第4話

 パレンケの朝は早い。日の出と共に目を覚まし、男達は畑やジャングル、若しくは工房に向かう。女達は家事をこなし、次いで糸紡ぎや編み物をする。連綿と続く生活のリズムはパレンケの人々に刻み込まれている。それは興奮と不安の両極の感情に振り回されたイシュの場合も同じだった。

「おはよう」

 声に振り向いた母親はイシュの腫れぼったい瞼を見て手を止める。トウモロコシ粥のアトレは既に完成しているようで、鼻に優しい香りが届く。

「おはよう、イシュ。眠れなかったのかい?」

「昨日の赤い星。あの星のことが気になって」

 真実は胸の過半を満たすカンへの想いのせいだったが、母親には言えない。純真はもちろん守っているけど、幼馴染以上の関係になりそうだなんて知ったら、きっとあれこれ言うに決まっている。

「お父さんと見に行ったら確かに、あったよ。赤い星」

 お母さんは自分の口から出たものが畏れ多いものであるかのように、思い詰めた表情で祈り始める。あの赤い星を既に預言の星と信じているのだろう。その姿があまりに真剣で、私は突っ立って見ていた。

「何をしているんだ、イモシュ」

 お父さんが後から現れる。

「祈っているんです。赤い星がもたらすものを思うと、祈らなければ」

 お母さんは再び祈りの中に没入する。お父さんは少し考えて「そうだな」と言って一緒に祈り出した。私にはその意義も方向も分からない。だから私はそのまま二人を見ていた。

 静かな中にアトレの香りだけがあって、でもだからと言って何か喋ることも出来ずに私は、待つ。

「おはようございます!」

 敬虔な時間を外からの声が破る。家族の返事を待たずに家に入って来たのはイク姉さんの恋人、バッツさんだった。戦の正装で、入り次第気を付けをする。それを認めたお父さんは真剣な顔で、家族を背負うように彼の正面に出る。バッツのいで立ちと、訪問が早朝であることは、公的な緊急事態を否が応でも家族に悟らせる。イク姉さんが奥から出て来て家族の列に加わる。それを待っていたかのようにバッツはもう一度気を付けをし直す。家族の代表者たるお父さんが問う。

「如何されましたか」

 私的な関係が将来の娘婿であっても今は宮殿の使いだ、無礼は許されない。

「本日午後三時、宮殿の南の広場にて王より重要なお言葉があるので、集合されたし」

「了解いたしました」

「以上。失礼した」

 バッツさんは敬礼をしてお父さんの目を見て、そして一瞬イク姉さんを見てから去って行った。バッツの後ろ姿が完全に消えるまで誰も動かない、何も喋らない。来訪の余韻だけが家の入口に残っている。

「何の話かしら」

 イク姉さんは本当に気付いてないのだろうか、赤い星のことに決まっている。お母さんの頬にもお父さんの瞳にも、悲劇の予感が貼り付いている。お父さんが厳かにイク姉さんに告げる。それはお父さんの優しさだった。

「そのときになれば分かるだろう」


 半日を腰が座らないままで過ごす。こういう日に限ってカンと会う予定もないし、イク姉さんがもし本当に気付いてなかったらと思うと赤い星のことを話題にも出来ない。窮屈さに不安が出口なく閉じ込められたせいで暴れている。それでも糸はいつも通りに紡げるし、お腹は空くしで、人間ってのはよく出来ているなと思う。こころに完全には支配されないから、営みが途切れないのだろう。

 綿花畑からお父さんが帰って来て、彼の運ぶ土の香りと共に昼食を食べたら、広場へ行く時間になった。

「出発の準備はいいか」

 お父さんの号令は、闇を煮詰めたような重さがあった。

 南の広場までは十五分くらいだ。私達は何も喋らずに葬式のときよりも沈痛に歩く。

 広場にはもうかなりの人が集まっていた。暑い。人間がたくさん居るからなのか、むせるような匂いと湿度。大声で何かをまくし立てる老婆、落ち着かなくうろうろしている男性、何かに怒っている女性、そして私達家族のように黙りこくる人達。いつも見るパレンケの人々ではない。そしてあちこちから「赤い星」の単語が聞こえる。イク姉さんも流石に状況を理解したようだ、顔が青い。

「静粛に!」

 広場に響き渡る声、静けさの波紋が広がる。このどこかにカンも居る。隣に居なくても、一緒に聞いている。

「王のお言葉である」

 高い台に王がゆっくりと登られるのが見える。自分の心臓の音が耳を内側から打つ。人がこんなに居るのに音が何もなく、全員がこれから始まる王の言葉に全霊を集中させていることが、神聖さを通り越して、怖い。

「パレンケの民よ」

 私は固唾を飲み込む。

「東の空に赤い星が現れた」

 やっぱりこの話だ。イシュは目をギュッと瞑る。

「これは予言にある『東天の紅星』に間違いない」

 ため息が漏れるのを耐える気配が方々からする。

「人が滅ぶ程の太陽神の怒りのあらわれである」

 イシュはその先に待っている言葉に歯を食いしばる。

「怒りを治めるためにはパレンケを捧げなくてはならない」

 パレンケを? どういうこと? 予想していたのを遥かに超えた規模の話だ。

「次の秋分の日、この場所で、全員が生贄になる」

 全員? 私も? カンも?

「それには余も含まれる」

 王様が生贄になるの? そこまでしなくちゃいけないの? パレンケを捧げるってそういうことなの?

「太陽神に捧ぐ舟、『太陽の舟』に全員で乗るのだ」

 全員なんだ。やっぱりその気なんだ。カン……!

「パレンケに神の加護あれ」

 パカル三世王は台から降りられて行った。

 そこに居る全員が凍てついたように動かない。多分誰もが消化出来ていない。王の側近が何か大声で喋っている。

 つまり。私は生贄になる。カンも生贄になる。イク姉さんも、お母さんもお父さんも、パレンケのみんなが全員、太陽神様の怒りを治めるための供物になる。……嫌だ。私はカンと結婚するんだ。お母さんにもお父さんにもイク姉さんにも、みんなに祝福されるんだ。どうしよう。どうしよう。

 側近が何かを伝えている。だから何だ。私は生贄になるのか。どうあっても絶対ならなくてはならないのか。どうなんだ。嫌だ。私は生きたい。カンと生きたい。カン。会いたい。

 宮殿からの伝達事項が終わり、散会になる。後でお父さんに聞いたところによれば側近の話は、変わらずに生活すること、異論は受け付けないこと、収穫祭は行うが葬式以外の私的な宴は禁止すること、が主たる内容だったらしい。王の話に強烈に叩かれて、そんな細かいことなんか入って来ないかと思ったけど、変わらずに生活なんて誰も出来ないと言うことは思った。異論がダメなのはいつものことだ。ああそうか、結婚式が禁止されたんだ。イク姉さん。バッツさんは戦士だから破ることは出来ないだろう。そうでなくても目立ち過ぎる。この世にあかしを残せない。それは私も同じ。カン。カン。私達は共に死ぬの? 嫌だ。嫌だ。でも決まったことだ。どうしよう。分からない。

 帰り道は葬列そのものだった。他の誰でもない自分自身のだ。そして隣にいる大切な人のだ。もう喋ってもいい筈なのに誰も口を利かない。私の家族だけじゃない、どの集団も同じ。まるでたった今世界が終わったかのようだった。いや、生贄にされると言う宣言は、死の宣告であり、世界の終わりのカウントダウンに他ならない。こんな中で楽天的になれる訳がない。カンは。カンならどう考えるだろう。これを運命と簡単に受理はしないんじゃないか。カン。カンに会いたい。私はどうすればいいんだ。分からない。……どうすればいいんだ。

 こんなにパレンケの町は薄暗かったのか。嵐のような思考の隙間に、ふと見上げた景色は昨日までと同じ筈なのに既に廃墟の始まりに立っているように見える。進む先によってその姿が変わるなら私もみんなも同じように終末の陰影を孕んでいるに違いない。嫌だ。私は、終わりたくない。そんな滅びへの刻印なんて要らない。私は抗いたい。カンもきっとそう。私はでも、お父さんとお母さんの娘。イク姉さんの妹。一人だけ逃げることは出来ない。どうすればいいの。分からない。決められない。

 いずれそれでも、家には至り、イシュの中身は荒れ狂ったままに、玄関をくぐる。

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