第2話 目覚めの前に
「ああ、松さん」松浦梓と両親の姿を認めると、秋山慎吾が談話室のベンチから腰をあげた。横にいた妻の秋山理玖も立ち上がった。
秋山タケルの両親と梓の両親は、互いの手を取り合い話をはじめた。
大人四人を横目に、梓は談話室を通り過ぎその先にあるICUの扉の前に立った。
そして、悪霊に立ち向かうように背筋を伸ばし、その奥をじっと見つめた。この向こうにタケルは眠っている。
大口ヶ原で倒れていたタケルがハイカーに発見され、この大学附属病院に担ぎ込まれてから、四日が経過していた。それ以来、彼は人工呼吸器につながれたままになっている。
両家は以前、すぐ近所に暮らしていた。5年ほど前、松浦家が引っ越したあとも緊密に連絡を取り合う仲である。梓もごく小さなうちからタケルと、そして彼の兄姉と一緒に過ごしてきた。
今日、妹の由実は来ていない。中学生の由実はタケル贔屓を公言していて、このところ毎晩眠れない様子なのはわかっていた。あとで姉が両親の見舞いに同行したのを知れば、さぞ怒るだろう。
タケルの入っているのはICUの、それも個室だった。彼がそこから出てくることはあるのだろうか、と不吉なことを考え、梓は奥歯を噛み締めた。震え出しそうな足を、懸命にまっすぐ保った。
視線を感じて振り返ると、タケルの姉の奈緒が顔をあげていた。もともと色白の顔をさらに青白くした彼女は、うなずいてベンチから立ち上がろうとした。思わず、梓の方から駆け寄った。
「梓ちゃん、よく来てくれたね」奈緒は梓の手をとり、白い手でぽんぽんとはたいた。タケルの姉であり、現在は芸大の学生である。
梓にとっても、最も親しい年上の存在だった。現在は家を出て下宿中だが、弟の急を聞いて戻ってきたのだ。
「あいつ起きてりゃ、梓ちゃんに馬鹿なこと言うんだろうけど。今日は憎まれ口はお休みだね」いつもは不敵な感じの美人なのだが、今日はやはり弱々しい、
「憎まれ口はもっぱら、私のほうです」と、梓は言ってから付け加えた。
「病院に運ばれてから、ずっとあの中ですか」
「うん。でもね、呼吸とか血圧は落ち着いてるし、担ぎ込まれた時は上半身が変な紫色をしてたのが、元に戻ってきてるの。実はね、あいつの心臓、いっぺんは止まったようなんだ」
「えっ」「でも、すぐまたすぐ打ちはじめたって。あいつ、へたれなりにちゃんと戦ってるんだと思う。だから梓ちゃんも応援してやってね」
「はい」返事した梓にうなずくと奈緒は、廊下の隅に意味ありげに目をやった。
奥に深刻な気配を漂わせる巨大な人影があった。筋骨逞しい男が壁に向かって腕組みをしている。
「大丈夫。ぜったい治る」と、つぶやくように言った。
「あっ、賢人さん……」こっちを向きもしない大男はタケルの兄、賢人だった。大学卒業後、海上自衛官として任務に就いている。詳しい任地は教わっていないが、急には休みがとれないと以前から聞いている。なのに、どうやってか戻ってきたらしい。
いつもなら、「国の守りはどうしたんです?」といった冗談をまず言うところだが、さすがに無理だった。この巨漢が、どれほど歳の離れた弟を可愛がっているかを梓もよく知っている。それだけに、「そう、です、よね。絶対元気になりますよね」としか言えなかった。
「ああ。タケルはちょっとばかりおっとりしてるし、時間がかかってるだけだ」と、賢人は自身ありげにうなずいた。声が聞こえたのか奈緒も、タケルの両親もうっすらほほえんだ。
「きっとそうですね」梓も精一杯笑った。そして彼女はもう一度、ICUの扉をにらんだ。
(これだけ、みんな心配してるんだから)胸の内でタケルに呼びかける。(たとえ神様や仏様にダメって言われても、戻ってこいよ。でないと、どうなるかわかってるな)
そして彼女は、懸命に願いを捧げた。どこかにいるはずの、偉大な存在へ。
秋山タケルは、ゆらゆらと中空を漂っていた。
草原に倒れたあと、病院に運び込まれたのは理解していた。いま、眼下に見えるのは人工呼吸器につながれた自分だったからだ。
しかし、四肢の力は失われ、指一本動かせないまま意識だけが眠る自分の周囲を放浪していた。
(もしやこの、間抜けなドローンみたいな状態が、例の幽体離脱ってやつ?)
などと考えたりもした。
いや、生命の危機に瀕した時、人の脳は現実に迫った幻影を見るとの話を聞いた。いまはその状況なのかもしれない。そう考えたほうが納得がいく。
しかし眼下の情景は、彼の脳が作り出したにしてはやけに細かくリアルだった。特に困るのは最も見たくないものが目にはいることだ。
タケルの父母が憔悴しきって座っていた。
夫婦は肩を寄せ合うように、じっと黙っている。目を閉じてなにかに祈っている。おそらく息子の生還を願っているのだろう。顔色はひどく、唇が乾いている。ろくに食べ物も口にしていない様子だ。
涙は出なくとも、自分が泣いているのはタケルがわかった。
なんで、こんな目に合わせてしまったのだろう。
物心ついたころから彼の心には、いつもどこかに、ある暗いことばがあった。両親にはとても言えないが、屈託のない日常を送りながら、ふとしたときに頭に浮かぶことば。
なぜ、二人はこんなにぼくのことを考えてくれるのだろう。これほど大事にしてくれるのだろう。ただの貰いっ子なのに。
ああ、口にしないで良かった。タケルは心からそう思った。
二人に理由なんて、ないんだ。
あとから、あとから、彼の胸に後悔の念が湧き出てきた。
慎吾と理玖の実子でないのは最初から知っていた。ただ、生みの母の記憶はおぼろげで、喜んだり、悲しんだりした記憶のすべてに今の母と父がいた。
特に不満などなかったし、愛情不足など感じたことはない。
逆に、友人などと比較すれば大事にされ過ぎ、干渉が過ぎるほどだ。これは兄と姉からも感じている。秋山家は、一家総がかりで末っ子を宝物のように扱い、育ててくれた。
元来が気の良いひとびとなのは、疑問の余地はない。だが、ただかわいがるだけではタケルがこれほど素直に、のびのびと育つものではない。素直とは、自ら中庸を選び取れる心の状態なのだから。おそらく彼の家族は、本人が知るより遥かに多く彼のことを考え、傾いたり陥穽に落ちたりしないよう、注意深く見守り続けてきたに違いない。
どうしてもっと家族の気持ちを考え、素直に感謝を表さなかったのだろう。
いま、父と母が小さくなって座っているむこうには、手足が長く顔かたちの整った若い女性が目を瞑っている。姉だ。さらに奥では、プロレスラーのような偉丈夫が腕を組んでいる。兄だ。ふたりとも実家に帰っていたのだ。
(姉ちゃん、学校は。にいちゃん、任務はどうしたんだよ)
声をかけたが、もちろん聞こえてはいない。
体がばらばらになったような感覚を覚えて、タケルの意思は暗闇に包まれた。
どれほど仲のいい家族でも、お互いが鼻についてしまうことはある。ましてや、思春期に差し掛かった少年は、いろいろつまらないことを考えてしまうものだ。
彼の場合は、愛情が重く感じてしまった。
それに、世の中には貰いっ子を不安にさせる言説が溢れている。内心と外見は違う、養子としたのはなにか目的があるのではないか、いつか実の子との違いを思い知らされる時がくるのではないか、云々。
タケルは優れて理知的な少年だったので、それらの大半がくだらない言葉遊びであることはわかっていた。自分が大切にされ過ぎたがために、多少の息苦しさとわずらわしさ、反発を感じているだけなのもわかっていた。
(でも……)
こんな目にあってようやく、タケルは心から思う。もっと素直に喜べばよかった。そして、自分から正直に気持ちを伝え、両親を、兄姉を大切にすればよかった。いまから後悔しても、もう遅すぎるのだろうか。ごめんよ。ごめんよ。せめてひとこと、謝ってから別れたかった。
どれほど時間がたったろうか。誰かの声が聞こえてタケルは慌てた。
「どお、落ち着いた」女性の声に思える。「そろそろ飽きたかしら、宙ぶらりんに」最初とは別の声がした。これも女性だ。
もう一度意識の目を開き、あたり探ったが、それらしい姿はない。
眼下では、タケルの家族が別の家族に頭を下げていた。彼らはさっきから見舞いに来ていて、そろそろ帰るようだ。
「あずさ……」タケルは同い年の幼馴染みの姿を見つけた。
声は聞こえないはずなのに、彼女は立ち止まり、鋭い視線を宙に投げかけた。
タケルは幽体離脱状態なのに、どきっとした。
そのあと、梓の視線はタケルの入っている集中治療室のドアへと移ったが、唐突に身体ごと振り返って両親に合流し、去って行ってしまった。
相変わらず、なにを考えているかが他人にはうかがい難い少女だ。
「でも、きてくれたんだ」タケルは独り言をつぶやいたつもりだった。
しかし「そうね」と、物憂げな声で返事があった。「あなたたちの世代にしては、珍しくしっかりして俗に流されないお嬢さん。伊達に可愛いだけじゃない」
「えっ、だれ?」振り返ったつもりだったが、なにもいない。
「はじめまして、といいたいところだけど、そうじゃない」また別の声が言った。こっちは口舌がはっきりしている。「わたしたち、あなたのことはずっと見てきたわ。さっきの女の子に負けないほど継続して。時に遺漏はあったとしても」
タケルがもう一度振り返ると、そこは病棟ではなかった。
どこか知らない、青空の下にいた。一面、地平線の向こうまで白っぽい石が敷き詰められている。昼とおぼしき空は陰影がはっきりしていて、たくさん濃い雲の影があったが、風は吹いておらず写真のように動かない。先日の大口ヶ原とは違う場所なのは間違いない。
また、声がした。最初の投げやりな口調が、「私たちの姿は見えないかな。見たいなら、見せてもいいわよ。どんな姿がいい?」と聞いた。
「ど、どういうこと?」タケルも聞いた。そして、しばらく考えてから、どこかで見ている誰かにまた聞いた。「あなたたちは一体なんです?天使とか、あの世からの使いとか。あまり死んだことがないのでよくわからないですけど」
笑い声がして、しゃきしゃきした声が言った。「こんな姿もあるけど」
タケルの視野に女性が二人あらわれた。ひときわ大きな石に腰掛けている。
どちらも歳は二十代後半から三十ぐらい。粋に浴衣を着た姿で「あなたはもっと若いのがいいかな」と、彼に微笑みかけた。
「あたし、もも」「わたしはさくら。よろしくね」物憂げなのが姉、滑舌よくしゃきしゃきしてるのが妹とのことだった。
「やっぱり、幽霊だったのか」
「言うと思った。あんな湿っぽいのじゃないわよ、わたしたち」
「じゃあ、死神」
「死を司ってるわけでもない。あの世に連れていく係でも、ない」
「そうよ」どこか笑みを含んだような口調が言った。「使いではあるけれど、生きるため、生きさせるための使い。たしかにあなたはいったん、限りなく死に近づいた。でも、蘇りつつあるのは感じてる?」
とっさに意味を理解できずに、タケルは二人をぼんやり見つめた。
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