第9話 変身
タケルの入院している大学附属病院は、外塀や建物の一部に創建当初の赤煉瓦を残していて、来院者には概して評判が良い。だが安西庄司=豪山は何の興味も示さずに前を通り過ぎ、病棟にたどり着いた。
彼は上機嫌だった。同行している雷獣が自らの仲間を呼び、なにやら宙に向かって吠えた。とたんに病院付近の空に黒い雲が集まり、月も星も見えなくなった。すると一挙に周囲にいたひとびとも様子が変わった。一口で言えば、腑抜けになった。これは助かる。この新しい世界に目覚めてから、仲間には恵まれている。
安西=豪山はすっぽり顔を覆っていたフード付きパーカーを脱ぎ去ると、正面から堂々と病棟に乗り込んだ。守衛も職員も失踪中の安西庄司が通過しようが、影が横切ったほどの反応も示さなかったし、多少は残っていた見舞客も、誰ひとりとして彼に目を向けなかった。
豪山の思考は、博物館にいた背の高い女をふたたび見つけ、桐丸の手がかりを得ることのみに絞られていた。それ以外はとりあえず後回しだ。彼にとってその選択は合理的だった。いや、彼は己の合理性にひとつも疑いも抱いていない。人の心を失った果ての合理性だとは、全く気付いてもいない。(まさかこれほど早く桐丸の手がかりが見つかるとは)と、高揚してさえいた。
「いまどきの病院のエレベーターって広いわねえ。これだって、昔来たときはもっと小さかったのよ」エレベーターの中を飛び回りながら夜雀のももが言った。
異変を調べようと、タケルと夜雀二羽は、ICUの置かれた4階へと移動した。しかしエレベーターのドアが開くと、前とは雰囲気がすっかり変わっていた。6階より多くの人員が配置されているはずなのに、廊下をスズメが飛んでも誰も騒がない。それどころか話し声がしない。
人はいた。だが、そのすべてが宙や手元、足元をただぼんやり見ている。まるで、時間が止まっているようだ。
「ほら、みて」さくらが言った。「看護師さんたちはちゃんとポジションにはいるのに、心ここにあらずって感じ。誰かの容体が悪化したりすれば、大変よ」
「これ、どういうことなんです?」
「わかりやすくいえば、ここはかくりよに侵略されている」
「ももさん、ぜんぜんわからないです」
「あら、そう」
「つまり、時間の流れ方があなた方と異なる世界から干渉を受けているの」とさくらが言った。「鬼太郎の主題歌を思い出してね。これは怨霊の仕業って言うより、妖怪のせいね。博物館に雷獣のミイラが出品中って話だけど、空間をコントロールしたりするのは連中の得意技。あいつらが起きたのかも」
さくらの説明を聞いても理解はできなかったが、どこかで電話が鳴っているのに誰も出ようとしないのがまずいというのはわかった。
ICUの扉が見えた。普段なら部外者がここから先に入るのは備え付けのカードに記入しなければいけないが、今日は不要のようである。ももが突然、「ほら、きちゃった」と、羽をバタつかせた。
「そろそろ準備してね。まもなく本番よ」
「……変身って、なにをすればいいんです?」
「とにかく左右の手首を重ねなさい。脇は開かずに閉めるこころもちでね。それだけ。あとはただ、邪を払い均衡を取り戻すといっしんに思うの。今まさに身に危険が迫ってるから、あとは自然と変わるはず」
「呪文は、唱えたりしますか」
「思い切って蒸着って叫んでごらんなさい。きっと銀色になれるわ」
「ももちゃん!こんなときに」さくらが怒ってみせた。
「いやねえ、冗談よ。どんなときもユーモアを忘れちゃダメ」
「大袈裟に考えなくていいの」さくらがタケルの肩に止まって言った。「そのほうがいつものあなたのまま狼になれる。それが一番大事なの。狩衣になれるのが偉いことだと考えるようになったら危ない。それとね」
さくらは、それまでよりずっと優しい声をして言った。
「大門がいらぬことを言ったようだけど、あなたの生まれや血筋は、あまたある要件の一つに過ぎない。あなたを最終的に白狼にするのは他でもない。ご家族の慈みによって育くまれた、その優しい心根なの。いまの自分に自信を持ちなさい」
病院のあちらこちらに、現代の人間どものぼんやりした顔があった。それを横目に歩んでいく安西庄司=豪山の脳裏に、幽閉される前に見たさまざまな顔が明滅している。親族の苦虫を噛み潰したような顔、長兄の苦渋の顔、老父の黄ばんだ、悲しげな顔。そして桐丸の顔。最後の記憶では、白く切れ長の桐丸の目はじっと閉じられていた。
いや、いや、もっと前だ。彼は生きている桐丸の顔を思い出そうとした。群臣に紛れ、桐丸はこっそり豪山と目を合わせ意味ありげに笑った。ああ、なんとしてでももう一度会いたい。存分に語り合いたい。
にぶく銀色に光るエレベーターの扉の前に立ったとき、豪山は水鏡に映った己の青ざめた顔を思い浮かべた。たしか、繰り返し「術」を試すうち、自分が人でなくなりつつあるのに気付いた時にこんな顔をしたはずだ。
病床の父の、密かな願いをこっそり叶えてやったのが最初だった。敵対する国の武将、信用ならぬ親族、主人を売ろうとする家臣。奴らを始末すると、弱った父は涙を流して喜んだ。だが、いったん下法に身を任せると、すぐにとめどがなくなった。豪山の周囲で謎の死が頻発し、人々は首を傾げはじめた。
最初は黙っていた桐丸も、ついに彼のやり過ぎを戒めた。「貴方はなにかに取り憑かれているのです。邪に負けてはなりませぬ」とも言った。しかしもう、後には引けなかった。なにより豪山自身が、下法を使いこなすのに大いなる喜びを感じていたからだ。そうそう、桐丸自身の縁談もつぶしてやった。
わからずやの兄、その家臣たち。そして奴らが大峰山から呼んだ憎たらしい修験者の顔が浮かんだ。こいつらにはひどい目にあわされた。土牢におれを閉じ込めたのも奴らだ。いや、おれは転生し、強くなって蘇ったのだ。
一方、奴らはすでに全員が滅びて骨になっている。もうおれにはなにもできない。すべては「リセット」されたのだ。彼は現在の肉体の元の所有者から教わった単語を、頭の中で繰り返した。リセットとはいい響きだ。元の所有者は豪山の生きていた当時についてもそれなりに知っていて、翻訳ができる。現代の事象を豪山が理解するのにはなかなか役に立つ。おれは、ついている。
タケルたちのいる廊下に足音が響いた。続いて男がひとり、姿を現した。集中治療室に近いエレベーターではなく、小荷物搬送用のエレベーターを使ったのかも知れない。
男は肩口のほつれた黒っぽいジャケット姿を着ていた。赤茶色に汚れたシャツは胸もとが大きく裂け、ネクタイはない。代わりに首から下げた鍵のような飾りが見えた。顔に見覚えがあった。
「うわ、安西庄司!」
噂の安西庄司先生その人が歩いてくるのは、さすがに衝撃だった。テレビで見た愛想のいい表情はどこにもなく、ひたすら怖い顔をしている。記念のツーショット撮影を頼むのはよそう。一拍置いて感情のない声がした。
「うむ、なぜ起きておる」聞こえた声も、テレビとは大違いの掠れ声だった。
「すっかり乗っ取られている」と、夜雀のさくらが言った。「もう手遅れかな」
「うん。楽にしてやったほうがいいかな」と、ももが返事した。
「首から下げているのは、おそらく外国の呪具ね」とさくらが言った。「懐にはもっと禍々しいなにかを隠している。夢で教わった古代の魔物って、あれかも」
「その魔物だけ追っ払うというわけには……?」タケルが聞くと、「うーん、憑物おろしって、やってみないとわからないところがあるの。溶けたり崩れたり、よけい悲惨になっちゃうことも多いの」
「おい、うぬは何者だ」安西=豪山がまた声をかけてきた。「小汚いスズメなど連れおって。世間で流行っておるのか」
ももとさくらは憤慨の声をあげたが、相手は無視して軽く胸を叩いた。「ふむ。体の持ち主もスズメを飼う小僧など知らんそうだ。しかし顔は悪くないな」
(妖怪に褒められても嬉しくないよ)とタケルは胸の内でつぶやいた。
「知恵はなさそうだがな。まあいい。あとで相手をしてやるから、まずそこを通せ。あの女に話をききたいだけだ。桐丸の居場所を知りたいだけなのだ」
「あの、大人しく帰ってもらうわけにはいきませんか」ようやくタケルが声をかけると、相手はけげんそうな顔になった。
「いいか、わしにはなさねばならぬことがある」安西先生の顔をした男は、タケルとの距離を詰めながら、「一度は諦めたが、皆のおかげでこの身体を得た。桐丸を見つけたそのあとは、存分にこの恩を返そう」
「安西先生」思い余ったタケルは目の前の男に声をかけた。「正気に戻ってください。あなたの体を乗っ取ろうとしている奴がいます。そいつを追い出して」
「その言葉、前にも聞いた」安西=豪山は口を歪めた。凄惨な笑みになった。
「そのような痴れ言を兄がいい、修験者もいい、桐丸もいったな。うん……。そうだった」
安西は急に目をパチパチとしばたかせ足元の床を見つめると、「あれ、おかしいな」と言った。
「安西先生」タケルがまた声をかけると、「ああ、聞こえてるよ」と返事した。
そして、「これまでにわかったのは……」と、しゃべりはじめた。
「豪山は仏道の修行中、彼を見込んだ異国生まれの老僧から外法の技を譲られ、国に戻るとそれを密かに父のため役立てた」その声はさっきよりずっと細く、別人のようだった。「しかしその術は……次第に彼を蝕み凶悪にした。そして、彼が思いをかけた兄の臣、桐丸こと酒匂文吾に兄が重職の娘を娶わせようとしたのに怒り、かかわりのある者を妖術で密殺した。それを知った文吾はすべてを告白して、そして……」
安西先生はまた黙った。「先生、頑張ってください。そいつを追い出せば、また元気になります」元の人格が戻ったのを期待したタケルが声をかけたが、安西先生はぼんやりした顔をして、「あ、ああ」と顔を伏せ、また黙った。
ふたたび顔をあげた安西先生は、さっきの厳しい表情に戻ってしまっていた。「小僧。おかしな力を持っておるな」と、掠れ声が言った。「まずその口から、黙らせてやろう」
タケルが怯えて立ちすくんでいるとみたのか、安西先生は上着をめくり、腰のベルトに挟んでいた刃物を取り出した。
「ほらあれ、武器、持ってますよ」タケルが慌てて夜雀たちに訴えた。
「あらあ。やっぱり戦国の人よねえ」
「飛び道具じゃなくて、よかった」
「そういう問題でしょうか」
残念なことにメスのように小さくはない。どこで見つけたのか、骨でも斬り落とせそうな巨大な包丁だった。
「こぬか。なら、こちらから」刃を高く差し上げ、瘴気を纏った安西先生は、そのまま廊下をこちらに向かって駆け出した。
余裕のなくなったタケルは、(えい、もう知らん)と、とっさに拳を握って手首を合わせた。掌を伸ばしてままならウルトラマンだろと思ったせいもある。
何も起こらない。
「やっぱり、ならないじゃないですか」悲鳴をあげると、
「一度や二度で、あきらめない」離れた場所からももの声がした。
タケルが身体を沈めると、刃風が頭上を通り過ぎた。帰す刀で脇を狙ってきたので、タケルは必死に飛び退き、刃を避けた。
「往生際が、悪いな」ぼそっと安西先生が言った。たしかに神経も身体も、前よりずっと早く反応する。だが、相手との迫力に違いがありすぎ、じきに壁際に追い詰められてしまった。
額に冷や汗を浮かべたタケルを見て、安西先生の口の端が歪んだ。笑ったのだ。彼は日本刀のように包丁を両手で振りかぶったが、いったんやめて誰かの声を聞くように首を傾けた。そして、「ふむ。ふむ」と一人うなずいた。
「妖しいことに、なにかがうぬを守っておる。よしよし、悪縁をここで断ち切ってやろう」
もう一度包丁を振り上げ、安西先生は体当たりするように踏み込んできた。タケルは半ば無意識のうちに両手を重ね合わせ、包丁を跳ね飛ばすつもりで前に飛び出た。軽い衝撃があった。
(しまった。また、死んだかな)
違った。体を取り巻いていた大気が一斉に変貌を遂げた。強い熱を感じたが、それはほんの一瞬だった。顔前の相手が、目を塞いで飛び退いた。
花のようないい香りがした。さらに、清水のような香り。記憶のどこかにあった香り。同時にさっきまで感じた、パジャマの肌触りは消えた。しかし、丸裸になったのとは違う。皮膚が厚くなり、腕と足に力がたくましくなり、むしろ精密な鎧を纏ったようだ。視野に入った白いものは、自分の毛だ。その一本一本が、周囲の空気の流れを感じている。
タケルは自分が、人狼となったのを知った。
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