第18話 怨霊の最期・エピローグ
「そろそろケモノどもの相手にも飽いたな」
言い放った海坊主の上半身が急降下し、巨大な波が白狼を襲った。ぶつかる寸前に跳躍して避けると、横から巨大な水の拳が殴りつけてきた。逆に身を翻しつつ全身をバネに体当たりすると、それは砕けて空中に散じた。
「ひやっ」勢い余って崖下に落ちそうになり、あやうく空中で体を捻ってダムと接する山際に着地した。
運動能力は人の時とは比較にならないし、身体もタフだ。助かった。
一方、腕のちぎれた海坊主は、すぐに元の形とならないのに苛立ち、巨大な首を捻って、
「おまえ、一体なんだ」と眼下の白狼に聞いた。
「しるか」そう言い返すと、
「あれこそ妖物の中の妖ではないのか。力が吸い取られるようだ」
「前は人の姿だった。正体がわからん」
また一人でツッコミあっている。
「あの水っぽい身体って、豪山の残留思念に誰かが手を貸してる構図よね。元を絶たないとダメよ」
「例の古代の怨霊の遺物かなにかが、この近くにきっとあるはず。おそらく例の箱」
こっちは夜雀たちである。白狼の近くまできて言い交わしあっている。
「妖め、思い知らせてやる」
海坊主の意見が纏まったのか大声で凄み、残った巨大な拳を振り上げた。
激しい水しぶきと一緒に、海坊主の手が風を巻いて襲ってきたが、攻撃の要領をつかんだ白狼は短くジャンプして、肘あたりを切り落とした。
両手をなくしふたたび呻いた海坊主は、いったん自らの全身を崩し、ただの水流になってからダム湖の山側に再生した巨大な上半身をあらわした。
だが、こっちをすごい顔で睨んでいてもすぐには襲ってこない。なんらかのダメージが残っているようだった。
下手に白狼へ技を仕掛けたら、自らに跳ね返ってしまうのは海坊主も例外ではないようだ。少なくともさっきの攻撃によって海坊主はどこか変調をきたしたと見える。無限に修復できるのかと思ってうんざりしていたら、そうではないらしい。動きがにぶったのを好機とし、白狼は酒巻とおるの所にとって返した。
「ひっ」今度も酒巻は、幽霊に対するようにおっかなびっくりだった。
「なにか御用ですか。いえ、逆らいませんよ」と、心配そうな顔をする。
「ちょっとだけ大人しくしておいて」
「おっしゃる通りにいたします。乱暴はしないですよね」
「するわけがない。そこで後ろを向いてくれるだけでいい」
「はいはい。でも、さっきは助かりました。それにしても俺、なんでこんなことになったんだろ。夢なら覚めてくれ」
「それについては似た感想を持ってる」
酒巻は白狼を前にしてしゃべっているのに、視線が左右に動いて定まらない。やはりこっちの姿はぼんやりとしか捉えられていないのだと思った。
「あの、もしあなたのおかげで無事に戻れたら」それでも真剣な顔をして酒巻は言った。「ちゃんとお礼はいたします」
「いらない」
「いや、礼金とか報酬とか、そんなのじゃないです。感謝の気持ちを示したい。なんでしたら……う、歌を聞かせるなんて、どうでしょう。プロですし、そんなに悪くないと思いますよ。大勢に喜んでもらってますし」
「だろうね」生返事しながら服をを調べていると、酒巻は続けた。
「それなりに世間から評価もいただいてるし、歌うのが好きなんです。口はばったいですが、歌は天職だと思っています。無事に戻って、また思う存分歌えるのなら、これからは身を慎み、ひとにやさしく……」
「歌うのが嫌でないなら」白狼はちらと考え、言った。「附属病院に行ってミニコンサートでもしてくれるとありがたい。入院患者に熱心なファンがいるんだ」
「えっ、よ、喜んで」
「そうだな。ここで会えたのも、その人のおかげかな」
「ほんとですか。どんな人だろう」
「若い女性だ。大柄で髪の毛が短く、気の良さそうな顔をしている。実現したら、一曲ぐらいその人を向いて歌ってあげておくれ。嫌なことが少しでも忘れられるように」
そう言いながら、前足で酒巻とおるの腰を探った。
「ひっ、わかりました、どうぞ」彼は臀部を突き出した。右ポケットにはスマホが入っていて、左ポケットにずっしり硬いものが押し込んであった。鼻面で押すと、金属製の箱がこぼれ落ちた。
「これだ」
白狼は口で箱を咥え、物陰から飛び出て、また駆けた。
わざと見せびらかすように、その場でクルクルと回ったあと、酒巻とは反対側に天端をジグザグに走る。
怒りとも怯えともつかない顔をした海坊主は、天を見上げて吠えた。ダムを構成するコンクリートが、洒落にならない振動をはじめた。湖水の水位がいったん大きく下がり、そのあと激しい渦となって空中に巻き上がった。
「永遠に呪われるぞ、身の程知らずめが」
顔のついた巨大な渦巻は、月を隠すほどの高さに達したあと、一挙に白狼へと多い被さろうとした。悪鬼の表情が、雪崩れ落ちてきた。
箱を加えたまま、白狼は一気に翔んだ。
「まて許さんぞ、この」
ガリ
思い切って箱ごと内容物を噛み砕いた。その途端、なんとも言えない悲鳴のような鋭い空気の振動があたりを震わせた。
海坊主の巨体は、ほんの一瞬で細かく砕けて、ただの水けむりとなって湖面にざあっと降り注いだ。
「おのれおのれおのれ……」
呪詛の意識だけが白狼の頭に届いた。次第に全く理解できなくなったのは、怨霊の母語なのか、単に意味をなさなくなっただけなのか、わからなかった。
「お、あ、お…ZZXAOLLL……」
湖面は大きく揺れ、そのたびに大量の水がダム湖から溢れた。だがそれも、幾度か繰り返されるうちに次第に勢いを失い、いつしか静まりかえっていった。
月明かりがダムをしらじらと照らしていた。
「うえ。まずっ」
毛をすっかり濡らした白狼が、噛み砕いた箱を吐き出した。
(かつおぶし……?枯れ木?)
ちぎれた金属片と一緒に、黒い木片みたいなものがバラバラと落ちて、崩れていった。
それまでとは一変し、ダムの周囲には静かな水の流れる音だけがしている。
眼下にまたたいている家々の光にも変わりはなかった。最悪の事態は回避できたようだ。
夜雀たちと雷獣の長老がやってきて、白狼の吐き出したものを覗き込んだ。
「よくやってくれたわ。これが悪さをしてたの」ももが言った。「まさしく古代の怨霊ね。これまた年季が入ってそうなこと」
「よく見つけてくれたわ、タケルさん」さくらが褒めてくれた。
「誰がはるばる運んできたのやら。異国の妖術使いの魔力の篭った指と見ました」長老がつぶやいた。
「おえっ」それを聞いてもう一度ペッペッとタケルは唾をはいた。
(まさかミイラの指、噛んだの?)
「この国では見かけぬほど古いものと思われます」長老が言った。「坊主の骸と、滅しかけていたわが一族が蘇ったのも、こやつの仕業かと」
「でも、こいつから妖気は漂っていても、なんというか生しさは感じないわね。じんわりした呪いって感じ。ミイラをたくさん蘇らせるほどなら、もっとビリビリ妖気を感じさせるのかと思ったわ。場所だって、気配からは読めなかったでしょ」ももの言葉に、さくらが答えた。「こいつはこいつで、豪山の骸の放つ邪気に影響を受け、目覚めたのじゃないかな。一つところにまとめられたため、互いが干渉し合ったとか」
「やっぱり、コラボか。博物館の企画って、要注意よね」
「それで、これからどうする?」と、さくらが白狼に聞いた。「酒巻とおると安西先生よ。放置するのはよくないし。風邪をひいちゃう」
話し合っているうちに、酒巻本人がよろよろとこちらへやってきた。
「お、おわったのでしょうか」
ももがぼそっと言った。
「サインを頼むのは、また今度にしたほうがよさそうね」
「指が震えて書けないと思うわよ」
「こ、ここはどこです。それに、あなたたちは……だれ?どこ?」
手を前につき出しながら、天端のうえをおっかなびっくり歩いている。声はきこえても、こっちの姿はぼんやりしか見えていないようだ。
「雷獣のご長老、頼みがあるの」さくらが言った。
「なんなりと、御使い様」
「あなた方の得意の術で、あのお兄さんとあっちに寝たままのおじさんを、夢の世界に戻してやってくれないかしら。くだくだ説明して理解させるより、起きたあとは、長い悪夢を見ていたと信じてもらうのがいいと思うの」
「承知」
長老がしばらく、酒巻と眠ったままの安西を交互に見ていたが、周囲の空気が生暖かく流れ出したかと思うと、バチバチっと小さく火花が起こり、一瞬足元がおぼつかなくなる感覚を覚えたとたん、酒巻は崩れ落ちた。
「あら、けっこう乱暴ね」
「でも、すっごく便利な技。またいつか、助けてね」
「それはもう、喜んで」
白狼が口を開いた。「酒巻の腰の右ポケットにスマホが入ってる。これで救急車を呼ぼう」
「ああ、いい案ね。声色は私にまかせて、救急車を呼んで、ここに来る前にさっさと逃げましょう。まあ、どうせあと三十分もすれば、ダムの職員だって目が覚めるでしょうけど」
「あっ」酒巻のスマホを取り出し、彼の指を使って起動させた白狼が、急に慌てた声をあげた。
「もう、こんな時間だった。早く帰らないと。この前のことがあるから、ちゃんとしないと母さんに怒られる」
時間と居場所を思い出した白狼は、とたんにおろおろと、尻尾を垂れさせてあたりを歩き回った。
「あら、そうだったわねえ」
「仕方ない。私たちが一緒に帰って言い訳してあげる」
「しゃべるスズメなんて、びっくりするだけだよ」
さっきまで威厳に満ちていた白狼のうろたえる姿に、雷獣の長老はただ黙って見ている。人で言えば目を白黒させている感じだろうか。
「とにかく、もう帰るっ」
「はいはい。でもね、こうなったら、あの可愛い幼なじみの女の子に事情を話して口添えを頼んだらどうかしら。デートしてて遅くなったと口裏を合わせてもらうとか。私たちからていねーいに頼んであげる」
「だめ、だめ、だめ」
タケルの慌てぶりがよほど楽しいのか、夜雀は彼をからかいながら暗い空を飛び回った。
入院先のロビーに置かれたパイプ椅子の上に、佐久間樹は座っていた。座り心地は決して良くないはずなのに、天使の羽に腰をかけたような心持ちだった。
まだどこか夢のようだが、前方わずか6メートルほどには間違いなく酒巻とおる様ご本人がいて、マイクを持ち、力強く唄い上げている。
相変わらずと言うか、以前にも増してすばらしい歌唱力だ。気のせいかほっそりした顔がさらに痩せて見えるが、張りがあって色気もある声は、さらにさらに充実している。
今日は録画も可ということで、そっちの手配も怠りない。一昨日、無事意識を取り戻した副館長の見舞いとして、この動画を持参してもいい。この子たしかに顔はきれいよね、とポスターを前に感想を漏らしていたし、これをきっかけにとおる様の真の魅力に目覚めてくれるかもしれない。
ちなみに、失踪していた安西教授発見の報も伝わってきたが、いまさら樹に興味はなく、ましてや会いたいなどとは全く思わない。体重が20キロは減ったとか、知らないはずの外国語を口走ったとかの話はどーでもいい。とおる様と一緒のところを発見されたという無責任な噂もあるが、検討に値しない。まあ、勝手に生きて勝手に死んでくれ。できれば二度と目の前に現れないでほしかった。
CMソングにもなったヒット曲を歌い終えた酒巻が、爽やかな顔つきで観客たちに手を振った。向かい側の吹き抜けには聴衆が鈴なりで、そこからも大きな拍手が届いた。もちろんごく近い席の樹も懸命に手を叩いた。
ミニコンサートの実施を知ったのは一昨日のことだ。ベッドの上でタブレットを睨み、同好の士であるとおるファンたちの動向を探っていたところ、樹の行きそびれた復活コンサートの会場に、ちょっとしたトラブルがあったとの噂が書き込まれた。心配していると、その直後に突然、病院側からとおる様がここを訪問になり、30分程度だがロビーで歌を披露して下さると知らされた。
最初は(えっ、うそっ)としか思えなかったが、すぐ事実だと確認できた。それでも今日は、朝から半信半疑のまま会場予定地と病室を行ったり来たりした。おまけに座席なんて、最前列をゲットだぜ。これだって信じがたいが、(たぶん、とおる様のご配慮よね)と理解していた。
いつもの悲観癖から、どうせ高齢患者(当然とおるファンも多い)が優先されるんだろうな、と思いつつ会場の設営を見学していた樹の目の前に、なんと病院の事務長と肩を並べた歌手当人が突然、ご降臨された。変装はしていても樹が見逃すわけがない。会場チェックのための前乗りだろう。魂消たとはこのことだった。
帽子を目深にかぶり、片隅から会場を見回していた彼は、棒立ちになった樹のいるあたりに視線をとめると、事務長とひそひそ話をはじめた。そして何人か看護師が呼ばれたなと思っていたら、病棟での担当者が樹を呼びにやってきて、特等席へと誘導してくれた。姪っ子が届けてくれたファンクラブ特製とおる様団扇を握り締めていたせいだろうか。まるで冗談のようだった。
また歌がはじまった。今度は新曲だ。大きい病院ではあるが、むろん彼の動員力からすれば観客数は少ない。それでも実にのびやかに、しかし真剣極まりなく歌を次々披露してくれた。短い挨拶とトークだけを挟み、予定時間を過ぎても休憩もせずひたすら歌い続けるそのさまは、さながら祈りをささげる巫女のようだった。
それに「かぶりつき」だと、自分のためだけにとおる様が歌ってくれるように感じる、というのはファンには有名な蠱惑的な視線によるパフォーマンスだったが、樹もその魔術にとらわれていた。艶っぽい視線が時折こっちに注がれ、彼女のために歌ってくれているとしか思えない。いや、今日ぐらいはそう誤解したままでいよう、と思った。
だが、幸福な時間は瞬く間に去る。ついにステージのラストはやってきた。そろそろお別れですと宣言した酒巻は、「昨年から今年にかけては、みなさんと同様ベッドの上にいることの多かった僕ですが」と、語りはじめた。「体調が優れないと怖い夢を見るものですね。先日の悪夢など、空に連れ去られ大波に襲われ、さんざんでした。僕は結構、見た夢の意味を考える方なのですが、これは精神分析的にはどんな意味なのか。ご観覧の先生がた、いかがでしょう」
笑顔の増えた観客に向けて酒巻は、「でも、その悪夢の中で受けた励ましが、歌う意味を僕にあらためて考えさせてくれました」と少し真面目な顔をした。「病気や怪我で動けないのは本当につらい。でも、そんな気持ちが僕の歌で少しでも和らぐよう、これからも願いつつ歌い続けたいと思います」
そのあとの台詞は、こみ上げる思いで樹は十分に聞くことができなかった。録画中との安心感のあるのも事実だが、距離が一段と縮まったように感じられる。
そして樹のお気に入り、故郷を歌った「ロストメモリー」がはじまった。
いまや樹は、涙を堪えるのに必死だった。それなのに、あまりないことだがとおる様は客席にまで足を運び、樹たち前列の観客に微笑みかけ、一緒に歌うよう促した。人気ドラマの挿入歌だったので歌詞はよく知られている。
「皆様もご一緒に」酒巻はホール全体の観客にもマイクを向けた。それに合わせて、一斉に合唱がはじまった。
樹はふと、あの明け方の優しい声もまた、一緒になって唱和しているような気配を感じた。
–––– あなたのおかげでこんなに楽しい思いができているわ。耳元でそうささやかれた気がした。
(もしかしたら)樹は歌いながら考えた。入院だって悪くなかったかもしれない。わたしのやったことだって、そんな間違ったことばかりじゃなかったのかもしれない。ドジばっかりでも、ときどきは喜んでくれる人だっている。
退院したら、なんとかまたやってみよう。
樹は懸命に、酒巻とおると人々に声と一緒に、声を合わせて歌い続けた。
白の人狼/魔物ハンター エピソード0 布留 洋一朗 @furu123
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