第5話

 家に入っても誰も何も言わない。

 毎日見ている家具がひどく遠いのにくっきりしている。バランスも何かおかしいような気がする。この家は本当に私の家なのか。眩暈に似た違和感。それでも、ここに家族四人が収まっているから、この場所で次を始めなくてはならないことは理解出来る。いつもの席にみんなが座る。半テンポ遅れて私も座る。でも、三人とも虚空を見詰めたまま口を開かない。三人の沈黙の圧力が私の口を閉ざさせる。

 座ったせいなのか、黙っている効能なのか、混乱の混乱的側面が治まって来た。一度収束に向かうと独楽が勢いを失うように二三弾けた後に静かになる。残ったのは相反する二つの選択肢だ。生贄になるか、ならないか。殉じて死ぬか、抗って生きるか。やっぱりまだ決められない。どちらかを行き来するのではなくその中央でみじろぎひとつ出来ない。

 どれだけ経っただろう。永遠のようで、一瞬のようで、つまり時間自体が曖昧になるくらいに考えることが詰まっている。私はそうだ。でも、三人はどうなのだろう。見てみても全然分からない。人の考えていることも感じていることも分からないんだ。だけど予測は出来る。三人とも生贄になるつもりだろう。私は。カン、私はどうすればいいの?

 お父さんが、蜜のように煮詰まった時間を引き剥がすように声を出す。

「イモシュ、イク、イシュ」

 言葉なく視線だけがお父さんに集中する。

「秋分まで生きて、生贄になろう」

 やはり。誰にも強制されることなく彼が育てた信仰心は従順になるのに十分なのだ。お父さんがそう自分を決めるのはいい。でも、なろう、って何だ。一人では怖くて出来ないのか。私達にも同等の信仰心を想定しているのか。それとも逆に、強制ではないことを表現しているのか。家族単位で行動する必要なんてないと思う。親が死ぬからと言って子供が道連れになるなんておかしい。私は私の人生を自分で決めたい。私は決められないでいるけど、だからと言ってお父さんに決めて欲しい訳じゃない。イシュの視線がきつくなったことに父親は全く応じずに、母親を見る。その眼は意志があるようでいて救いを求める者の怯えを含んでいる。

「私も、同じだよ」

 安堵した気配がお父さんからした。自分と一緒に死んでくれることの何が安心なんだ。でも夫婦と言うものはそうなのかも知れない。もし私がカンと夫婦になったなら、一緒に生きることを望むのと同じように一緒に死にたいと願うと思う。でもそれは自然な死の話だ。信仰があるからって、生贄になる自分をそんなに簡単に受け入れられるものなのか。家族だからこそ一緒に逃げて生きると言う道もあるんじゃないのか。でもその選択肢は二人の意思表明で消えた。

 皆がイクを見る。イク姉さんは弱々しくも微笑んで、自分は信仰の平和に辿り着いたのだと自ら言い聞かせているよう。

「私も同じ気持ちよ。イシュもそうでしょ?」

 イクの瞳はあまりに無垢で、惹き込まれそうになる。その引力に負ければ私は彼女に追従することになる。そう悟った途端に自分でも驚くような反発が生まれて、怒りとなって私を襲う。

「勝手に決めないで」

 怒号を理性で躾けて低く鋭く言う。ビクッと全身で反応するイク。お母さんが不審な顔をする。お父さんは、いつものお父さんの顔をしている。不思議だ。私は信仰に反発しているように見える筈なのに。

「私はまだ決められない。何でみんなすぐに結論を出せるの?」

 お母さんは静かなそれでいて貫通力のある視線を私に向ける。

「神様を信じていれば当然の行動だよ」

 イク姉さんが続ける。

「イシュ、分かるでしょ? 神様の怒りを治めることがどれだけ大切なことか」

「神様が笑ったとして、イク姉さんもお母さんもお父さんも死んじゃったら意味ない!」

 イクがたしなめる。

「イシュ、生贄になるのは神様のもとに行くことよ。みんなで行くならいいじゃない」

「それでも死んでしまったら、本当にそうなるかなんて分からないでしょ!?」

 イク姉さんの顔色がサッと変わる。昔からそうだ。イク姉さんは臨界点を超えるとまるで別の人になる。バッツさんにはそっちの姿を見せたのかな。きっと見せてない。

「あなたは神様を信じてないの? イシュ? まさかそうなの?」

 私はかぶりを振る。

「信じてない訳じゃない。だけど、神様を信じることは考えるのをやめることなの!? ねぇ、イク姉さん、そうなの!?」

 パン!

 家の中に乾いた音が通る。

 私は自分の頬がじんじんとし始めるまで自分が叩かれたと分からなかった。熱を持ち始めたその場所を押さえるのが敗北のような気がして、両の拳をギュッと握り締める。

「そんな訳ないわよ。私達が考えるときに支えて下さるのが神様よ」

「その神様が求めれば何でもするのが、考えてるってことになるの!?」

 パン!

 二発目は予測出来ていたから堪えて受け止めた。イク姉さんの手が頬の上にあるままで、彼女を睨み付ける。

「誰も何でもしちゃいないわ。もしそうなら誰も迷わないでしょう!?」

「私はその迷いこそが人間だと思う。でも神様の奴隷に一度なったら、迷うこと自体に迷う形に嵌め込まれてしまう。迷うことが神様にとって許されることなのか、って」

「それの何が悪いの。いずれにせよ答えを出しているのはその人よ」

「違うわ。最後には神様が怖くて結論を曲げるのよ。本当は生きたいのに死ぬのよ。言いなりになる方が楽だから、抗って死ぬより言いなりになって死ぬ方を選ぶのよ!」

 パンパン! パン!

「私は楽かどうかなんかで決めてない! 私だって生きたいわよ! もうすぐ結婚だったのよ!? でも、身も心もどっぷりと漬かった太陽神様の信仰から、抜け出せない。バッツも熱心な信徒よ。彼が預言をたがえるようなことをするなんてあり得ない。バッツは必ず生贄になるわ。私だけこの世界に残って何の意味があるの? ないでしょう? 信仰とバッツと両方を取るには、私も死ぬしかないの!」

 イク姉さんの覚悟が想像していたよりもずっと悲壮で、言葉が出なくなった。それでも、私は何も考えずに従うのはおかしいと思う。姉さんの考えは浅い。浅いけど彼女の人生を決めるのには十分なのだろう。それに、じゃあどうすれば深くなるのかなんて私には分からないし、私の考えが深いとも思えない。

「私は決めたわ。イシュ、あなたも決めなさい」

 それは死になさいとしか聞こえない。だから嘘でも首を縦に振りたくはない。

「私は決められない。まだ考えたい」

「イシュ!」

「じゃあ、そうしなさい」

 ずっと静観していたお父さんが急に入って来た。姉妹の喧嘩に入って来たのは初めてだ。

「イクもまだ八十日はあるからよく考えなさい。お前達がどんな答えを出そうとも、俺の娘であることには変わりない。ただ、俺は生贄になる。お母さんもそうだ。長く生きている分迷いがないときもあるんだ。信仰と生贄を議論していたが、信仰に従うなら生贄になる以外に道はない。俺達はそう言う選択をする」

 お父さんはどっちを求めているのだろう。やはり信仰に従って欲しいのか。それとも、別の道を選ぶことなのか。それともどちらかになって欲しいと言うのではなくて、私が自分で選択をすることを望んでいるのか。考えろとお父さんは言っているけど、考えた末にどう結論して欲しいと言うのを推測するのは意味があるのか。私はお父さんがそう望んでいるからと言う理由で自分の死を決められるとは思えない。お母さんが望んでいたとしても同じだし、イク姉さんならもっての他だ。私は決められる筈だ。でも私以外の全員がそうすると言う圧力は間違いなくある。私だけが家の中で異分子になったような。同じにしろと言う力が確かに働いている。それでも違っても許されるのだろうか。カンに聞きたい。カンに会いたい。ほっぺたが痛い。

 イク姉さんはそっぽを向いて家の外に出て行ってしまった。お父さんもお母さんも座ったまま。ぐちゃぐちゃした胸、出ない結論、でも家がさっきよりずっと家族の場所になっていた。

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