第2話

 宮殿の廊下を慌ただしく走る音が石造りの壁に反響する。

「ケメ様! ケメ様!」

 自室で休んでいたケメは少し面倒臭い気持ちになってその呼び声を無視する。思えばその無視をしている間こそが最後の平安だった。

「ケメ様! 一大事です! 開けて下さい」

「アカバル。聞こえている。今そっちへ向かうから待ちなさい」

 弟子の慌て声に、どうせいつものように何とでもなるものだろう、と高を括って扉を開ける。

「どうした。何があった」

「東の空に赤い星が出ていると、何人もの民衆から訴えがありました」

 キニチ教すなわち偉大な太陽教の元締めは、司星官しせいかんであるケメであり、信者でも分かるその星の意味を失することなどあり得ない。しかし老練さは慌てるのに先立って事実確認をすることを身に付けさせている。

「アカバル、お前はもうその星を確認したのか?」

「いや、まだです」

「相変わらずそそっかしい。確認してから慌てろ。行くぞ」

 司星官なので当然星を観測する。宮殿には四階建ての塔がありその頂上で星を観る。マヤ文明においては星の観測と暦の作成は国家レベルで重要な仕事であり、天文学者の地位は高かった。ここパレンケに於いては百年強前にパレンケを大いに発展させたパカル一世が崩御した後に、当時の天文学者キエフがキニチ教を興し、自ら教祖となってパレンケ中に布教した。これは当時の彼等の道徳観を明文化したものに加えて、生贄文化を踏襲して、新たには神殿での礼拝を足しただけのようなものだったが、パレンケに世代を追う毎に広まり現在は定着している。そのときから天文学者は代々教祖を兼ねるようになり、司星官と名乗るようになった。ケメはその四代目である。

 石造りの道をゆっくりと歩く。慌てているときこそ、じっくり動くべきとケメは考えている。アカバルは落ち着かない様子でケメの脇で歩調を合わせている。

 ケメの首筋に汗が流れる。

 噂であって欲しい。もし本当に預言にある「東天とうてん紅星こうせい」だったとしたら……儂は死ぬことになるだろう。そして、もっと大きな悲劇を行わなくてはならなくなる。それはしたくない。よもや儂の世代で「東天の紅星」を疑う日が来るとは。

 ケメは自分の両手が震えていることに気付く。

 噂になる程と言うことはそこに星はあるのだ。何故なら教義を考えれば、冗談で口にしていいようなものではないことは明らかだからだ。儂は、確定させたなら、王に告げなくてはならない。凄惨な未来を。

 天文台に続く階段の下に着く。

「アカバル、先に行って観てみろ」

「了解しました」

 この階段の先に答えがある。キエフ様の遺した預言は七つだけだが、外れたことがない。五年前の疫病のときも預言の通りに「最も才覚のある若者」を生贄に捧げたら終息に向かった。疫病に罹ってもう働けなくなると思われた者たちも再び労働をすることが出来るようになった。この国は大禍のある度にキエフ様の預言に助けられている。だからその絶対性を誰も疑わない。預言にそうだ、と書かれていたら、そうするしかないのだ。

 ケメは階段をやはりゆっくり登ってゆく。手をかける石壁が冷たい。その冷たさが今起きていることが夢や幻ではなく現実だと言うことを突き付けてくる。まるで、絞首台に自分の足で向かうようだ。まだ確定はしていないと最初に言った自分を嗤う。

 人生でここまで登りたくない階段があっただろうか。キエフ様から下って、司星官は権力と権威を集めて来た。それは王も巻き込んでのものだ。だからこそ、星に出たことを曲げることは許されない。儂等は星と人を繋ぎ、太陽と人の間を媒介する機能に過ぎない。星を司ることは出来ない。仲介人には私心は必要とされないどころか禁忌ですらある。それこそが神聖さであり、それこそが権威を集める理由なのだ。だから決して、儂は観たものを偽らない。……例え儂が死ぬことになったとしても、だ。

 階段をケメが登り切る。見慣れた空とその下のジャングル。東の空を凝視しているであろうアカバルの背中。

「どうだアカバル、観えたか?」

「ケメ様。観えます。『東天の紅星』がはっきりと観えます」

 アカバルの声は震えながらも、伝えようとする力が込もっている。その声を聞いて急にケメは、この若者を自分の弟子にして本当によかったと思った。

「どれ」

 ケメの目は悪くなって来ていて、普段の星の観測はアカバルに目をやって貰わないと成立しなくなっている。その目で見ても、はっきりと赤い星が東の空に観えた。その赤い光がケメを貫いて、ああ、儂の人生はここまでなのか、それでも後はアカバルがやってくれるだろう、急な達観に襲われる。

「代替わりだな」

 ケメは小さく呟く。吐き出した言葉が自分の前から中々いなくならないので左手で虫にそうするように払う。

 東から風が吹いて来た。二人の髪が風に舞う。ケメは星を見たまま、そっと諭すようにアカバルに語りかける。

「アカバル、お前もこの星の意味は分かるな」

「はい」

 その声が余りに震えていたのでケメはアカバルの方を向く。

 ぎこちなく何度も肯首するアカバルの顔は汗でびっしょりになっている。本当にこの星の意味を分かっている証拠だ。そんな顔を見ていたら、自分が慌てる訳にもいかないと思ったせいなのか、それともずっと昔からこの日の覚悟は決まっていたのか、ケメは月夜の湖畔のような胸の内になり、落ち着いた声を出す。

「儂は死ななければならない。だがお前は生きろ。必ずその道を用意する。いいな」

 息を詰めて、胸を押さえ、涙するアカバルが首を痙攣させたかのように頷く。

「涙を拭け。パカル三世王に報告をしなければならん」

 二人は天文台を後にする。階段に入る直前、もう一度だけケメが紅星を睨み付けた。

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