第6話 逃げろ

 樹が慌てて周囲を探ると、大変なことが起きていた。

 棺が、即身仏を収めたケースに突き刺さる形となって、ケースのガラスが破れていた。むろん飛散防止フィルムは貼られているのだが、どこをどうなったのか、小さなガラスの破片が樹の足元にまで飛んでいた、それに、たいへんなものが見えた。「せ、せんせい」

 棺と即身仏に挟まれて人の背中が見えた。黒っぽいジャケットは紛れもない、安西庄司先生である。カメラクルーに代理店の男性、そして樹たち博物館側の人間も慌てて駆け寄った。「うっ」例のおしゃべりの代理店の男性がえずいた。

 先生の首すじを見てしまったからだ。

 

 棺に押し出されるような形になったらしく、安西先生はまるで即身仏にタックルする姿で倒れていた。そして、先生の華奢な首すじから鮮血がたらたらと垂れて、即身仏の黒い顔にまで滴り落ちている。先生の目は閉じられて、意識がないようだった。

「えらいこった」

「とりあえず、棺を取り除こう。とにかく助け出せるなら、そうしよう」

 集まってきた博物館の館員たちも棺に取り付いた。怪我人の扱いはともかく、重量物をそろそろと移動させるのには慣れている。

  

 なにかできないかと近づいた樹の耳に、重々しい音が届いた。外で雷が鳴りはじめたようだ。二度、三度とそれは続き、彼女を不安に陥らせた。

 –––– どうしよう。嘘みたい。

 だれかが携帯で救急車を呼ぶ声がした。我にかえった樹は、先に自分が呼ぶべきだったと後悔し、頭を自分で叩いて活を入れた。そのとたんに、ものすごい音がして目の前が白くなった。

「らく、らい……?」気がつくと白い煙が館内に広がっている。

 まさかと思ったが、館内に雷が飛び込んだらしい。そんなことあり得るのかと考える前に、樹はスマホを取り出して、消防車を呼んだ。電話口の向こうから聞こえる冷静な口調が頼もしかった。

 

 要請を終えて顔を上げると、続けざまの事故によって館内は小さなパニックに陥っていた。

 人の呼び交わす声を聞くと、さっきの落雷により少なからず被害が出て、職員と撮影クルーのうちから怪我人が出たらしい。どこかから焦げたような匂いもするのは、なにかが燃えているのだろうか。しかしまだスプリンクラーは作動していない。


 そうだ、安西先生。唐突に思い出した。救出作業が途中までだった。

 近寄ると、落雷にもかかわらず、職員たちは手を合わせて作業を続けていたようで、どうにか棺を取り除いたところだった。棺そのものは大半がグラスファイバーによって補強した複製品だから、軽いし思い切って作業できたようだ。樹の場所からも、まぶたを閉じた安西先生が見えた。

「せんせい、せんせい」「すぐ救急車がきますからね」

 口々に声をかけつつ職員たちは傷の具合を探った。だが、

「おおっ」変な声をあげ、安西先生は前のめりの姿勢から自力で起き上がった。

 

 一度はふらついたが、すぐ何事もなかったかのように先生は背筋を伸ばした。

 近寄ろうとした職員が、ぎょっとした顔になって足を止めた。先生の首筋には、はっきりわかる大きな切り傷があったのだが、まるでビデオを逆回転させたようにみるみる塞がっていった。

 そのうち、安西先生はゆっくりと首を回し、樹たちを向いた。目がこれ以上ないほど充血しているし、ネクタイも白いシャツも赤黒く血に染まっている。正直、あまり会話はしたくない。

「せ、せんせい……」

「やあ」ひどいガラガラ声で先生は言った。「じようが足りない。手伝ってくれるかな」

「えっ」

「探しに行かねばならないんだ。あの者が、この地のどこかで待っている」そう言ってから、「おお、そうそう。先にすませないと」彼は急に気がついたように、よろよろと向かい側のブースへと近づいた。「蒼い摂政」の館跡を再現したコーナーで、発掘品が当時のままと想像される形にデイスプレーされている。

 安西先生は掌を広げ、見学路と展示物を隔てるガラスにぺたっと押し付けた。ブルッと身体が震えると、強化ガラスが裂けるように壊れた。止める間も無く先生は、宝石に飾られた美々しい装飾品には目もくれず、蓋の開いた小さな金属の箱を手に取り、大事そうにジャケットの胸ポケットへとしまった。

 さらに、先生は一人芝居でもするかのように自分の胸あたりに耳を傾け、

「おうおう、あなたも同じ意見か。かの者と無事、ひとつになれればそれだけで蘇ったねらいの半分は達せられたようなもの。それにはやはり」

 そして笑みを浮かべると、ぎくしゃくと先生は動いて、周囲を見回す。そして、中で一番若い、二十歳過ぎと見える撮影アシスタントの男性を指差すと、「これにしよう」

 

 その後、起こった光景は、樹にとって悪夢としかいいようのないものだった。

 安西先生は、あっけにとられたアシスタントに元気に飛びつくと、抵抗する彼の喉元に爪を立てた。悲鳴が聞こえた。

 ロックスターの顔がプリントされTシャツを着たアシスタントの首筋からだらだらと血が流れ出した。先生は口を開き、当然のようにかぶりついた。テレビでは、温厚そうな顔ばかり見せていた安西庄司のありえない姿に、5、6秒は誰も動かなかった。

 我に帰った職員の一人が止めに入ると、先生は片手で彼を跳ね飛ばした。華奢な体格からは考えられない馬鹿力だ。

「なにするんですか」今度は一斉に三人ほどがとりつき、アシスタントから引き離そうとした。太った職員にタックルを受け、振り向いた先生の顔は朱に染まっていた。アシスタントを奪われると、安西先生は太った職員の腕を捻り上げ、直接手首に噛み付いた。また悲鳴が上がり、血が飛び散った。「うわ、やめて、やめてください」

「しゃあっ」血塗れの顔で先生が吠えると、止めようとした男たちは後退りした。その隙に樹はひとり、撮影スタッフの持ってきていた脚立をそっとつかむと、太った職員の手首を掴んだままの先生の後頭部めがけて、遠慮なく振り下ろした。乾いた音が響いた。

 

 アルミ製だしプラ製のカバーがついているし、あまり威力はないはずよと思いつつ樹が見ていると、先生はくたくたと膝をついた。太った職員は床に倒れた。

「とりあえずビニールテープでいいから止血してっ」そう叫んでから樹は、「先生、やめてください」と相手を諫めた。すると先生は、膝で立ったまま壊れた人形のようにギクシャクと樹を見た。

「ご、ごめんなさい」血走った男の目のあまりの凄まじさに、樹は脚立を手放し謝ってしまった。なのに安西先生だったものは、彼女よりもその足元が気になるようだった。さっきのスイングの際、樹のポケットからスマートフォンがこぼれてしまっていた。

 

 安西先生はすべての身動きを止めて、スマホの小さな画面にじっと見入った。

 落ちた際に起動した待ち受け画面に浮かぶのは、幼稚園に通う樹の姪である。浴衣姿の姪っ子が手に持つ団扇は、酒巻とおるファンクラブの会員限定品だ。当然ながらとおる様の顔写真が一面にあしらってある。

 そして、安西先生の血走った視線の先にあるのは、姪っ子の屈託ない笑顔ではなく、とおる様のすまし顔だった。

 省電力モードが働き、スマホの画面が暗くなると安西先生は目に見えて動揺した。

「この者はいったい」

「か、返してください」

「これは桐丸であろう。なぜこんな姿を?」

 会話を諦め、陸上競技で鍛えたダッシュ力を生かしてスマホを取り戻す。

 樹の突然見せた機敏な動きに驚いたのか、どこか恍惚とした表情をしていた安西先生の顔が、急に赤鬼のようになった。突然、お湯の沸騰を知らせるような悲鳴をあげて立ち上がり、両手を伸ばすと彼女へと迫った。

「ひゃっ」恐怖に囚われ、思わず樹は目をつぶった。

 だが、なにも起こらない。こわごわ目を開けた樹は、安西先生が今度は完全に床にひっくり返っているのを見つけた。


「ぬっ」先生はめげずに立ち上がったが、透明人間に後ろから引っ張られたように足を宙に浮かせ、また転倒した。

「お、おんなっ、よけいなことをっ」先生はどこかに向けて吠え、それでもよろよろと樹の前にたちはだかった。

 だが。樹もまた、その隙にさっき手放した脚立をまた掴むことができた。今度は慌てず、流れるように水平にスイングした。上げ底靴を履いた先生より、まだ樹の身長が高く、脚立は先生の顎をとらえた。

 間抜けな音がして先生の顔は横向きになり、口から血がこぼれた。すると先生は、慌てた様子で割れた展示ケースに駆け寄り、口から流れる血を因善のミイラの頭からかけた。

「うそだろ」手首を噛まれたさっきの職員が泣きそうな声を出した。


 ふう、というように血をかけ終わった先生は息をついた。さっきより一段と目つきが鋭い。野獣が狡猾さに目覚めたような感じである。

 即身仏の体を覆っていた麻製と思しき着物が、生き物のように蠢き始めた。そして、いつのまにか先生の体へと移動して、灰色のケープのようにひらひらと、風もないのにたなびきはじめた。

 そこに、ようやく館内のスプリンクラーが作動して、煙の上から水が降り注いだ。樹も濡れてしまった。


「副館長」樹は噛まれた職員を手当中の副館長に声をかけた。「ひとまず逃げませんか」

「佐久間さん」だが副館長は、怖い顔をして言った。「あなただけでも逃げなさい。見なさい。あいつ、あなたを狙ってる」

 ほんとうだった。一段落した安西先生だったものは、樹にじっと血走った視線を注いでいる。そしてふらりと動き出そうとしたが、その手を黒い何かがつかんだ。

「もう、やめてよ」思わず泣き言が出た。

 黒い即身仏の手が、安西先生の手首を掴んでいた。体を覆っていた灰色の布は完全に安西先生の方に移動してしまい、残ったぼろぼろの着物の隙間から、見たくもない黒い肋骨がのぞいている。おえっ。

 ぐらりと首を垂らして、安西先生はミイラと目を合わせ、にやりと笑った。

 先生はまた歩き出した。先生の離れたとたんにミイラは力をなくし、壊れた人形のように床にわだかまった。消し炭のような体はだらんとして、完全に「死んだ」のがなんとなくわかった。

 

 真っ直ぐに樹を目指す安西先生を、消化器の泡が迎え撃った。副館長が腰だめになって備え付けの消化器を噴射している。先生はたじろぎ顔を背けた。

「逃げて、佐久間さん、ここはいいから、外に出て助けを呼びなさい」

 助太刀しようとした樹に副館長が叫んだとき、目の前が白く発光した。

「あっ」

 視界がもどると副館長が床に倒れ痙攣していた。駆け寄ろうとした樹を、イタチみたいな生物が毛を逆立てて吠えて追っ払う。一方、泡だらけの安西先生は、まるで相棒に対するかのように、「おお、すまんな」と声をかけてから樹を振り向き楽しげに言った。「言うことを聞かぬと、お前もこうなるそうだ」

 –––– 夢であってちょうだい。

 あとずさりをはじめた樹に、安西先生がじわじわと距離をつめてくる。

 気のせいか、これまでとはずいぶん面立ちが変わって、ついでに姿勢も堂々としている。まるで別人だ。足元にはイタチみたいなやつを従えている。いつのまにか、二匹に増えているではないか。


 だが、先生はまた、唐突にひっくり返った。「おのれっ」

 イタチみたいなのが地を這うようにシルクロードの美女の展示ブースへ寄ると、風邪ひきの猫みたいな声で吠えた。雷光が閃き、ガラスの割れる音がした。

「ざまあみいっ」下品な口調で叫んでから、先生はようやく起き直った。

 大好きな美女への狼藉を目の当たりにして、

「ゆるさんっ」樹はさっきの脚立を探したが、

 –––– 走りなさい。急いで。

 誰かに耳元で言われた気がして、動きを止めた。

 –––– 私は無事です。倒れた女も。それより、早くここから逃げなさい。

「は、はいっ」樹は声に導かれるまま、回れ右すると駆け出した。

 とにかく逃げよう。反撃はそれからだ。


 後方に吠え声が聞こえた気もするが、元陸上部の特技を生かして必死で走った。雷鳴が響いたのも無視した。展示エリアをあっという間に駆け抜け扉をこじ開け、建物から出ると赤いランプを点灯させた救急車がいて、いままさに消防車が車回しに入ってこようとするところだった。

 助かった!

 そう思ったとたん、濡れた床に足をとられて派手に転がった。手にしっかりスマホをつかんでいたため、受け身を取るのが遅れてしまい、望ましくない形で樹は着地した。

 衝撃は、頭に感じた。

 その時、揺れる彼女の脳裏に浮かんだのは、

(あ、来週のコンサート…)だったが、そのまま樹の意識は暗闇へと引き込まれた。

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