白の人狼/魔物ハンター エピソード0

布留 洋一朗

第1話 少年と狼

 灰色の空に雲が忙しく動いていた。

 時おり烈しく吹き付ける風が少年の黒い髪を乱していた。

 嵐が近いとは、こんな空の状態をいうのかな。

 そんなことを考えながら、秋山タケルは目の前にいる男性の肩越しに空を見ていた。

 一方的に話を続ける男性の髪は空に似た色をして、顔も同じく赤みがない。

 (この状況には、似合っているけど)などと思ったりした。


 灰色の髪の男性もまた、語りかけつつ少年を注意深く観察していた。

 体つきは、いまどきの高校生らしくほっそりして手足が長い。磁器のようになめらかで白い肌が、鼻筋の通った上品な顔立ちに似合っていた。

 中でも強い印象を受けるのは目だ。瞳は色が薄く緑がかった部分もあり、神秘性すら感じるほどなのに、それ以上に理知的な光が男性をとらえている。彼を人に話すとするなら、美少年と表すより聡明そうな目元について伝えるだろう。

 男性は、これからはじめる自分の行為に断固とした決意を持っていた。それでも賢げな少年の姿を見続けるうち、ためらいも覚えてしまっていた。

(だからこそ、やらねば)彼はそう自分言い聞かせた。


 二人のいるのは大口原と呼ばれる広い草原である。丘の向こうに、灰色の髪の男性が乗ってきた旧式の四輪駆動車が見えている。まもなく夕刻になる。そうなれば、あたりはあっという間に暗くなるだろう。

 男性の髪が激しい風になびいてときどき顔を隠した。タケルは彼に視線を戻した。大門と名乗った男性の顔は、細かいシワがびっしり刻まれているものの、彫りの深い立派な造作をしていて、知的にも見えた。それに、大門は髪の量が豊かだ。最近しきりに薄毛を気にするタケルの父が、風になびく彼の頭部を見ればうらやましがるかもしれない。

 ただ、大門の目だけは見ないように注意した。タケルは大人しそうな外見の内側に、強い冒険心を抱いていた。それでも、ここまできてしまったのはおそらく、最初に相手の目を見つめてしまったせいだと気がついていた。

「……恐ろしいことが、ついに私を決心させた。先に君に謝らせてほしい。本来なら時間をかけて親しみ、そして願いを伝えるべきだった。だが、私にはその時間がすでにないことに気がついた」

 静かに語りながらも時折、大門は腰の辺りを押さえた。別に血を流したりはしてないが、こういうのはだいたい、寿命があとわずかの人がやるしぐさのような気がする。

(死亡フラグが出てるんじゃないのかな……)

 話す内容もだんだん難渋になり、そろそろ帰りたい気持ちを柔らかに伝えているのに、一概だにしない。興味のある山岳写真を通じて知り合っただけの相手に、うかうかと付いてきてしまったのを、タケルは心の中で繰り返し後悔した。いくら素晴らしい写真を撮る人物であろうと、作品と人柄は全く別物である。父が息子のこのザマを知ったら、必ずそうコメントするだろう。

 両親は、彼を心から大事にしてくれるのだが、やや過保護のきらいがなくもない。今日は朝からそれに反発してしまった。その気分のまま、こんな場所まできてしまったのは、

(大失敗だったな……)背中にじっとり汗をかいてしまっている。


 風は一度止み、また吹き始めた。休日なら、彼らのいる場所からハイカーのカラフルな衣装が目に入ったりするが、今日はあいにく平日だ。さらに天気予報が雨の可能性を伝えていた。そのせいなのか、ここへきて三十分以上経つが人っ子ひとり通らない。

 強く風に吹かれているせいか、大門の顔色がますます青白く、怖くなってゆく。それを見るにつけ、(ああ、もし無事帰ることができたら)と、タケルは心の中で懸命に祈った。

(がんばって、世界一の両親にふさわしい息子になります。世界一は無理でも、全国トップクラスに入るほどには。だからなんとか、無事に帰して欲しい)

 



 しかし、大門の演説は佳境を迎えた。彼は力のある眼で少年の顔を見つめた。タケルが眼をそらしても、かまわずしゃべり続けた。時折見せる鋭い眼光は、タケルが離脱するのを許しはしなかった。

「あらためて」といって大門は咳を一つした。「ぶしつけな質問を許してくれ。君はほんとうに日本人か」

 タケルが眉をひそめると、「いや、差別や区別する意図はないのだ」大門は慌て気味に付け加えた。「人よりも大きな力の不思議の所在を、たしかめたいと思っただけだ」

 タケルは大門の言い草に首をひねりつつ、「はじめに言ったように、父は秋山慎吾、母は秋山理玖。あとは兄と姉が一人づつ。兄は、日本国籍がなければならない職についています」


(もっとマメに兄ちゃんに連絡すればよかった)

 タケルは兄を思い出した。すでに就職して家を出た兄の賢人は学生時代、名の通ったラクビー選手であり空手の有段者でもあった。口には出さなくとも、兄はタケルのひそかな自慢だった。姉の奈緒だってそうだ。絵の上手な姉は、顔を見れば憎まれ口の応酬になるとはいえ、最も心を許した存在で、そのユニークは発想にはいつも刺激を受けている。

 家族が全員揃った、にぎやかな食卓をタケルは思い浮かべた。

 みんな、あんなに僕のことを気にしてくれているのに。

 そう考えてすぐ、彼はまた悲しい気持ちになった。

(どうして今朝、母さんにあんな嫌な口をきいたのだろう)

 いつも冗談ばかりの母の、悲しそうな顔を思い出したからだ。(おまけに父さんにもそっぽを向いた。そんなつもりじゃなかったのに、どうして……)

 息子をとりなそうとした父にも、冷たい口をきいてしまった。さっきから次から次へ後悔の気持ちが湧き起こってくるのは内心、生命の危機を感じているからだろうか。


「そうだな、君は秋山の人間だ。すまん」大門は弱々しげな微笑みを浮かべた。

「言い訳させてもらうと、君からは、なんというのか」少しだけ言い淀んでから、「私の鼻でさえわずかにしか感じられないのだが、不思議な匂いがする」と言った。

 言われたタケルが自分のワイシャツのそでのあたりで鼻をくんくんさせると、

「いや、この言い草が失礼なのはわかっている。だが君は、家のご両親や近所の方々とは違う。どこにでもいる平凡な日本人、一般的ではない存在なのだ。それは、わたしの過去の記憶を裏付けるものでもある。頼む。君について真実を教えてほしい」


 痩せて骨張った大門は、それでも肩や胸は厚く、手首も太い。クラスでは背の高いほうに属するタケルよりもまだ大きく、彼をずっと見上げていた。さらに大柄な兄の賢人で大男には慣れているが、そうでなければ怖かったかもしれない。

 しかし大門は、威圧するでもなく、いたって生真面目にタケルに問いかける。彼自身の欲や陰謀のためとも思えない。これは気の良いところのあるタケルにとり、脅迫されるより効き目があった。彼はついに決心してうなずき、自分からはめったに口にしないことを言った。

「たしかに、ぼくの生物学上の両親は別にいます。父親は英人だそうです」大門が思わずうなずくと、「うちの親は隠したりしませんし」とタケルは言った。「ただしどちらも亡くなっていて、記憶はありません」

 小さく安堵の表情を大門は浮かべた。「そうか、知っているんだな。きみの真の…」

「勘違いしないでください」タケルは一転して鋭く言った。「真も嘘も、ぼくの両親は秋山でしかありません。実の親に懐かしさなんて感じないし、別に会いたくもない。おまえの実の父母が危ないんだ、とか言われても、ああそうですか両親に相談しますとしか答えようがありません。ぼくは秋山の末っ子。なにか文句がありますか」

 大門は、小さく口を開きっぱなしにしてから微笑み、なんどもうなずいた。

「そうか。やはり君に邪眼の効果は薄い」と、つぶやくと姿勢をあらため、

「失礼を許してくれ」と謝った。「君に会えたのが嬉しく、つい浮かれてしまっていたようだ。いや、私も似た境遇にあって、親には特殊な感情を持っていたものだから」

「そうですか」

「だが君は、私とはずいぶん育った環境が違うようだ。いいことだ。君は幸せだったんだな」


 タケルが黙っていると、「ただ、これは信じて欲しい。実を言うと、生前のお二人を私は存じ上げていて、世話にもなった。そのせいもあるんだ。思っていた以上に君は芯が強いし、誤解しないでほしいが、たしかに受け継いでいる。安心したよ」

 大門は軽く目をつむってから言った。「さて、私の任務だ。私には君の、遺伝的な親のような力はない。ほんの少し姿が似ているだけだ。だが火打石としてなら、役に立つ。この身をすべて捧げれば、偉大な太陽を燃え上がらせるための火花にはなれる」そして大門は空を仰ぐと、「ようやく、我が身を捧げる時がきました」と静かに言った。


(いまごろヤバい人と気づくなんて、おれって選りすぐりの馬鹿)

 芝居がかって見える大門の態度に、タケルは胸の内で自分を呪った。だが大門は、彼の気持ちを知ってか知らずか、なにげなくタケルの手首を取った。

 長く力強い指は、まるで風雨に晒された鋼線のようだった。大門は片手でタケルの手を持ち、残った手の指をそっと動かし、ゆっくりタケルの手首をなぞった。バツを描くような動きだった。爪も立てず、血もでなかったが、

「熱っ」タケルは思わず手を引っ張った。一瞬、焼け火箸でも押しつけられたように感じたからだ。

「すまない、すぐ済む」だが大門の鋼みたいな手はびくともしなかった。両手分の作業が終わると、大門は急に全ての力を使い果たしたかのように肩を落とし、長いため息をついた。タケルが手首を確かめると、何の傷跡も残っていない。


「昔のことだ」彼は言った。「君の母上に、同じことをしてもらった。だけど私には無理だった。器の違いだろうな」

 怪しむ顔のタケルに弱々しい笑顔を向けると大門は、「すまん。遺伝上の、だな。その時に静香さんは、伝説の存在なら、重ね合わせるだけで容易に変わると教えてくれた」

「変わる?」タケルの問いに大門はうなずいた。「あの方は変化や変身とは言わなかったがね。お役目へのしたく、と言ったかな。とにかく我々にとって変身は苦悶なのに、君の一族は違うそうだ。わたしはついに確かめることができなかったよ。君は我々とは異なり、生まれながらに弱い者を救い守る存在。君とっては自然なことなんだ。姿を変え、魔を退ける行為が」

 タケルは、すきあらば逃げ出すことを決め、大門の動きを探った。

 丘の向こうには相変わらず男の車が見えたが、運転のできないタケルには、奪って逃げるのは無理だ。とにかく走って逃げるしか手はない。山登りは好きだが、トレイルランはほとんどやっていない。追いつかれるだろうか。


 ふと大門は、小首を傾げた。

 あとになって、ずるいな、騙されたなとタケルが思うのは、このあとの大門の表情だった。それまでの表情にあった苦悶などどこかへ行ったかのように、童子を思わせる無垢な笑顔を浮かべた。すべての無作法が許せる、そんな顔だった。

「これから、想像を絶する恐ろしいことが起きるかも知れない。いや、そうなるだろう。だが、恐れる必要などない」

 大門は今度、タケルの両肩に手を乗せた。そして顔を伏せた。嗚咽のような声が聞こえ、「あの……」タケルが聞いたとたん、大門は顔を上げた。あとで思い出すと、獣めいた顔に変化していたようだが、その時は目の光に気を取られていた。

 タケルの首と胸元を凄まじい衝撃が襲い、彼はのけぞった。まるで獣に噛みつかれたような感覚をおぼえ、悲鳴も上げずにタケルはその場に倒れた。大門もまた、糸の切れた人形のようにその場に崩れた。

 草むらに仰向けになったまま、タケルはじわじわ自分の体が冷えていくのを感じていた。助けを呼ぶ声もあげられず、彼は後悔の言葉を頭の中で繰り返した。

(しまった)(やっぱりか)(かあさんの言葉を、素直に聞いておけばよかった)

 だんだん意識が薄れていく。(ああ、このまま死ぬのか)

(もしも生きていられたら、かあさんととうさんに)

 小鳥の声が聞こえたようだった。だが、タケルの頭に浮かんだのは、

(かあさんきて、助けて)だけだった。

 タケルの視界が真っ暗になった。


  

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