第12話 闇からのやさしい声

 昼前にタケルが自宅に戻ると、叔母の史乃が母の理玖と並んでにこやかに手をあげた。テーブルには変な色の南国風果物が積まれ、山になっている。

「あっ、ミイラの図録ありがとう。助かったよ」タケルが礼を言うと、

「もうすっかり元気だね、若いっていいなあ」と史乃は言った。

「わたしなんか、朝からちょいと一回りしただけなのに腰がガチガチ。年齢を実感するわ」

 史乃もその夫も、明るくおおらかな人柄をして話しやすく、タケルも小さい頃からたびたび果樹園の手伝い、というか邪魔をしに行っている。

 

 母の理玖は昨年、十数年勤めた小さな食品製造工房の代表の座を退いた。顧問として現在も週の半分は出勤しているが、それでも自宅で過ごす時間が増えた。すると叔母が彼の家を訪れる頻度もまた増えた。理玖が自宅アトリエではじめた新製品の開発に、いろいろ入れ知恵しているらしい。ときおり父と二人、味見を命じられるため、母のねらいとするところはなんとなく了解している。経営者としての重荷が減ったためか、勧める理玖の表情も明るい。

 もともと、叔母たちの育てた果物からコンフィチュールを作ったのが工房「プティルー」起業のきっかけだったし、原点に戻ったと言えるのかも知れない。テーブルを占領した見慣れない果物は、次回の検討課題であるようだ。


「せっかく退院したのに、博物館が休みで残念でした。なかなか面白かったよ」そう史乃が言うと、「忙しいあなたにしては、ずいぶん早く観に行けたのね」と理玖が聞いた。

「うん。お向かいの佐久間農園って大きな温室のあるところね。あそこの下のお嬢さんが自然史博物館にお勤めなの。それで、ミイラを集めた展示が始まるけど、娘がとても入りを気にしてるから、加勢をお願いって入場券をいただいたの」

「そんなに不人気だったの?」

「それどころか、まさかの大盛況。土産のボールペン一本買うにもしっかり並ばされたわ。でも、あれだけ好評だったのに、このまま終了になるかもしれなんて勿体ない話よ。図録だって、当日は品切れだったの。予想の何倍も売れてすぐ在庫がなくなったって」

「なら、タケルのために無理をして手に入れてくれたんじゃない、悪かったね」

「いやいや。可愛い甥っ子がどうしても読みたがってと相談したら、その娘さんがすぐ手配してくださった。歳は賢人くんと同じぐらいかな。とっても親切」

「ひいい、ごめんなさい」タケルは肩をすくめて謝った。

「それも入院中にもかかわらず、よ。おまけにタッちゃんと同じ附属病院。気のいい子だから、よけいにかわいそうで」


 理玖が驚いた顔になった。「じゃあ、そのお嬢さんもこの前の火事の被害にあわれたわけ。とんだ災難だったのね」一方のタケルは耳をそばだてている。

「そうなの。逃げる最中に転んで、頭蓋骨にヒビが入ってしまったって」

「頭にヒビ!それは大変だ」

「意識はしっかりしてるし、手術せずに自然に治るのを待つそうよ」

「痛さに変わりはないでしょ。それに若い娘さんが頭に怪我したなんて、本当にお気の毒」

「それでね、さらに気の毒なのが、楽しみにしてたコンサートを諦める羽目になったこと」そう言って史乃は顔をしかめた。「娘さん、酒巻とおるのすごいファンなの。ほら、酒巻って一度大怪我して、復活コンサートツアーを南条の文化ホールからはじめるじゃない。あれに行くつもりで、苦労してチケットを手に入れて張り切ってたそうなの。たしか明日だったような」


「それは残念でしょうけど、まだ入院中だものねえ」

「うん。奥さんによると、まだ人の集まる場所に行くのが辛いみたい。かなり怖い目にあったらしくて、最初は信じられない譫言を言ってたそうだし」

「そうだったの。ご家族も心配でしょうね。他人事とは思えないわ」

「だから、浮いちゃったコンサートチケットもご家族は使わず、うちの経理の山中さんが譲ってもらったんだ。ほら、あの人もとおるフアンだったでしょ。抽選に落ちてばかりだったから、申し訳ないけど嬉しいって言ってたな。それでね、あらためてお姉ちゃんのところの詰め合わせでも病院に届けようかって思ってるの。あれなら口に入れやすいし、あとで分けたりも簡単でしょ。どうかな」

「ああ、喜んでもらえたら、いいわよねえ」

「あの」タケルがおずおずと口を挟んだ。「どうせ僕、病院に行くし、よければ持って行きましょうか?」

「へっ。どういう風の吹き回し?」

 自他ともに認める人見知りの末っ子による意外な申し出に、理玖は目をパチパチさせた。


 

 佐久間樹は病院のロビーをゆっくり歩いて、端にあるコーヒーショップの椅子にたどり着いた。

 母親から病院に男の客がくると連絡があったが、パジャマ姿のまま病室で会うのは抵抗があり、着替えたうえ、ここで待つことにしたのだ。

 親にも伝えていないが、樹は今でも一人でいるところに見知らぬ男が近づくと、動悸がして胸が苦しくなったりする。

 それでも、初対面の男性との面会を受けたのは、うとうとした際に聞こえた声に勧められたせいだった。

(わたし、やっぱり頭を打ってから、おかしくなってるのかな)

 いや、それでも声だけは信頼したかった。命を救ってもらったほどなのだから。


 樹が病院に運び込まれて一週間が過ぎた。丈夫と信じていた自分の頭蓋骨に見事ヒビが入ったと知ったときは驚いたが、幸い脳からの出血や危険な腫れも見られず、医師の許可さえ出ればじきに退院できるとは聞いている。

 なのに、もう少し経過を見たら?という気配が周囲に濃厚なのは、目を覚ました直後の樹が、憑かれたように語った内容のために思える。

 博物館での惨劇をそのまま語ったのだが、あまりに荒唐無稽すぎ、誰もが彼女のせん妄だと受け取っていた。自分だってそう思いたかった。

 のちに聞いたところ、複数の病院に分けて収容された同僚と撮影スタッフたちのうち、樹みたいに安西先生の変貌の恐怖を語る人間はいないそうだ。先生をめぐる怪しい噂のネタ元にされたくはない。この件について樹は自ら口を閉じた。


 三日前には、わざわざ館長が見舞いにやってきた。恐縮しつつ樹は喜んだが、つらい事実も教わった。副館長はまだ、意識が戻らない状態なのだという。

 樹の心はその事実に大きく揺さぶられてしまった。

 もしかして、わたしが余計なことをしなければ、副館長は無事だったのではないか。その日から、チリチリと心を焦がすような罪悪感が樹を苦しめた。

 また、館長は言葉少なに、当日展示エリアにいた人々は例外なく病院に送られ、その誰もが事故の状況について、あいまいにしか覚えていないと教えてくれた。腕を噛まれたはずの職員など記憶がぽっかり欠落し、なぜ自分が倒れていたかすら思い出せないのだそうだ。

 もっと詳しく聞きたかったが、銀髪のおしゃれな紳士だった館長は、気の毒なぐらい憔悴していて、それ以上の質問は諦めた。

 職場が登場するニュースも見たが、すっかり事故扱いされていて、安西先生についてはただ行方不明とだけ報じられていた。


 樹自身も、あれは夢だったと思い込もうと努力した。錯乱していたのだから、仕方ない。そう考えるようにすると、昼間は多少、落ち着いていられた。

 だが夜おそく、静かな病室のベッドに横たわっていると、ふいに安西先生の血走った目が脳裏に浮かぶ。そして副館長の倒れた姿。シルクロードの美女のガラスケースの割れる音。

 あれほど楽しみにした酒巻とおる様の復活コンサートも、ついに諦めた。

 現在の彼女の体調なら、交渉次第では一日ぐらいお試し退院させてくれる可能性はある。しかし、見知らぬ人の大勢集う不慣れな場所へと出かける勇気が、いまの樹にはどうしても出なかったのだ。

 

 暇つぶしに樹は、ベッドや談話室の椅子の上で気の向くまま動画を見て過ごした。悲し過ぎ、とおる様のMVはあまり視聴しなかったが、予想外に気に入ったのが古いアメリカの映画だった。主演俳優の美しい目が、とおる様を思い出させたせいもある。主人公は突如として陰謀に巻き込まれ、口封じを図る暗殺者たちから、命からがら逃げ回る。

 樹もまた、安西教授の錯乱には権力にとって都合の悪い事実があるため、徹底した隠蔽の対象となっているのだ、と考えてみたりした。

 だが、意識を取り戻してから簡単な聞き取りがあった以外、それらしい人物が樹のもとを訪れることはなかった。だれも口封じにきてくれないということは、隠されすぎて権力にすら忘れられてしまったのだろうか。

 

 それでも、静かな病室で眠っていると、枕元に見知らぬ男の忍び寄る気配を感じて、飛び起きたりした。むろん、どこにも不審者なんていない。

 それなのにこのごろ、ふとした拍子に動悸が激しくなったりする。

(どうしよう。こりゃ、自律神経失調だよ、きっと)

 樹はひとり、不安の中にいた。


 そんな彼女にふたたび「あの声」が聞こえたのは、今朝のことだった。

 夜明け前に一度目覚めてしまい、そのままベッドの上でうとうとしていると、やさしい声が呼んでいるのに気づいた。目を開けたつもりだったのに、あたりは曇りの日の夜空のようにずっと先まで暗かった。声は、

「怪我はまだ、痛みますか」と尋ねた。


 間違いない。事件の最中に樹を励まし、救ってくれた声だ。言葉は日本語ではなかったかもしれないが、その時は意味と内容が理解できた。

 やっぱり声の主はいたんだ。樹は興奮気味に、「ご無事だったんですね」と食いついた。「それでやっぱり、安西先生が吸血鬼になったのは夢じゃなかったですよね」

 すると声は、「あなただけ先に建物を離れたので、魔物に心を眩まされなかったのです」と教えてくれた。

 しかし、そうなると別の苦味が樹の心に広がった。彼女は思い切って声に尋ねた。「あなたは砂漠に眠っていたお方ですか。あの時、わたしを助けてくれましたね。そのせいで、ひどい目に遭われたのではありませんか」

 自分がもっとうまく立ち振る舞っていれば、声の主だって副館長だって、大怪我を負わずに済んだのではないか。しかし、問いへの具体的な返事はなく、「気にするな」とでもいうような優しげな気配だけが伝わってきた。

「でも……」苦しむ彼女に、声はこう答えた。

「あなたは、身体以上に心がひどく傷ついている。さぞ怖かったことでしょう。しかし安心なさい。あなたとみんなを傷つけた魔物は、間もなく追い払われることになるでしょう」と言った。

「ほ、ほんとですか」樹が聞くと声は、

「ええ。ただしそれには、あなたがもう一度だけ勇気を奮い、あの日に何があったかを詳しく思い出す必要があります」と言った。「難しいですか」

「いえ、大丈夫です」

「よろしい。ならば、次にあなたを訪ねてくる人、はじめに会う知らない人に、あの日あったことをすべて話しなさい。ただ、それだけでいい。さすればあなたへの呪いは引き受けられ、無となります」

「えっ。し、知らない人に肩代わりしてもらうなんて、気の毒すぎる」

「そうではありません。引き受けるのは人ではなく、大いなるもの。けもののかみは誰よりも強く慈悲深いのだから」

 そう言うと、声は聞こえなくなった。

 気がつくと、窓の外の空に陽が登りはじめていた。


 

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