第14話 訪問
南条市に入ると、目に入る風景が一挙に鄙びて感じる。
ここは戦後、いわゆる大規模開発の行われた地域である。土地の高低差を利用してダムが築かれ水資源を確保したあとは、道路や住宅が整備され、役場や病院、学校が、そして文化センターが建設された。
それでもどことなくのんびりしているのは、工場やオフィスビルがあまり見当たらないせいだろうか。
2キロ先にハンバーガー店があると示した巨大な看板の下を通りすぎてまもなく、タケルたちは目的の南條文化センターにたどり着いた。二羽の夜雀は狼に転じた彼の背中に爪を立てて止まっている。
たしかに途中、車や人とすれ違ったが、夜雀たちの言うように、誰も見向きもしなかった。
「こんなに楽すると、ダメになっちゃうわねえ」
「ほんとう。なによりありがたいわあ」
二羽は彼の肩の上で上機嫌にいい交わしあっている。
もう日は暮れはじめていて、午後の部はとっくにはじまっているはずだ。
タケルたちは文化センターを見渡せる林の中にいったん潜んだ。陽が傾き、朱く染まった空は一筆づつ濃く塗られていくかのように夜の色へと次第に変わっていく。その雄大なさまにしばらく見とれていた。
大口ヶ原で大門にひどい目に遭わされたのは、ついこの間の話なのに、陽の沈むのがあの日よりずいぶん遅くなった気がする。ホール内部の偵察から戻った夜雀のももが、感に堪えないように言った。
「とおるって歌がうまいわねえ。見直したわ」
「そんなによかった?生で聞いたせいかしら」
「えー、中の様子は……」
「プログラムの最後、歌謡ショーのアンコールのところだった。もうじき終わりね。豪山らしい姿はなし。あたし今度、最初から観にこよう」
「でも、不穏な気配は漂っているね。近くにいるのは違いない」さくらが言った。「案外、スタッフに紛れていたりして」
センター前にある車回しには、路線バスとは異なる大型バスが4、5台は連なって停まっている。すでにエンジンが始動して、地響きがしている。
「すごいわねえ。バスツアーで観にきた客があんなにいるのよ」ももがその光景にクチバシを向けて言った。
コンサートツアーという催しそのものに、いたく興味を抱いたようだ。
「次のコンサートはどこだったかな。ねえ、おおかみちゃん。そのおニューのスマホで、あとでとおるのHPを見せてね。歌ってる動画だって見られるんでしょ」
「はいはい、お安い御用です」
「あなたって大人に大事に育てられたせいか、語彙が古めかしいわね」
「そうですか。あ、終わったみたいですよ」
出入り口から年配の女性たちが吐き出されて、見ているうちにホールの前にある広い空間を埋めていった。手にグッズ類を持つ人も多いのは、出口付近に売店があるからだろう。仲間らしき相手と、本日の戦果を呼びかわしあっているのもいた。
「あらまあ。こんなに人がいたの。大したビジネスよねえ」さくらが呆れたように言った。
夕日は、あとわずかで沈もうとしていて、夜間照明がすでに灯されいる。明かりと人手で、会場前は祭礼のように賑やかになっている。
ふと、重々しいにおいをタケルは嗅いだような気がした。一匹ではなく複数の人外が集まったようなにおい。なんとなく頭に浮かんだことをタケルは夜雀たちに言ってみた。
「もしかしたら、安西先生たちは、日の沈むのを待ってるんじゃないでしょうか。吸血鬼みたいに」
人の流れを感心して見ていた夜雀二匹が、そろって彼を向いた。
「ち、違いますかね」
「いえいえ。グーな指摘よ」と、さくらが言い、ももが後を引き取った。
「豪山は、光の差し込まぬ土牢で力付きてミイラ化した。そして、偶然か引き寄せあったのかは知らないけど、異国の死霊の力を借りて肉体を持つ魔物として再生した。さっきのお嬢さんのお話だと、再生は日が沈んでから。そればかりか、奴がこれまで姿をあらわしたのは夜ばかり。奴の不自然かつ非効率な動きも、活動時間に制約があると考えたら納得がいく」
「タケルさん」さくらが呼んだ。
「はい」
「わたしたち、ちょうどお目覚めの時間にお邪魔しちゃったみたいね」
手早くステージ用の上着を黒いスタッフ用ポロシャツに着替え、気に入りの香水を振りかけてから首に新しいタオルを巻き、酒巻とおるは楽屋を出た。尻のポケットには念のためスマホを入れたが、ボタンを止め、万一揉みくちゃにされても取られないようにした。
彼を見るとすかさず、ドアの外にいた付き人の新田がミネラルウォーターのペットボトルを渡した。長い廊下を渡りながら酒巻はそれを口に含み、
「あっ、これよりもあれ」そう言うと、新田からはすぐにマウスウォッシュと小さなバケツを渡された。彼について3年近くになり、要領はよくわかっている。
口を濯いで、バケツを新田に返すと、また歩き出す。
その時、急に背筋がぞくっとした気がして、酒巻は歩みを止めた。
振り返り、奥の薄暗い廊下を、じっと睨む。かなり視力の低い酒巻の目では、なにがあるかはわからない。当人もすぐ諦めた。
「どうしました」
「いや。誰かに見られてるように思ってさ。昼を過ぎてから、ときどき感じるんだ。ここ、怪談話はなかったよな」
「ないない。十二、三年前にできた新しめの施設だから、大丈夫」と横から出てきたマネージャーの大東が言った。新田よりずっと付き合いの長い彼は、酒巻がゲンを担いだり、怪談話を怖れるくせのあることを十分承知している。昨年の交通事故が拍車をかけたのも知っている。だから即答できるようにはしている。
「いまさら言っても遅いんだけど」と酒巻は片頬を歪めた。
「なに、気にするのは当然だよ。でもな、今日の出来は文句なく良かった。幽霊だって聞き惚れてるって」
「そうかな」
「ああ。それより、まだ締めのサービスが待ってる。疲れたろうが、みんなお前をずっと待っててくれてたんだしな。完全回復を見せつけてやれよ」
大東のテンポ良いおだてが気に入ったのか、酒巻はうなずくと早足になって外に向かった。大東もまた、その華奢な後ろ姿にうなずき返した。
およそ9ヶ月前、酒巻を襲った事故については、幸い頭や内臓に対する重い損傷はなく、生死の境を彷徨うようなことはなかった。だが医者からは、下手をすれば一生、歩行に障害が残ってもおかしくはないと脅され、術後も長期の入院と厳しいリハビリを余儀なくされた。
大東も肝を冷やしたが、それ以上に本人は恐ろしかったに違いない。
デビュー以来、健康だけには恵まれていた酒巻が、生まれて初めてベッドの上で身動きできず過ごすうち、思うところがあったのだろう。以前よりも、いい具合に力が抜けた。時に面倒がったファンサービスにも、嫌な顔をしなくなった。
これまで大東が関わった有象無象のタレントのうち、酒巻は決して難しい男ではない。長い業界暮らしの間には、「歩く不祥事一覧」と呼ばれた歌手の尻拭いに追われたこともあれば、相手の立場が弱いとみれば徹底して苛む好感度タレントの機嫌を取り続けたりもした。そんな箸にも棒にもかからぬ連中と比べたら、酒巻なんて蒸留水みたいなものだ。なにより、歌には決して手を抜かないのがいい。
それでも多少のカドはあったし、三十になる前にヒット曲が出、連続ドラマで儲け物の役を得たりしてからは、天狗にもなった、
さっきのマウスウォッシュだって、以前の酒巻なら、新田の反応が遅れでもしようものならペットボトルを投げつけるぐらい平気だっただろう。
(事故さまさま、といっちゃ言い過ぎだが、こいつは災を福に転じようとしている。若いうちのトラブルをどう乗り越えるかでタレントの器ってのは決まるものだ。こいつはよくやってる。でも)
酒巻の向かった先には金属の扉があり、その上に貼られた災難よけのお札が目に入った。大東は、それに短く心の中で祈った。
(もう十分、これ以上の不幸は結構です。もうなんも起こらないようにして下さい。たのんますよ)
扉を出ていく酒巻の細いシルエットが目に入った。外はすでに薄暗くなっているので、その境界は曖昧だった。
大型バスは乗車を開始していたが、その付近で大歓声が起こった。
「あら」ももが声を上げた。
人目につかない通用口を使って、酒巻とおるが建物の正面へと姿を見せた。
揃いのTシャツを着た男たちに囲まれながら、大きく手を振り、足早に会場前を横切ってゆく。帰路につくファンたちを見送りに出てきたのだ。
「揉みくちゃにされちゃうわよ」さくらが心配したが、当人もスタッフも慣れたもので、いつのまにかロープが張られ、その中を足早に移動し、するすると前に出る。
客たちもわかっているのか、サインや記念撮影を無理強いしたりしない。
バスにたどりついた酒巻とおるは、窓から顔を出す乗客たちに愛想よく手を振っている。顔から笑顔の消えることはない。
「スターも大変ねえ。おおかみちゃんも、今後スカウトされたりしても、くれぐれも芸能界デビューは慎重にね」
「そうそう。タケルさんは繊細なところがあるから、心身症になっては元も子もないわよ」
タケルが返事に困っていると、太鼓を鳴らすような音が、空から聞こえた。日が落ちて、あたりは急速に暗くなっているために雲が出てきたかどうかはわからないが、押さえつけられるような気配は、雷の予兆にしか思えない。
「くる」二羽の声に、タケルは意識を集中し自らをふたたび白い狼へと変えた。
気がつくと、大型バスの周囲にすでに足首ぐらいの高さで黒い霧がうっすら漂っている。この前、亡者たちが現れた時と似ている。パニックを起こさせずに客たちを逃す方法を考えているるうちに、離れたところから男が一人、歩いてきた。スタッフと同じ黒いTシャツを着ている。
高いポールの上から照らす灯に浮かび上がったその顔は、安西先生には違いないが、ずっと険しく、頬がそげている。間違いない、安西=豪山だ。
「どこに隠れていたんだ?」
「雷獣の仕業よ。おそらくうつしよとかくりよのはざまに」
男は何気ない様子で酒巻とおるに声をかけた。
「久しぶりだな、桐丸。ずいぶんと人あたりが良くなったな。お主が女どもに囲まれるとはな」
その場にいた人間が一斉に安西=豪山を見た。不穏な気配は彼ら彼女らにも、伝わったようである。
酒巻とおるは小首を傾げた。彼の後方にいた体格のいいTシャツの男が前に出た。排除しようと近づくのも構わず、豪山はまた口を開いた。
「やはり覚えておらぬか。だがな、そなたがこの現世に現れ出たのは、わしとの因縁にけりをつけるためだ。二人で共に、まことの転生を果たそうぞ」
唐突な言葉だが、この手の勘違い発言には慣れているのか、酒巻は不快な顔もせずに黙って聞いている。Tシャツ男が豪山を連れ出そうとするが、彼はうるさそうに手で払うと薄ら笑いを浮かべ、「変わっておらんな」と、言った。
「相も変わらずぐずぐずと考えすぎる男だ。いつまでも考えて、しまいにつかむのはカスだ」
「カスをつかむ……」はじめて酒巻が反応した。「ちょっとひどいな」
不服げな彼の顔を見て、男は実に嬉しそうに笑った。「なに、おぬしの正しい道を伝えにきただけだ。さっきのように、セミのごとくがなりたてるために生まれたわけではあるまい」
どうやら、どこかからコンサートの様子は探っていたようだ。
酒巻とおるは、ゆっくりと安西=豪山に向き直った。顔に不思議な自信が煌めいている。豪山はすごい目つきをして彼の顔をみつめたが、酒巻の目は豪山より周囲を見ていた。
「セミで結構。力一杯歌って死ぬ。いいじゃありませんか」
「おろかな。こんな浅ましい女どもの晒し者になるのがさだめなわけがない」
すると酒巻は、一瞬目を細めてから、「さだめ。生まれた理由。あなたはどうも誤解しておられる。わたしに生まれた理由があるとすれば……」
酒巻は背を伸ばし、胸をそらすように安西=豪山に言ってのけた。
「皆さんに歌を聞いていただき、幸せになってもらうこと。それだけです」
周囲に大きな歓声が沸いた。黒Tシャツたちが互いに顔を見合わせた。自分たちの聞かされていないやらせファンサービスかと思ったためだ。
「正直、怪我までは別のことも考えたりもしました。でも」酒巻はよく響く声で続けた。「やっと気がついた。僕には歌があり、みなさんがいる」
黄色い声があちこちから響いた。
「これからの僕を、見ていてください。皆さんと一緒に、全身全霊、がんばり抜きます」よく響く声で酒巻が宣言すると、すでにバスに乗り込んでいた客はもとより、付近にいた客、会場近くにまだ残っている客の間からも、大きな拍手が起こった。
よほど予想外の展開だったのか、豪山は呆れ顔をして固まった。
「もういいでしょう。あなた、離れてください」さっきの体格のいいTシャツが声をかけたが、「ひっ」短く悲鳴を上げて飛び退いた。
豪山が何かしたわけではない。だが、彼の足もとに黒い影がいくつもいくつも漂っていて、その一つが立ち塞がったのだ。顔のところにはぼんやり骸骨のような白黒の空洞が浮かんでいて、その空洞でこちらを見た。
さすがにこうなると、酒巻とおるを取り巻くおばさまたちから声が上がりはじめた。アトラクションにしては手が込みすぎている。
さっきから不機嫌そうに唸り続けていた空に、ついに銀色の細い柱が何本も走り、すぐさま破裂音が響いた。ごく近くで落雷が起こったのだ。
どろどろと音が鳴りだすと、あたりの気配が一挙に重苦しく変わった。安西=豪山の周囲の地面が揺れ、悲鳴が上がった。
「この前より力が増してるわね。身体に慣れたのかな」と、さくらが言った。
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