第17話 怨霊の行方

 雷獣たちが静まり、豪山もいなくなったダムに照明が戻った。

 白い灯りに照らし出される神秘的な美しさを見せる湖面に、まず安西先生が浮かんだ。目を閉じてぐったりしている。続いてその下から白狼が浮かんできた。押し上げたのだ。

「あら、犬かき以外もできるのね」のんびりしたももの声がした。

「前にスイミングスクールに通ってた」そう返事しながら平泳ぎの蹴り足を使って安西先生を岸へと連れ戻し、彼の濡れた体を乾いたところに押し上げた。

 背中に回って腹を締め、水を吐き出させる。幸い、ほとんど飲んではいないようだ。目を閉じた顔立ちは頼りなく、妖僧が取り憑いているようには見えなかった。それより、狼が蘇生措置をしている方がよほど変だと自分で思う。


 傍らに飛来した夜雀たちに言った。

「おじさんとマウスツーマウスなんか、したくないよ」

「ほほほ、その口のままだと、がぶっと噛んじゃって大変なことになるわ」

「それに先生、自分で呼吸してるし、脈もしっかりしてる。ほっておいてもじき目を覚ますわ。よくやった」

 先生にとりついて調べていた夜雀たちの言葉を聞き、ようやく安心できた。

 だが、白い毛がすっかり濡れてしまっている。

 犬のようにブルっと身体を震わせ水を切ろうかと考えたが、どうにも抵抗があるし、今ひとつやり方がわからない。

「酒巻とおるは?」

「あっちも、まだ気を失ってるわよ」


 すると、彼らの足元にさっきの毛の灰色になった雷獣がゆっくりと近寄ってきた。敵意は感じない。狼の姿のタケルと、大きな雷獣はしばらく見つめあった。

 ふいに雷獣は体を低くし、錆びた声音で人の言葉を話した。

「ご無礼の段、ひらにお許しを。我らが命をもって、なににとぞ怒りをおおさめくさい」

 台詞に合わせて、二十匹以上はいる他の雷獣たちも一斉に体を縮こませた。

 「言葉遣いの正確性についてはこの際無視してね。現代人との会話に慣れてるわけじゃないし、だいたい人じゃない」と、さくらがささやいた。

「あたしたちは鳥大出てるけど、おほほほほ」と、言ったのはももだ。


 しかし、異様な雰囲気をたっぷりと持った妖獣が沢山集まり、こちらを畏っているような様子を見せるのには戸惑ってしまった。

 どうすればいい、と思って黙って夜雀たちを見た。しかし彼女らは、つと飛び上がって狼のままのタケルの肩にとまり、相手がふたたび喋るのを待つかのように、クチバシを少し上向かせたまま黙っている。

 ようやく顔をあげた灰色の雷獣は、自分が一族の長老だと自己紹介し、

「御使い様とお見受けいたします」と、夜雀たちにも声をかけて弁明をはじめた。

 長老によると、どのような力が働いたかは承知していないが、博物館において即身仏が復活した際、同室にあったミイラ化した一族の雷獣もまた復活が叶った。それを恩に感じ、生き返った雷獣は豪山の「復讐」をこれまで手伝ってきた。しかし決して一族の総意ではなく、複数が白狼に歯向かったのも、復活した雷獣の縁者が呼ばれ、よくわからないまま協力させられていただけであり、長老たちが騒ぎを知ったのは、ついさっきのことだと弁明した。

「わたくしどもはいかなる罰でも受けますゆえ、なにとぞ一族への寛大な御処置を」と、長老は灰色の体をまたコンクリートにすりつけた。

 自分の立場も相手の言葉もよく飲み込めないタケルは、風格のある白狼の外貌に隠れて黙っていた。すると、

「ねえ、おおかみちゃん」黙って聞いていたももが言った。

「ここにいる雷獣たちの生命をそっくり差し出すから、一族全体を根絶やしにするのだけは許してほしいんだって。どうする?」

「どうして根絶やしにしなければならない?」

「そうよね、あなたはそんなの嫌いだもんね」

「お互い敵でないとわかればそれでいい」

 返事が気に入ったのか、ももは喉をならして笑った。


「あえて名乗りはしませんでしたが」代わってさくらが話しはじめた。「こちらがどなたかはわかったようですね。それで、あなた方の申し出についてですが、ここにいらっしゃる当代は、無駄に生命を奪うのはお嫌いなのです。これ以上無礼を働かなければ、不問に付すとのことです。よろしいですか」

 長老がこれ以上ないほど体を低くしたのに続き、他の雷獣たちも一斉に繰り返し頭をコンクリートにすりつけた。どうやら、雷獣たちと事を構える必要はなくなったようだ。


 しかし、白狼の耳が自然に立った。

「くる。水の中からだ」

 静まっていた湖面が風もないのに波立ち、霧が立つようになにかが現れた。

 最初、ぽつんと水の上に形作られたのは、黒い塊だった。

 目と耳があるのはすぐにわかった。青白いとしか言いようのない肌の色。頭頂に髪の毛は一本もない禿頭だが、まぎれもない人の首だ。

 濁ったような目玉でこちらを見ていたが、そのうち目つきに生気がやどった。

 不気味な生首は樹のウロのような口を開いた。そして、こぽこぽと小さく水泡をはきだしつつ、なにかを口ずさんだ。

「あじぇす、いいごと、おじにてす」 


 次第に顔の輪郭がはっきりしてきた。豪山でも安西先生にも似ていない、青白くて眼窩がくぼみ、ほおがこけた恐ろしげな顔。

 そのうち、吹き上がるように首から下が隆起をはじめた。左右に張り出して行くのは肩だ。胸、腹が形作られた。普通の人間よりもはるかに大きい。

 上半身がおおよその形を整え終わると、あとからあとから湖水が、それを押し上げるように噴出して行き、巨大なついたてのように盛り上がって、滝のようにざあざあと水を下に落としていく。

 いまや、気味悪い巨人の顔と手足のついた水の壁は、人造湖の湖面に盛り上がってあたりを睥睨している。巨眼がこっちの存在を見つけ、睨め付けた。


(ミイラの次は海坊主かい)白狼のタケルは、母が得意とした怪談を思い出した。小さい頃、夏になると寝る前に語り聞かせてくれる話がアラン・ポーやら日本の奇談など恐い方面へとシフトした。母は怪奇譚の語りが特に上手く、姉や兄だけでなく父までこっそり聞いていたりした。

 –––– ひしゃくくれは海坊主じゃなくて舟幽霊だったかな。

 半ばあ然としつつ怪物を見上げて考えていると、

「なんとぜいたくな」と、高みから当の怪物の声が感心するように言った。


「砂ではなく水をこれほど使えるとは夢のような心持ちだ」

「はは、水もよかろう」

「うむ。それにしても水と緑のなんと豊かな土地であることよ。吹く風まで湿っぽい」

 一つの口で二人分しゃべりながら海坊主は首を巡らせ、周囲を興味深げに見回した。5、6階建てのビルぐらいはある水の壁が腹話術みたいに喋り散らしながらゆったり移動する様は、変な迫力がある。


「こんなの、いくらなんでもひどくない?」白狼は夜雀に愚痴った。ようやく再生ミイラを退けたと思ったら、次の相手はスーパーヘビー級の海坊主なんて、初陣なのに不運にもほどがある。

「世の中は理不尽なの」ももが投げやりな口調で言った。「ま、怒るのも当然だけど」

 己の力を確かめるかのように湖水を行ったり来たりしていた海坊主は、天端の上に倒れたままの酒巻とおるを見つけると、巨大な体を接近させた。

 そして、酒巻の上空に近づくと、ひと抱えある手をぬうっと突き出し、

「どうしてくれようか。蘇る気がないのなら、贄としてやろうか」豪山とは異なる凄みのある声が言った。

 だが、白狼が体当たりを仕掛ようと天端のへりまで駆けると、一瞬のうちに海坊主は形を失い、湖面に大きな波が起こった。

 しかし、また少し先の湖水が盛り上がり、新しい海坊主が盛り上がった。

「ははは、楽しいな」海坊主は嬉しそうに言った。

「これは魔物の本体じゃない」さくらが言った。「ほかにある」


 かすかに、呻き声みたいな音がした。

 見ると、酒巻とおるの体がわずかに動いている。ようやく、彼の意識が戻ってきたらしい。

「酒巻は、無事そうだな」

「そうね」ももが言った。「さっき生贄にするとか騒いでいたのに、全然水を被っていない。なにか隠したいことでもあるのかな」

「そういえば、例のケースはどこ?安西は持っていなかった」

「どこだろ。この近くにあるはずね。あんなキングコングみたいなの、遠隔操作は出来ないと思うわよ」

 「よし」

 白狼はそのまま崖を跳ね、ダムの天端へと戻り、めざましい速さになって寝っ転がったままの酒巻とおるをめがけて駆けた。 

 意図に気づいた海坊主の接近を尻目に、白狼は酒巻とおるの傍に駆け寄った。

「うん…んん」ようやく目を開け、上体を起こした酒巻は金色の眼と馬鹿でかい海坊主に覗き込まれているのを知り、

「ひやっ」今度はのけぞった。

 人の手に戻している暇はない。そのまま白狼は大口をあけ、酒巻のポロシャツを噛んでひっぱり、彼を背中に載せた。

 「ご、ごめんなさい」弱々しい美声が言った。

 人は白狼の姿をはっきり視認できないはずならば、ぼんやり白く光る幽霊にでも誘拐される気分にでもなっているのかもしれない。

 「しっかりつかまってろ」

 酒巻をゆすり上げた白狼は走り出した。水しぶきがあちこちに上がるのは、海坊主が投石がわりに口から水の塊を飛ばしているのだ。

(なんか、ばっちい)


「いっ」酒巻がまた変な声をあげた。水があたったダムの表面が大きく割れていて、その破片が当たったようだ。

 水とはいえ、かなりの威力がある。直撃するとまずい。酒巻の細い首ならぽきんと折れそうである。

 白狼はさらに速度をあげ、すばらしい速さでダムの上を横切った。それでも目の前に着弾しそうになり、とっさに空中に跳ね上がって回避した。

「うわああん、ごめんなさい」背中の酒巻がまた謝った。

 海坊主の口からも変な声が聞こえた。

 止まれ、といってるらしいが水が溢れていて言葉になっていない。

 空中に跳ね上がった狼は、下降しながら逃げ道をさぐり、出入り口の一つらしい四角い建物のそばに着地すると、その影に隠れて体勢を整えようとした。


 

「あ、あの大きなおばけは、なんですか」喉をつまらせながら酒巻が言った。海坊主は視認できるらしい。

「さあ」

 滝のような音とともに、ごおおおと声がする。どこだと探しているらしい。

「助けてください。わ、わたしを助けてください。どうかお願いします。怪我から復帰したばかりなんです。どうすれば、なにを差し上げればいいですか」

 ようやく酒巻は、海坊主に追われたのを白狼が庇ってくれていると理解したようだ。ただ、頭の混乱は続いているらしく、妙に具体的な言葉を続けた。

「い、いのちは無理でも、おお、お金らなら。手持ちで足りなければ、ローンとかはどうでしょ。それとも忠誠を誓うのがいいですか?一生お言葉を守りますとか、今後は身をつつしみ、仕事に励んで……」

「理由とか見返りとかいらない」白狼がぶっきら棒に言った。

「えっ……」

「目の前にいて、助けられそうだから、助ける。それだけ」

「はあ」


 水滴がぼとぼと顔の前に落ちてきた。見上げると、

「そこか」低い声がして高みから目玉がのぞいた。海坊主のパーツのようだ。

「やはり、生贄にしてくれる」

「いや、生かして、肉身を得るよすがに」

 口から漏れる言葉がまた自問自答みたいになっている。古代の怨霊と豪山との人格の両方が共存しているようだ。

 「乗れ」白狼はもう一度酒巻を背負い直し、ダムをジグザグに走った。

 このまま下流に逃げてもいいが、そうなったら間違いなく海坊主はダムを壊し、川下の破壊を図るだろう。


「そろそろ面倒になってきたぞ。ここらで局面を変えようか」

「そうだな。なにも生贄は、あいつひとりでなくていい」

 相変わらずひとりで会話しながら、空中にそびえるまでに巨大化した海坊主は、ダムの下流を指差した。

「あとや・ぎむ、ごごから」

 理解できない言葉を海坊主が叫ぶと、とたんに気圧が変わったかのように耳に違和感を覚えた。そのうち、ダムや周囲の山が細かく揺れはじめた。

「うそ、地震なんて起こせるの」

「これはこれは」飛んできたももが言った。「古代の怨霊の本気モード」

 海坊主も全身が激しく波打ち、人型をした巨大な渦となって威圧してくる。


「御免」雷獣の長老が前に出て吠え声をあげると、青白く光る雷が立て続けに海坊主を直撃した。しかし、相手はまったく意に介さない。ますます多く湖水を取り込み、巨大な水の塔となって白狼たちを見下ろした。

 その哄笑に合わせて、大気が振動した。

 ダムを囲む山までがなんとなく震えている。海坊主の念動力によって周辺の空間が共振をはじめたようだ。巨大な怖い顔に、勝ち誇った表情が浮かんだ。


 いったん酒巻をおろし、白狼はダムの縁までやってきた。そこからはダム下流にあたる一帯が見渡せる。

 夜の中に数え切れないほどの光が瞬いている。

 それは、人々が住み暮らす家々の灯りだった。たとえ規模は大きくなくとも、このダムが崩壊すれば、どれほどの光が失われるだろう。灯は、白狼が守るべき人々の命の輝きなのだ。

 自然と四肢が地を捉え、喉が開き白狼は吼えた。

 ダムの周囲の山々に咆哮が響き渡った。海坊主の全身が震えた。

 呼応するように雷獣たちが無数の雷を海坊主に向けて放った。

 雷を振り払った海坊主がすさまじい眼になって睨みつける。

 だが、その視線はただ白狼だけを向いていた。湖面をゆっくり動きつつ、天端上にいる白狼と睨み合った。

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