第9話
王の言葉が広場で皆に伝えられてから四十日、太陽の舟が出港するまで半分が過ぎた。王宮は沈黙を守り、十三家族が街から姿を消した。盛夏ながらに朝から続く濃い霧の中、北の神殿ではイクとバッツが祈りを捧げていた。
静寂に敬虔さを流し込むような時間。遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。
祈りから還ると、バッツは私を待っていた。
「バッツ、あなたはもう、どうするか決めているの?」
「俺は生贄になるよ。戦士だし、信徒だし、でもそれ以上にパレンケのために命を使いたいんだ」
パレンケのために。でも全員が死んだらパレンケは存在しないのと同じじゃないのかな。
「誰も残らないパレンケよ?」
「そうかも知れない。だけど、俺はそうじゃないと考えてる」
「どう言うこと?」
霧を肺に行き渡らせるようにバッツが深く吸い込む。
「俺は生き残る人が居ると思ってる」
「分からないわ。みんな死ぬのよ?」
「既に逃げた家族だってパレンケの命脈を繋ぐ人々になる。それと同じようなことを、逃げると言う形だけどね、する集団がもっと、もっと出て来ると思うんだ。彼らもパレンケの子だよ。太陽神様の怒りさえなくなれば、彼らは繁栄するんじゃないかな。その礎になるんだよ」
私の頭に血が凄まじい勢いで上ったのが分かる。
「バッツ、あなたはパレンケから逃げる人達のために生贄になると言うの!?」
「逃げる、と言えばそうだ。でも、生き残る、と言ってもそうだろう。でも誰のためになったとしても、信仰として死ぬのに変わりはないよ。あくまで結果として付いて来るだけだ」
「でも、訂正して。あなたが生贄になる一番の理由を、私に教えて」
バッツはふふ、と笑う。私が激昂したときに彼の柔らかな存在の仕方がそれを全て受け止めてしまう。戦士なのにどうしてこんなに柔らかいのだろう。私はどうしてすぐに穏やかに戻ってしまうのだろう。彼の前だけでは。
「信仰だよ。大丈夫、イク、君と一緒だよ」
私はふーっと息を吐く。彼に抱き寄せられているような気がする。
「バッツ、私、一つ告白したいことがあるの」
「何?」
「私、生贄になって死ぬのが怖い」
バッツはニコリと微笑む。
「怖くないよ。神様のところに行くのだから」
「神様のところに、行けるのかしら」
「大丈夫。そのための儀式だよ。俺も行く。君も行く。二人で一緒なら怖くはない、そうだろ?」
「もし神様のところに行けなかったら?」
「俺とずっと二人で居よう」
そもそも私達はずっと二人で生きる筈だった。結婚はもうすぐだった。バッツの子供を産む筈だった。生きる方の世界でそれが全て叶わなくなって、死後の世界で一緒に居ようだなんて、まるで心中のようだ。でも心中と違って私達の死には目的がある。それは私達には還元されない。さっきは取り乱したけど、神様のため以外に目的があると言うのは死の意味を強化してくれるのかも知れない。積極的に選び易くなるのかも知れない。
「バッツ。ずっと一緒に居よう」
「ああ、ずっと一緒だ」
私達は未婚だから触れることも出来ないけど、ぐっと側に居ると言うのが分かる。私は今バッツに抱き締められている。今が永遠に続けばいいのに。そうすれば生贄にもならないで、幸せに過ごせる。死にたくない。でもバッツと共に在るには生贄になる他に方法がない。バッツは決めた。私も決めよう。途端にイシュの顔が浮かぶ。
「イシュが迷っているみたいなの。覚悟を決めるか決めないかだけのことではないみたい」
バッツは少し考える。
「もしかしたら逃げることを考えているのかもね」
「信じられない! 絶対にうちからそんな人間は出さないわ」
バッツが首を振る。
「イシュ、信仰は押し付けるものじゃないよ。もしイシュが逃げたいなら、逃してやりなよ。それで苦しむのも、生きるのも、彼女の選択だよ」
逃げたら苦しむ。苦しみながら生きる。なるほど、生贄にならないのはあながち楽な方と言うことではないのかも知れない。いや違う。楽か苦しいかでイシュに何かをさせると言うことを判断したいのではない。信仰を守る一家の顔に泥を塗ることが許せないのだ。
「だとしても、私の家の面子が丸潰れになるわ。そんなの嫌」
「もし逃げたとしたら、悪いのはイシュだけで、イクやお父さんお母さんではないよ。それは誰でも分かることだよ。今の状態では逃げる人は出る。それは当然のことなんだ。それにもしプライドの問題があるのだとしても、みんな死ぬんだからそんなことはもう関係ないじゃないか」
「私達の教育の問題だと言われるわ。みんなが死ぬときにそう思われながらなんて嫌よ」
「十五歳だろ? もう親のせいの歳じゃないよ。他の誰かにどう思われるかじゃなくて、信仰なんだから、その本人がどれくらい出来るかで評価するべきじゃないか?」
「それは、そうね」
バッツは満足そうに頷く。
「だから大事なのはイク、君がどうか、と言うことだよ」
「バッツがそう言うなら、そうね。私が短絡的だったかも知れないわ」
バッツはニコリと笑う。
「俺達は俺達の信仰を、やろう」
「ありがとうバッツ。生贄の日まできっと一緒に生きましょう。もう結婚は無理だけど」
バッツは急に真剣な顔になる。神殿の前には二人の他には誰も居ない。
「いや、俺達の中では結婚と一緒だ。今俺がそう決めた。そして神様の前だ。誓おう、秘密だけど、二人の未来を」
バッツがイクの手を取る。それは純真を守るためには越えてはいけない線を越えたと言うこと。初めて触れたバッツの手はゴツゴツしていて、やっぱり戦士なんだなと思う。鼓動が一気に高鳴って、くらくらする。私はその手を両手で取って、自分の胸に当てる。
「ええ。誓うわ」
今の一瞬だけと、私はペラへを左から右に掛け替える。万能布のペラへを未婚女性は左肩に、既婚者は右肩に掛ける。だから、私は今結婚をしたのだと意思表示をした。バッツは口元を引き締めて、暫く私をじっと見て、そして優しく私に口付けた。
くっついている時間が永遠に続くかと思った。バッツの唇から魔法が注入されて、私は名実ともに彼のものになったのだ。これでもう、生きるのも一緒で、死ぬのも一緒。私は誓った。私達は誓った。
余韻の残る中、見詰め合っていた。
霧が徐々に薄れて来た。バッツが「そろそろやばい」と言うから、ペラへを元に戻した。本当は手を繋いで帰りたかったけど、いや、もっと大人の階段を一気に登りたかったけど、バッツも私も、今日はこれが限界だと思う。私達は一つにもうなっているから。もう大丈夫だから。
太陽がピカリと差し込んで来る。私達は太陽神様から隠れて結婚をしたのだろうか。それとも神殿の前だからむしろおおっぴらにやったのだろうか。信仰を軸とした考えも、今はどっちでもよくなる。私はバッツと行く。イシュは好きにすればいい。
私達は笑い合って、帰路を歩いた。
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