第4話 怨霊のにおい
佐久間樹は再度、自分の上着をかいでみた。さっきまで持っていた鰻弁当のかおりしかただよってはいない。
顔をあげて、展示エリアの空気を鼻で吸う。
こうやると、別に何も感じない。けど、気になる。
職場である自然史博物館は、約7年前に大掛かりなリニューアルを行った。だからカビも結露も抑制されているし、換気システムだって優秀なはずだ。それなのに、異臭が気になり出したのは三日ほど前のことだった。
開催中の特別展が、一部展示物の入れ替えを行った。それに伴い、副葬品類の配置を少し変えた。と、いっても説明されないとわからないレベルだった。
だが、樹の感じる館のにおいが気配が変わったのは、あれ以来という気がしてならない。
なんというか、冷凍していたのが溶けてしまい、生臭さが漂いはじめたという表現が一番しっくりくる。
「なんか、くさくないですか?」と、口にも出してもみた。
だが、それを聞いた上司や先輩の反応は、「そお?」とか「へー」とか「仕方ないよ、ミイラだし」だけだった。
なかには、「えっ、佐久間さんも自律神経失調かよ。意外に繊細?」との声があって、総務課の同僚たちがそろって笑いを堪える腹立たしい一幕すらあった。
これは先月の特別展オープンに先立ち、ひとりの先輩館員が体調不良を訴え、自律神経失調症との診断を受け休職扱いになったことに起因する。その先輩は日ごろ、繊細どころか野放図な言行で知られ、大柄な体格のためがさつと見られやすい樹と何かと並べ称される存在だったからだ。
これ以上揶揄されるのも不快なので、表向き樹は口を閉じることにした。しかし、母親だけにはこの違和感を打ち明けてみた。ところが頼みの彼女は、
「もしノイローゼだったら、毎日あんなにパクパクご飯を食べられない」と、即座に指摘した。そのうえで、「昔の乾物屋さんって独特のにおいがしたものよ。袋にも冷蔵庫にも入ってないミイラがあれだけいたら、そうなるわ」と、あっさり言ってのけた。
なるほど、と樹は納得しないでもなかった。たしかに、母の指摘のように館のメーン展示室は等身大の人間乾物たち、すなわち大勢のミイラによって占領された状態となっている。企画展「ミイラ、木乃伊、mummy」が開催中だからだ。
彼女も作成を手伝ったプレスリリースには、「『ミイラ』が体験できます」をキャッチフレーズに、本展は世界各地からミイラとそれに関わるさまざまな文物を一堂に集めました」と、ある。「エジプトから年代の違う3体のミイラと副葬品を招いたほか、約15年前に発見された謎多き「蒼い摂政」の館を会場内に再現しました。これは国内で初の試みです。また、チリ、イタリア、アイルランドとそれぞれ出土場所の異なるミイラ、さらにシルクロードに眠っていた乾燥美女、バクトリア文明との関連が噂される「瞑目するミイラ」まで各地の多彩なミイラと接近遭遇が叶います。展示室を出ると「ミイラになろう」「ミイラ・できるかな」など体験コーナーも用意され、文字通り大人から子供まで飽かせません」
昨日、大騒ぎしてくれた小学生たちが、どれだけ価値を理解してくれたかはともかく、大人になってもふと思い出すほどインパクトはあっただろうと思う。それを考えると、樹のほおは緩む。
かくいう樹だってミイラが嫌いなわけではない。むしろ、用もないのについ展示室をのぞいてしまうクチだ。彼女は学芸員ではないが、準備期間を含めると結構長くミイラたちとつきあってきた。そうなると大勢のミイラたちがなにやら親しい存在にも感じられる。当人らの許可なく見知らぬ異国に連れてこられ、どこか寂しく物思わしげなミイラ たち。
この頃は、毎朝一体一体に手をあげて挨拶したりする。
とりわけ、ミイラ界?随一の淑女とされる通称「シルクロードの美女」には一目見ただけで心を奪われてしまった。
美しい布と手の込んだ装身具に囲まれ、一人静かに眠るミイラ女子の姿は樹には品格すら感じられる。次第に憧れの先輩のように思えてきてしまい、「ごきげんはいかがですか?」「今日はいつもにも増して、お綺麗です」などと、毎日念入りに声をかけずにはいられない。
事実、お顔を拝したあとに目を閉じると、生前の彼女の臘長けた姿がぼんやりと脳裏に浮かびさえする。すっかり枯れてしまってなお、これほど魅力があるのだから、お若い頃は直視できないほど美しかったのではないだろうか。
ただし、例のときおり感じる違和感とにおいだけはどうにも受け入れ難い。
以前、英国旅行した際には、大英博物館にも自然史博物館にも張り切って出かけた樹だったが、こんな感覚は受けなかった。大英博物館なんて、一般公開してないのもあわせたら、こっちよりはるかにミイラだらけのはずだ。
(こっちのせいかな)と、樹は「これだってミイラ」のコーナーに寄り道した。
今回のミイラ展は「本物」ばかり集めてあるわけではない。特に国内ミイラのコーナーには、おなじみ「カッパ」「人魚のミイラ」や「くだん」までいる。そして、館蔵品であり一部マニアに根強い人気の「雷獣のミイラ」も久しぶりに展示されている。
この、イタチぐらいの大きさのミイラは、大正時代に発見されたという。どうせ木乃伊職人が作ったのだろうが、元の動物が何なのか判然とせず、いまだ議論のあるいわくつきの品である。オープン直後にはわざわざ東京から、「妖怪研究」を目的とした一団の男女がやってきて、ケースの前に陣取って深刻な顔をして討議していたりしていた。しまった、グッズ作成を提案すればよかったと、樹が後悔したのはその時だ。
やはり、このエリアでも特に何も感じず、樹はぐるっと歩いていわゆる目玉コーナーへ戻った。
誰がなんと言おうと、今回のミイラ展には注目の逸品がある。初の一般公開、それも国産、県内産だ。
それを収めたガラスの前に立つと、臭気はともかくなんとも怪しい迫力が寄せてくる気がする。これぞ先年発見された、「妻鹿城即身仏」様である。
手を合わせなかったが樹は目を伏せ、「苦しかったのだろうなあ」と独りごとを言った。胸前で拳を握りしめた黒いほとけさまの顔には、苦悶としか思えない表情が浮かんでいる。とても悟りを開いたとは見えなかった。
この即身仏は、県境近くにある妻鹿城址の発掘調査中、偶然に見つかった。
仏の正体は、近くに埋めてあった願文から、戦国時代初期の妻鹿城主の五男にあたる僧、豪山と見られている。しかし、発掘場所や埋葬方法をはじめ謎が多く、発見当初はけっこう話題を呼んだりした。
発見されたのは二の丸跡の一角だが、そこは土牢としか思えない空間だった。若くして他国の外交にも貢献したという御曹司のお部屋が、地面を掘り下げたうえ鉄で補強した蓋で覆われたりすることは普通、ないだろう。願文に「百年掘り起こすな」という但し書きがあったのも意味不明だ。どうしてこんな場所にいらっしゃったのかは、想像するだに恐ろしい。
ともあれ、県内初の即身仏の発見がミイラ展開催の決め手となったのは間違いない。ポスターに即身仏の写真を使う案はさすがに却下された(怖すぎた)が、プレスリリースの3ページ目には発見の経緯をしっかり記載し、豪山さまの写真データも各マスコミ宛に提供した。その後の各マスコミにおける紹介記事でも例外なく触れてあった。逆にこれがなければミイラ展の記事化そのもをスルーしてしまった媒体もあっただろう。即身仏さまさまだと思う。
即身仏の法力のおかげか、ミイラ展はここ20年のうちに館で実施した企画展中、最高の出足を記録した。企画会社へ任せきりにしなかったため、開催までにずいぶん時間がかかり、本当にできるのか、と不安を感じたこともあったミイラ展だが、来館者数は週ごとに記録を更新し、関係者の表情は明るい。ネット上でも評判は上々であり、「地味」とか「暗い」が枕詞だった館の展示会に対するイメージも、急速に変化しつつある。偉い人たちの機嫌も良く、知事も次の定例記者会見において、マスコミ各社に自慢してくれる予定だという。
–––– でもなあ。なーんか素直に喜べないのよね。
こんな後ろ向きの言葉が彼女の頭をよぎるようになったのは、ほんの三日ほど前からだ。こりゃ、気分転換が必要だな。樹は来週に予定する「スーパー気晴らし」についてちらっと考えてから、窓から見える晴れた空を見上げ、席に戻った。
「先生は昼めし、喜んでたかい。特上の鰻弁当だったもんな。俺、食べたことないよ」
樹の顔を見るなり、席にいた課長が興味津々の様子で尋ねた。
「どちらかと言えば館長がはしゃいでました。あと、先生はテレビで拝見するほど愛想の良い人ではない気がします。鰻はお好きみたいですが」と答えた。
「あっそう。サインねだるの、やめとこうか。どうせ古本屋のワゴンセールで買ったやつだし」
先生というのは日本史専攻の大学教授、安西庄司だ。複数の出版社から新書や解説本を出しているほか、タレント教授としてちょくちょくテレビに出ている。
今日は、安西先生が解説者として出演するテレビ番組の収録があるため、朝から館内は少々ざわついている。
先生の出番そのものは午後遅くからなのだが、彼は昼前に到着し、すぐに館長・副館長との会食に入った。樹は挨拶を兼ねてお弁当とお茶を出してきたところだった。
文化人タレントの活用を強く主張したのは、県庁から出向中の副館長である。博物館・美術館よりスポーツ大会の経験豊富な彼女は、PRの大切さつかみの必要性を説き、学者肌の館長を焚きつけて、通常の広報宣伝のほか要所要所での告知イベントや著名人を使ったマスコミ集めを提案し、実現しつつある。
副館長には仮想敵がある。それはほぼ同時期に市立美術館で開催中の「ぞっとする美術展」だ。あっちは美術展専門の外部スタッフが腕を振るった大型展の巡回だし、予算規模からして違うのだが、蓋を開けると土日祝日の入場者はこちらが上回ることがあり、批判を躱しつつ種類を揃えたグッズの売れ行きについては、ネット通販を含め常にミイラ展が上回っているとの噂だった。
ここまでやれば善戦中の善戦と自慢できると、樹などは思っていた。だが、やる気あふれる副館長は「ともかく中弛みを防ぎたい」と主張し、会期の3分の1に達するタイミングに、「飛び道具」を放つ準備をしていた。それが安西先生をゲストに迎えたテレビ番組だった。
ミイラ展に対するマスコミ取材、とりわけテレビのそれはオープン時にまとまってあった。本来の担当者が産休のこともあり、ほぼすべてに樹も同行し、おおよその事情は知ることができた。どうやら報道取材というのは、どこのテレビ局もだいたい似たようなスタイル、人数で取材にきて、似た感じに取材を済ませ、終わるとさっさと帰るもののようだ。そして開会式の模様は、当日夜か翌朝のローカルニュース枠に流れ、週末のニュースまとめで放映してくれた局もあった。ただ、時間としてはどれもごく短かい。
だが今回は違う。きっちりとした台本もあり、館長の出番もあり、45分という放映時間の多くを費して館の様子、地図や交通手段も紹介の予定だ。
とはいえ、今回の番組を放映するのは県も出資の地元ケーブルテレビ局を通じてだった。番組のネット配信も行われるが、地上波テレビの爆発的な訴求力は期待できない。
それを補うのが、全国区の知名度を有する安西先生だ。閉館後に行う館内での撮影では、即身仏の前で古文書を読み解き、解説までしてくれる予定になっている。これが思惑通り少しでも評判になれば、まだ会期はあることだし、他媒体の追加取材も期待できる。
副館長は番組放映に続き、懇意の地元出身のマラソン選手を招いたトークイベント実施を企画している。もちろんこれにもマスコミを呼ぶ予定だし、ある意味、安西先生以上の知名度のある選手だから、PR効果はかなり期待できる。なお会場では今回の安西先生の番組をエンドレスで流すことになっている。
ちなみに、樹がマラソン選手とミイラの関係を聞いたところ、「生まれが一緒でしょ。それに意外性!」との答えがあった。なるほど。
これら今後の予定を思い浮かべ、樹がちょっとだけ高揚した気分になったところ、ぐんと気持ちを下げてくれる声がかかった。
「さくまさーん、早速およびだよ。大先生」
内線電話をとった隣席の同僚が、樹を呼んだ。控室にあてた小会議室から、安西先生より彼女へご指名があったそうだ。たのみたいことがあるので、とりあえずきて欲しいということだった。
「よかったね、気に入られて」「セクハラには、注意しろよ」先輩職員たちからさまざまな声のかかる中、樹は、胸に沸き起こる嫌な予感を振り払い、
「はは、あのでかい女、荷物運びに使えそうと睨んだんじゃないすか」と自ら明るく言うと、オフィスを飛び出した。
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