私の声は出ていない。なのに会話だってできそうなのは便利なのかそうじゃないのか。代りに私の口は勝手に動く。
「面倒だから応急処置よ。後は適当に察しなさい」
『……鬼が贄に何をしている。希少な私の巫女にいいっ!』
そりゃあ、当人である私にだって何が起きているのかわからないんだもの、ヘビにだってわからないよね、神様だけど。
どんな術を使ったのか知らないけれど、体を差し出した私の中に、呉羽様は入ってきた。私だって可憐な宇佐子さんのままだけれど、運転しているのは呉羽様。つまり私ってば車の助手席に乗っているようなものだね。
極道の妻のような自身の体は竹の根元に預けたままだったから、心だけとか魂だけとか、そんな感じなのだろうか。霊体とか言っていた気もするけれど、とにかく今の私と呉羽様は文字通り、一心同体… じゃなくて、二心同体となっているのだ。
蛇神様が私の体を求めていたのも、もしかしてこんな感じだったのかしら。でも男の人に体を乗っ取られたりしたら、変態なコトしか想像できないじゃん。例えヘビと入れ替わってもラブストーリーにならないから絶対イヤだし。
先を越されて怒りを露にしたヘビを前にして、ところが呉羽様は惚け加減に妙な事を言い出した。
「まあ怖い。そんなに怒るものじゃないわ。少しだけ、陰陽師のマネゴトをしてみようかと思っただけよ」
『鬼が陰陽師とは笑わせる。その気配、相当な力を持つようだが所詮は鬼だ。今すぐ私の贄から出て行け』
「そうね。あなたは蛇神、言わば根源の神。比べて私は社にすら祀られていない一柱の鬼女でしかない。鬼の身である私では、あなたに決して敵わない」
…何を言い出すのか。呉羽様は強いからこそ、勝算があるからこそ、私の体を操って今この場に立っているはずだと思うのだけれど。なのに神様に敵わないなんて、じゃあ一体なぜ。
『流石に道理はわかっているようだ。ならば大人しく――』
「なぜ蛇が根源の神と言われるのか、あなたは知っているのかしら」
『…何だと?』
「奈良にある最古の神社の一つ、
『当たり前だ、私と同じく蛇神だろう。それがどうした』
「第十代、崇神天皇の御代のこと。大物主神は妻と見初めた
時は流れて第二十一代、雄略天皇の御代のお話。天皇は
『まさかと思うが鬼、蛇体をバカにしているのか?』
「いいえ、これらは日本書紀の記述なのよ。日本の正史が、神の正体は蛇であると公言している。それだけじゃないわ。初代天皇であらせられる神武天皇は海蛇の息子だし、奥様は蛇のご息女。かの有名な八岐大蛇は、体内から三種の神器の一つを生んだ。ならば彼も神様以外の何者でもないわね。
記紀にはね、たくさんの蛇が散見しているの。国土と多くの神々を生み出した
「天照大神が蛇だって?」
大蛇と呉羽様のやり取りを所在なげに見守っていた庄司くんが声を荒げた。
いや何を言っているのか、私だってビックリだよ。ザワザワと竹林を揺らした風が、頭の中まで揺らした感じ。
ヘビが神様だったことすら、フツーに私は知らなかったけどさ。それでも天照大神くらいは知っているよ、確か太陽の女神様だったはずだよね。なのに、どゆこと?
そんな私たちに(実際には庄司くんにだけだけど)肩を竦めて、呉羽様は私の口で滔々と語る。なぜだろう、こんな場面なのにちょっと楽しそう。
「変よね。でも鎌倉時代に
それホントの話ですか? 引きこもりで有名な神様のイメージが、ガラガラと音を立てて崩れていく。だってねえ…、実はオトコでリア充だなんて言われても。
「私としては思うところもあるのだけれど、まあその話の真偽は置いておくとして。そんな天照大神と
「たしか黄泉国から戻った伊邪那岐命が、川で
天照大神の話に余程ショックを受けたのか、庄司くんがフツーに答えている。とぐろを巻いた怖い大蛇を前にして。何だか焦点が合っていないようにも見えるけど、衝撃が大きすぎたのかしら。
「正解よ。でもなぜ目と鼻から最高神とも言える尊い神様が誕生したのかしら。蛇神であるあなたなら、その理由も知っているんじゃなくて?」
『………』
「川で穢れを落としたということは、
実は脱皮の最中に、両目と鼻だけは上手くいかずに残ってしまうことがあるの。その場合、手足を持たない蛇は相当苦労をするそうよ。つまり三貴神は、脱皮の最後に残った目と鼻なのよ」
まって。脱皮って脱皮だよね。脱皮をするの? 神様が?
「蛇は脱皮をくり返し、古い皮を脱ぎ捨てて生命力を増す生物。脱皮の前には徐々に活動が鈍ってしまう。もちろん蛇本人には当たり前の生態の一端だけれども、傍から見ればこれは、死と再生のイニシエーションにも見えるのよ。
禊とは
『……鬼、お前は何が言いたいのだ?』
あらら。ずいぶん放って置かれたからか、神様がいらいらとしておられる。
まあこの状況に面してよく喋る呉羽様が明らかにおかしいのだけれど。
「多くの神々を生んだ伊邪那岐命。彼が蛇そのものかどうかはともかく、確実に蛇の特性を持っている。ならばそこから生まれた神々も蛇なのは当たり前でしょう。実際に様々な神様や現象が蛇に見立てられているわ。天地を繋ぐ雷も蛇なら、空に伸びる虹も蛇。輝く目を持つ神も蛇」
「輝く目?」
「ええ。輝く目と言えば有名な神様がいるわね。天狗のモデルともいわれる
庄司くんの疑問に呉羽様は笑顔を向ける。カガチ、カガ、ナガ、ナギ、ハハ。何れも蛇の古語だという。神様であるイザナギは、名前から蛇を隠し持っているのだと。
流石にチンプンカンプンだから私の頭はお手上げだけれど。呉羽様の言葉が本当ならば、日本中の神様がヘビばっかりになってしまうんじゃないかしら。
「それはそんなに驚くことでもないわ。実際に私たちはお正月の度に、丁重に蛇を祀っているじゃない」
「蛇を…? まさかそれは、鏡餅のことか」
カガミモチって。テレビの脇に置かれたアレのことだよね。白くて丸い二段になったアレ。神様の食べ物じゃなかったの?
「鏡餅はお供え物ではなくて、神様の依り代よ。あれ自体が神様ね」
「…鏡餅とは言葉そのままの、神社で祀っている鏡の意味だと僕は聞いた」
「ふふ。平たい形が鏡だと言うのね。ちょこんと乗った
二段になったお餅にミカンは、蛇がとぐろを巻く姿。そう言われてしまえば確かにヘビ以外にはもう見えない。とても鏡になんて見えないじゃない。
「因みに正月に迎える年神様、鏡餅に宿る神様は、姿を一本足だと伝えられているわ。足が一本しかない神様が蛇身に宿る。それ以外の答えはないわね」
『大人しく聞いていれば長々と。全てが蛇神であると言うなら、私の力も容易に想像できるだろう。頭を垂れて従うべきだと言うことが!』
「待ちなさい。あなたと私が戦えば、確実にあなたが強い。それだけ蛇は根深いの。でも何故これほどまでに蛇が文化に浸透し、神話の中にちりばめられて崇められているのか。その理由まではあなただって考えたことはないでしょう」
勝てないと言い切りながら、やっぱり呉羽様は楽しそうだ。二心同体の私にはヒシヒシと伝わるよ。そんな様子に疑問を抱くこともなく、お言葉に唸ったのは庄司くんだった。頭大丈夫かな。
「確かに蛇の姿をした神は世界中にいる。インドのナーガ神や、アステカのケツァルコアトルも蛇だし、エジプトにだっている。キリスト教では神ではないが、やはり重要な位置にある。人類にとってこうも蛇が特別なのは、太古の記憶がそうさせているからだと聞いたことがある」
「そうね、蛇は霊長類の天敵だから。その頃の恐怖の記憶が今でも脳のどこかに眠っているという説は、私も信憑性があると思うわ。加えて日本においては、もう少し特殊な事情が存在するのよ」
呉羽様はこれ以上何を言わんとしているのか。目の前の巨大な存在などとうに忘れたとばかりに、不思議な話はまだ続く。
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