第10話 初戦

 かつて安西庄司だったもの、そして豪山の怨霊と融合しつつある肉体は、眼前に発生した光輪に我慢しきれず、手で顔を覆った。

 光がやんだ。

 ようやく顔を戻すと、さっきまでの美少女めいた少年の姿は消えた。かわりに白い毛で覆われた巨大な獣人が立っていた。

 金色の目がこちらを見ている。その威圧感に我知らず体が震えた。

 

 四肢には巨大な爪が備わっているものの、プロポーションは人に近い。軽く背を曲げ、ゆっくり息をしながら手をだらりと下げた上体は、間違いなく二本の足によって直立している。

 対象の異様さが安西=豪山を戸惑わせた。白い牙を生やし、金色の目でみつめる顔は狼そのものなのに、野生動物とは思えない。強いていえば狼の毛皮をかぶった狼人間だが、あたりをはらう神々しい雰囲気、威厳としかいいようのない気配が白い体を包んでいる。当初は悪鬼、魔物の類かと考えた安西=豪山だったが、目の前の白い狼には、魔につきものの暗い虚勢が感じられなかった。

 底知れない存在を目の前に総毛だってしまい、一歩二歩と豪山は後退してしまった。

 くそっ。腹立ちまぎれに、「物の怪か?」と口に出してみた。


 白の人狼はなにも答えなかった。相手を冷徹に値踏みする狩人の視点と、動揺したままのタケルの意識が同時に存在している。

 狼になって、視野は劇的に広がった。自分の肩の後ろまで確認できるし、同時に細部も見分けられる。それを生かして窓ガラスに映りこんだ自分の横顔を確認した。あまりに相手が気味悪そうにこちらを見ているせいもあった。目玉を動かさなくても耳と牙が見え、そして鼻面も確認できた。

 こりゃ、完全に犬だとタケルは内心あきれた。

 いや、鼻面が長くて段がなく、顔を支える首は富士山の裾野のように広く、犬とはフィーリングが異なる。とにかく首の上は完全に狼となっていて、ふさふさした白い毛で覆われて、長い舌だってある。


 白狼は、一挙に性能の上がった金色の目の焦点を、ふたたび相手の顔に合わせた。

 安西先生の青白い表皮は、さんざん動き回っているのに乾いている。正しく発汗が行われていないのかもしれない。だが、力強い心音は狼の耳に届いている。

 同じくはるかに鋭くなった鼻を使い、においを嗅いだ。周囲に漂う病室のとナースステーションのにおいとは異なる、安西=豪山が放つ独特のにおいがはっきり感じられる。泥のようなにおい、焦げたにおい、そして血の匂い。汗の匂いからは、やや焦りが感じられる。人とは思えない金気くさいにおいもする。心臓のすぐそばから、安西先生のそれとは異なる異臭がする。


 安西=豪山は反応の薄い相手を前に、しばらく首を捻っていたが、足元に落としたままの巨大な包丁を素早くとり直し、今度は誘うように刃物を手首でこねくり回した。自分がうっかり威に打たれてしまったのが、気に食わなかった。豪山が復活によって獲得したのは、人の手の及ばない凄まじい力のはずだ。


 白の人狼は黙って相手を見つめた。準備もなく変身したため、自分がどれほど動けるから判然としない。

 そっと掌を開け閉めしてみた。違和感はないが、すさまじい力が感じられる。手足を軽く前に送って相手に迫ってみた。全身に曖昧さがなく、滑らかで精密に動いた。そして動くと自然に次のタメができている。

 そして、おそらくこれが肝心なのだろうが、精神はむしろ落ち着いている。獣になると頭にカッカと血が上るのかと思ったりしたが、違った。

 たかぶりも恐れもない冷静な自分がいた。タケル自身の不安な意識とは別のなにかが、目の前の安西先生だったものと周囲の環境を冷静にサーチしている。狩人の意識とはこうなのか。


 白狼が近づき、豪山は後退した。だが、不敵に笑った。

「少々昼寝をし過ぎたと悔やんでおったが、この世はますます面白くなっておった。こわっぱが山犬に変化するとはな。化け物め。動画を配信すればいい稼ぎになるぞ」

(化け物に化け物って言われた……)動画云々は、安西先生の記憶が言わせているのだろう。さっきの話した様子からすると、まだ、化け物の内部に安西先生は生きていて、完全には意思を奪われていない可能性は高い。

 ただ、元来が喧嘩は得意ではないタケルには、これからどう相手に対処すべきか見当がつかなかった。ひとまず、安西=豪山を念入りに観察した。

(おや。身体の中はほとんど人間のままだ)

 恐ろしいことに、目からの情報が鼻や耳からの情報と統合され、相手の心臓、首筋や太腿の大きな血管のありかがレントゲン写真を見るように感じ取れる。

(爪で血脈を弾くだけでいい)

 そんな意識が浮かんできて、自分にびびった。たとえ化け物に乗っ取られてはいても、まだ安西先生の意識が残っているなら、どうにかして助けたかった。

 

 相手の内心の逡巡を臆したと見たのか、「犬め、主人は誰か教えてやる」

 言うが早いか、安西=豪山は短く呪文を唱えた。すると、彼のまわりに青白い炎のようなゆらめきがいくつもいくつも現れた。

(妖術?幻術?)

それぞれの中央に人の顔のような影が浮かび、安西先生の周囲を取り巻いた。ゆらゆら宙を揺れながら白狼をにらんでいる。ちょうど光る生首に因縁をつけられているようなものだ。焦点の合わないたくさんの白い目に見つめられるのは、決して楽しくはない。

 「それっ」

 生首たちは空洞のような口を開き、人魂のように宙を飛んで白狼に殺到した。それに隠れて、安西=豪山は瞬間的に距離をつめ、首を包丁で薙いできた。おそらく動きは常人には目に止まらないほどだ。

 だが、白狼は生首首を見切りつつ落ち着いて踏み込み、刃物を持った安西=豪山の右手を軽く払った。安西=豪山はそのまま派手に床に転がり、刃物は落ちて壁にぶつかった。


「チッ。わしを本気で怒らせおった。おろかな」

 すばやく立ち直った安西先生は、ぶらんと垂れ下がった右手をそのままに、左の掌を前に突き出した。顔に残酷そうな笑みが浮かんでいる。

 彼は白狼の左胸に視線を注ぎながら、突き出した手をじりじりねじっていく。彼の前腕が震え、すさまじい力が込められているのが分かった。念を使って狼の心臓を潰すつもりだ。

 だが、胸をおさえて苦しみ出したのは、豪山の方だった。膝をつき、苦しそうに咳き込む彼をよそに、狼は変わらず二本足で立っている。

 ぜいぜいと息をしながら、安西=豪山はなんとか顔を上げて白狼を見た。ようやく相手が悪いと気がついたようだ。

 

 すると、今度はぼそぼそ呪文を唱え、大きく息を吸い込み、細く長く吐いた。彼の眼前に黒い水分の塊のようなものが凝集しはじめ、わずかな間に人の顔ぐらいの大きさになった。

「毒よっ」夜雀の警告が聞こえた。

 どす黒い液体が宙を飛び、白狼の前で破裂した。付近の床や壁から煙があがった。だが、すで白狼は元の場所にはいなかった。

 手足を器用に使って廊下の壁を駆け上がり、そのまま安西先生の後ろへとまわると、どうすべきか思いつかずに、両手で敵の背中を押した。

 自動車に跳ね飛ばされたように安西先生は勢いよく廊下を転がって行き、反対側の壁に当たって止まった。膝をついて立ち上がったが最初の勢いはない。

「くそ、化け物め」先生は後退して吹き抜けの窓にとりつき、力任せにこじ開けた。そして空に向かって、「おいっ、たのむ」と叫んだ。

 その途端、吹き抜けの周囲に黒い雲が湧き立ち、安西先生の姿を隠した。

 「あっ」

 白狼も続こうとしたが、空が繰り返し光って小さな雷が四方八方に落ち、追跡を阻んだ。黒い霧はすぐに晴れ雷もやんだが、もう誰もいなかった。


「逃げた……」タケルは、自分の声が低く太くなっているのに気づいた。話すことはできたが、声はまるで唸るようだ。それにお喋りはあまり得意ではないようだ。舌がうまくまわらない。

 夜雀の姉妹が白狼のそばへ飛来した。

「化け物呼ばわりされちゃってたね」「あいつもたいがい、化け物なのに」

 なにが面白いのか、二羽は激しく笑いあった。そしてももは、

「雷獣の守るあれを下手に追うのは間違いの元だから、今日はあきらめなさい」と追撃を諦めるよう促した。「いきなりの初陣にしては上出来よ。白狼の力が正しく備わっているのは確かめられた。でも、今日はこれ以上を望んじゃダメ」

「どこへ逃げたかも、じきにお友だちから知らせてくれるわ」と、さくらが言った。「スズメのネットワークね。IT化は遅れてもそれなりに役にはたつのよ」

 白狼が聞いた。「さっきの、化け物の正体は」

 「ああ、それははっきりしたわ」ももが答えた。「やっぱり対面は大事ね。あのテレビ学者の体を直接乗っ取ったのは蘇った即身仏、豪山」

「即身仏?」

「そう。ラジオスポットでやってたの。初の一般公開とか言って」

 映画を見るぐらいだから、ラジオだって聞いているだろう。夜雀たちに確かめるのはやめた。今度はさくらが言った。

 「それで、さっき豪山を逃したのがいわゆる雷獣。やっぱりいた。豪山が胸に入れていた古代の魔物は、即身仏だけでなく雷獣も起こしちゃったのね」

「ところで看護師さんたちはどうなる?」

「そのうち、夢からさめたようになるわ。私たちもお暇しましょう」

 ももが思いついたように言った。

「ねえ狼ちゃん、わるいけど、あとであなたのスマホを使って自然史博物館のホームページを見せてくれないかしら。展示目録が掲載されてたら、それを見て、どいつが裏で糸を引いているのか、正体の見当をつけられるかもしれない」

「もってない」

「え?」

「スマホはないんだ」

「えっ、あなたいまどきの高校生でしょうっ!」たったいま世界大戦が勃発しても、夜雀はこれほど驚いてくれないだろう。

「まあ、まあ」さくらが宥めた。「衆に流れないのはいいことよ」

「こんなに可愛い顔をして、女の影も男の影も見当たらないと思ったら。あたし、全然気がつかなかったわ。歩きスマホもしなければ電車のドアを塞いだりもしない、マナーのいい男の子だと感心しながら観察していたのに。最初から持ってなかったの!」

「使わないし」

「まあ、どうしましょ」ももの憤慨は続いた。「ご家族は何を考えてらっしゃるのかしら。いくら家族仲が良くても限度があるわ。息子の自主性を育てないとだめよ。ゲームはともかく交際相手とどう待ち合わせをするのよ?まさか狼煙で連絡を取り合うつもり?よもや本気で狼の糞をリサイクルしようなんて、考えてないわよね」

「相手、いないし」

「でもほら」さくらが取り成した。「幼なじみの姉妹がいたでしょ。顔をちらっと見たら、どちらも可愛かったじゃない。あの子たちなんてどうかしら」

「そうね。けど、お父さんもお母さんも、きっちりした真面目そうな人たちだったでしょ。あれじゃデートが大変」

「障害があるからこそ、燃え上がるものよ」

 二羽がタケルの今後のデート対策を語り合う中、タケルは自分の体を見下ろしていた。やたら丈夫そうな白くてふさふさした毛が生えているのが、あらためて見直すと、なんとも妙な気分である。夜雀たちは囀りながらエレベーターに向かって飛んでいき、彼はすっかり放置された。

「これ、元に戻れるのかな」

 今はそれだけが気がかりだった。


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