第1章 紅星

第1話 

 紀元七百九十九年、ユカタン半島南端近くにパレンケと言う小国があった。マヤ文明の一翼を担うパレンケはパカル三世を王に、ときに他国との諍いはあるものの繁栄していた。夏至を少し過ぎたその日、町外れのトウモロコシ畑の脇でカンとイシュは夏の風と遊んでいた。

 カンが畑のトウモロコシを一本もいで皮を剥き、生のままでかぶり付く。シャリ、と言う音はまるで果実のよう。飛んだ果汁が太陽の熱い日差しに光る。

「カンったら、また生で食べて。タマルにした方が絶対に美味しいのに、どうして?」

「いや、美味いんだって。生には生のよさがある。イシュも女だからって荒っぽいことを避けてないで、素晴らしいと言われたものは試せばいいのに」

「それを言うなら、俺が素晴らしいと言ったものは、でしょ?」

 タマルとはトウモロコシ粉で作った蒸し団子のことで、主食であるトウモロコシの調理法の中でイシュが最も好み、そして得意な料理だ。だから、イシュはカンにもタマルを好きでいて欲しい。見ているに勢いよくカンはトウモロコシを芯にしてゆく。同い年の十五歳の肉体なのに、男女でこうも勢いに違いがあるものだろうか。それとも、カンが戦士の息子だから特別なのだろうか。イシュはしかし思考とは別にカンのことを美しいと思う。男の子をして美しいと言うのも妙だけど、無駄のない体躯、強烈な食欲、屈託のないこころ、そして勢い、どこから切り取ってみても、カンは美しい。自分の長所はと言えば信仰心が篤いことくらいしかない。どうしてそんなカンが自分と一緒に居るのか不思議なくらいに不釣り合い、いや、信仰心は全てを補う筈だから釣り合うのだけど、それにはそれの欺瞞があって、やっぱり不釣り合いだと思う。でもそんなこと訊けない。もし彼がずっと気付かないままで来た私との付き合いに、バランスの悪さがあると気付いてしまったら、途端に醒めて、私のことをもう見てくれなくなるかも知れない。それは嫌だ。絶対に嫌だ。

「イシュ、何考えてるの?」

 カンがそこに宇宙があるかのような黒く光ある瞳で覗き込んでくる。こころの奥までしっかりと覗かれるような気がして、私は目を逸らす。逸らした向こうには豊作のトウモロコシ畑と奥にはジャングル。クェーと鳥の声が聞こえる。

「どうして、カンって、そんなに勢いがあるの?」

 横目で見るカンはキョトンとしている。俺の勢いがある理由ねえ、と斜めを向いて考える。

「イシュの前だと一番自由だからかな」

「自由だから勢いが付くの?」

「そうだよ、どこまでも走っていい訳じゃん。別に節度を失っている訳じゃないよ。そうじゃなくて、こころが、自由なんだよ」

「だから私と居るの?」

 カンはもう一度、初めからやり直しのようにキョトンとする。なぞるように斜め上を向く。

「それは理由の一つではある。俺がイシュと居るのは俺がイシュと居たいからだよ。それじゃ変か?」

 自分の顔が熱くなるのが分かる。鼓動も早い。今までそんなこと一切言わなかったのに一体どうしちゃったんだよ。天変地異の前触れなんじゃないか。ほとんどそれってカンは私を好きって言っているよね。幼馴染みだからじゃないよね。もう、女性として見てるよね。十五歳だもんね、結婚考える歳だもんね。

「全然変じゃない。私も……」

「おう」

 イシュは生唾を飲み込む。世界がカンと自分とその音だけかと思うほど大きな音がした。渇いた口を開く。

「カンと居たい」

「よかった」

 こころから安心したように力を抜きながら、カンは笑う。今日初めての美しくないカンだ。

「よかったって?」

「いや、今更実は片思いだったらって思うとさ、ねえ?」

「それはプロポーズですか?」

「いや、プロポーズはちゃんとやるよ。正式に。でも、俺はイシュが大好きだ。それは今日伝えようと思ってた」

 もやっとする。胸の中に苦い綿花を詰められたみたいだ。

「カン」

「何」

「告白が周りくどい。さっきまでのときめきを返して。て言うか、カンって昔からそうよね。直前まではすっごくいい感じで来ていたものが、そのめなくちゃならないところだけ、ふにゃん、ってなる」

 カンが力強く首を左右に振る。また鳥が鳴いた。その声のタイミングが首の振りと一致していて、ほっぺたから鳴き声が出て来るみたいで笑いそうになる。

「それはイシュに対してだけだ」

「どうして?」

「好きってそう言うことだと思う。俺は他のところではいっちょ前の男だぜ」

「私の前でも男になってよ」

「だから、イシュの前では自由なんだよ。男だけど男でもない、ような」

「じゃあ、告白だけ、本気出して」

 私の言葉がすぐに浸透したのか、カンは私の正面に立って、私にも立てと促す。目が合うけど、やっぱりカンの方が背が高いから、見上げる形になる。

「イシュ、俺は、お前が好きだ」

「うん」

 私は大きく頷く。

「私も大好きだよ」

「以上」

「以上?」

 カンはもう次のトウモロコシをもぎに行っている。通算すればそろそろバレて怒られそうな量なのに堂々ともぎに行くからおかしい。以上、か。私達は好き合っているけどまだカップルではない、無論、プロポーズも結婚も先。でもさっきはそれはいずれすると言っていたから、もうカップルなのかな。でも、お付き合いの申し込みはされてないから、両思いの幼馴染みの範疇を出ないままか。でもそれでもカンは勇気を出してくれた。腰のない感じに途中なったけど、ちゃんと言ってくれた。だから今日はよしとしよう。

「カン、あのね」

 ちょっと遠くだから大声になる。自分のことが済んだらやっと人の話が出てくる。

「おう」

 手にトウモロコシをぶら下げながらカンが戻ってくる。

「お姉ちゃんがね、きっともうすぐ結婚するわ」

「本当? それはめでたいな。相手はバッツさん?」

「うん。誰が見ても分かるよね。ああ言うのをお似合いのカップルと言うのだと思う。二人は信仰心も同じくらい強いし、こころも同じように澄んでる。きっと幸せになる」

 カンが二本目のトウモロコシにかぶりつく。

「カン、バッツさんも戦士だよね、カンは戦士になれそう?」

「余裕。親父が戦士長ってことでだいぶ色眼鏡で見られるけど、それを含めても俺は余裕で戦士になる。見習いも後半年くらいだよ。そしたら一人前だ」

 私にはそれがプロポーズへのカウントダウンに聞こえる。あと半年。お姉ちゃんが結婚式をするのが三ヶ月後くらいだろうから、ラッシュだ。我が家の結婚ラッシュが目前に控えている。


 夕方、帰路に就く。

「なあ、イシュ、なんだあれ」

 カンが指差す方向、東の空を見ると、見たことのない赤い星が光っている。神殿で幼い頃から何度も聞いた預言が頭の中で閃光のようによみがえる。

「カン。最悪よ」

 自分の顔が青ざめているのが分かる。

「星が?」

「あれはキニチ教の預言に出てくる、太陽神の怒りによって見える星よ」

「何か起きるの?」

 私がこんなにショックを受けているのにカンは普通通りだ。それは頼もしくもあるけど、単に信仰心が足りないだけのようにも思う。

「何かとんでもないことが起きるわ。五年前の疫病の比じゃない筈」

「何か、か」

 カンは納得したような、興味を失ったような嘆息を漏らす。

「死ぬかも」

「そんなにやばいのか!?」

「分からない。でもそれくらいのものよ」

 私の前にカンが出てくる。守ろうとしてくれているのが分かる。

「俺の目を見ろ」

 私は言われた通りにする。カンの目を見る。

「俺はどんなことがあっても、イシュ、お前を見捨てることはしない。分かったか!」

 私はまた深く頷く。もうプロポーズしてくれてもいいと思う。

「分かった。信じる」

「絶対だぞ」

「絶対」

 別れてからも彼が私に打った言葉で胸がジンジンして、信者としてはそんなことよりずっと大事な赤い星の出現にこころ奪われなければならないことは分かっているのだけど、私はカンが好き。これからずっと未来にまで彼と居たい。早くプロポーズが欲しい。でも赤い星。二つのことで頭がいっぱいで、実質うわそらになって、家に着いたらイク姉さんに「あんたどうしたの!?」と顔を洗わさせられた。その時はまだ、赤い星がもたらす本当の恐怖を知らなかった。知らなかったから、何も始まっていなかったから、平和でいられた。多分、幸福でいられた。

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