第3話

 前を歩くケメ様の背中をここまで大きく感じたことはなかった。王の間へ向かう廊下を進むケメ様の足取りには一寸の迷いもない。ケメ様はもう覚悟が出来ていらっしゃる。俺はどうか。アカバルは暫し自分の胸に意識を集中する。受け入れることが出来るのか。さっきケメ様は俺に生きろと言った。俺だって生きられるなら生きたい。でも、キエフ様の預言の通りにするのなら、生きるなんて道はない。その道を用意するって、どうするんだ。全く分からない。

 少しずつ玉座のある間が近づいて来る。この石の廊下とももうあと少しの付き合いなのだ。俺には家族がない。ケメ様こそが俺の父親だ。だったらその言葉を信じよう。信じてみよう。……でも、これまで説いて来た教えを裏切ることは到底出来ない。紅星は既に民衆の目に映っている。あれは違う星でしたで済む話ではもうないのだ。悲劇はもう始まっている。俺はその濁流に足を取られている。これまでも有史以来ずっと繰り返して来た生贄、その夥しいむくろの数がそのまま、国難を切り拓くときに死を要求することからの逃れられない重さになっている。生贄は大切なものを捧げなくては意味がない。紅星を治めるために、ケメ様は何を捧げろと言うつもりなんだ。司星官だけがキエフ様から代々、口伝でその内容を伝えられている。俺はまだ知らない。

「ケメ殿、アカバル殿、王が到着された。入ってくれ」

 パカル三世王の側近のアフマクが扉を開けて呼びに来た。

 俺の方をケメ様が振り返る。弟子をやっていて一番厳しく、最も慈愛に満ちた目をしている。

「覚悟は出来ているか」

 俺の覚悟は、たった今、師の目を見て決まった。俺は司星官としての役目を全うする。命は二の次だ。そうでなくてはケメ様に貰った俺の人生が屑になってしまう。教義も民衆も王もたとえ裏切ることがあったとしても、ケメ様の信頼だけは裏切られない。

「聞くまでもなかったようだな」

 アフマクに先導されて、王の間に入ると、もう一人の側近のツィが中で待っていた。そして中央にはパカル三世王。お妃様はいない。

「ケメよ、早速報告を聞こう」

「はっ。キエフ様の預言にある『東天の紅星』が出現致しました」

 ケメの言葉を受けて、パカル三世は唸る。その唸りは落胆と葛藤と悲しみを混ぜ込んだ音色おんしょくをしていて、アカバルはこれから決定されてゆくことが苦渋と悲壮に満ちたものになる予感に唇を噛み締める。

 パカル三世は首を軽く振ってから言葉を発する。

「最大の凶兆、に間違いないな」

「はい。太陽神の怒りが溢れていることを示しています。陽が落ちてからも隠れることを知らない怒りが紅星となり顕れるとあります。そのままにすればこの世界は終焉を迎えるでしょう」

「それを治めるにはどうすれば良い」

 ケメは言葉に詰まる。しかしその後に腹の底から響く地鳴りのような、彼の命そのもののような声で、方法を述べる。

「最大の供物を捧げる必要があります」

「人数か」

 ケメは首をゆっくりと左右に振る。

「それだけに留まりません」

「貴人を要求するか」

 ケメは再び首を振る。

「それだけに、留まりません」

「では何を!」

 パカル三世の声が部屋に響き渡る。その顔には不安と苛立ちが浮かんでいる。

「伝えには、国を供物として捧げよ、とあります」

 王の眉間に皺が寄る。国を、と呟く。あり得ぬ、と小声で言う。

「パレンケそのものをか!?」

 雷鳴のように轟くその声はケメに向けられており、まるで彼に雷撃が落ちたかのようだ。アカバルはそれを見ていただけなのに、自分の命が吹き飛ばされるような衝撃に襲われ、パカル三世の声が消えた後に自分の身がまだあることを確認する。

 ケメも残響が消えるのを待つかのように黙って、黙って、そして身を少し乗り出す。

「その通りです」

「パカル大王が大きく発展させ、パラム二世、チタム二世がそれを継ぎ栄華の中にあるこのパレンケ、それを手放せと言うのか」

「遺憾ながら」

 すぐに切り返すケメの言葉には短いながらに迫力がある。パカル三世から次に発せられる予定だった怒号が、飲み込まれる。パカル三世は徳のある王だ。伝説の王達のようにパレンケを発展はさせないが、他国との諍いを上手く処理し、パレンケの民を守って来た。それは何よりも彼の思慮深さから来る選択だった。彼がどう言う人物であるかがすぐに変化することはない。今、彼は事態にアレルギー反応を示したところから、次第に、それをどう扱うかと言うモードにシフトしていっているのだと思う。元の彼に、徳のある彼に、戻って来ているのだろう。

「それが太陽神の怒りを治める道か」

 パカル三世の声は平坦さを取り戻していたが、平穏までは至っていない。

「唯一の道であります」

「三千人弱の国民全てがパレンケから居なくなる。アフマク、それは可能か?」

「他の場所に移住するのであれば、可能と存じます」

 都市を捨てて移住する。気候や河川の問題や戦争、疫病、そう言うものなしにそれを行うことは通常はあり得ない。なのに、ここに居る誰もがそれを真剣に考えている。間違いなくキエフ様の始めた宗教が強烈な権威を持っている証拠だ。その使役者として俺もケメ様も居る。ケメ様の言葉はキエフ様の言葉で、太陽神の言葉なのだ。宗教の権威が王の権威を上回っている。だがそれは当然と言えば当然だ。王はキニチ教の守護者だし、信者ですらあるのだから。

 パカル三世は小さく三度頷いて暫く固まり、また唸る。だから分かっていて敢えてケメ様に訊いたのだ。

「パレンケの全員で移住すればよいか」

 ケメも想定されている答えを返すしかないが、その言葉がギロチンの刃の重さをしているからか、ケメは重苦しく返答する。

「生贄だけは残らなくてはならないでしょう」

「ケメ!」

 もしかしたらパカル三世王はケメが違う答えを言うことを少し期待していたのかも知れない。絶望の中にほんの僅かに色付く光、希望を望んでいたのかも知れない。しかしそれは、叶わない。叶わなかったことが分かった途端に、それはそうかと納得してしまうような、見返せば小さいちいさい、希みだった。

 再び響き渡ったパカル三世の声に、だがケメは一切動じなかった。

「はい」

「一体どれだけの生贄を用意しろと言うのだ」

「貴人は四名も居れば十分でしょう。それ以外は先例のないことなので」

 ケメは殆ど間を開けずに言った。それはまるでそこの答えだけは最初から決まっていたかのように。

「四名」

「はい」

「その四名は余が選ぶ。それで良いな」

 ケメが切り返す。

「私を生贄に含め、アカバルをそこから除いて下されば、後は私からはありません」

 ふん、とパカル三世が鼻で笑う。師匠が言っていた生き残る道と言うのはこれだったのだ。俺を移住の方に組み込む、そう言うことだ。でも王の仕草はどう取ればいい? まるでその願いは通らないと言わんばかりだ。

「ケメ。お前も身内は可愛いか」

「その通りでございます」

「ならばその大切な者をこそ生贄とするべきではないのか」

「貴人の場合はその立場で価値が決まります。私は司星官、アカバルはその弟子です。価値の差は明々瞭々です。庶民における大切さとは基準が異なります」

 俺の錯覚だと思う。パカル三世王とケメ様の鼻柱が直接ぶつかって、火花を散らしているように見えた。沈黙の睨み合いが続く。このままでは俺は生贄になってしまう。若い者が子供が大切なのは間違いない。持っている未来の量が全然違う。子孫の繁栄の可能性も強い。だけどやっていることの尊さから言ったら、俺よりもケメ様の方がずっと尊いと思う。客観的に見てそうなんだ。決してケメ様に死んで欲しいと思っている訳ではない。

 ふん、ともう一度パカル三世が鼻を鳴らす。

「お前の言う通りだ。余も生贄となろう。エ王妃にも悪いが付き合って貰おう。後は、アフマク、お前もこっちだ」

「承知しました」

 アフマクは恐れる素振りを一切見せず、畏った。多分、予測していたのだろう。そしてそれが王の一番の側近であることの証明でもある。ツィと差を付けた。いや、むしろアフマクとツィの関係はケメ様と俺のような関係なのかも知れない。それにしても簡単に決まり過ぎる。王は自分の命は惜しくはないのか。

「ケメ。一般の生贄の人数はどれ程が妥当か」

「多ければ多いほどよろしいかと」

 パカル三世王は今日初めてニヤリと笑う。何故笑う? 理解が出来ない。

「そう言うと思ったわ。そして実際に多くの民を生贄にすることになろう。……余は民のみを生贄にし、この国を捨てどこかに移住することなど出来ん。だからこそ余も生贄になろうと言ったのだ」

「深慮に感謝いたします」

 ケメが深く頭を下げる。王はとっくに覚悟が出来ていたのだ。それはそうだ。ケメ様に問うまでもなく彼も信者であり預言の内容を知っている。人柄と立場を考えれば王がその決断を下すのは容易に想像出来る。

「具体的な数を決めたい」

 まるで石棺の中での問答だ。一つひとつの言葉が命を削る。

「民に自主的に選ばせると言うのはいかがでしょうか」

「生贄になるか、移住するか、それをか。どう思う、アフマク」

「民に選ばせるのは危険です」

「どう危険なのだ」

 アフマクは半歩前に進み出る。四角い顔の細い目がキラリと光る。

「その選択肢を渡せば、殆どの民が命惜しさに逃げ出すでしょう。一部の信仰心の強い者と、それぞれのコミュニティーからまさに生贄として出される者しか残らないと言う結果になるでしょう。生贄になる者が居なくなれば神の怒りも治りません。」

「ではどうする?」

 アフマクの目が再び光る。

「ここは、逃す民を……いや、生贄にする民を王が選ぶと言うのは如何でしょうか。それならば公平であり強制力もあります」

 パカル三世王は頷く。確かに妥当な案のように思う。恨みは王が一身に受けることになるが。

「ツィはどう思う?」

 待っていましたとばかりにツィは一歩前に出る。サンダルの擦れる音。丸い顔からエネルギーが溢れている。

「滅ぶことをやめればいいのにと思います」

「紅星が出ているのだぞ」

 ツィは退かない。

「その後にいかなる災厄が降り注いだとして、全ての人間が死に絶えるでしょうか。自ら滅ばなければ、生き残る道もあると言うもの」

「分かった。ツィ。お前の意見は分かった」

 ツィは言葉も勢いもグッと胸に納める。確かにツィの言っていることは正論だが、事態は既にそのようなところは過ぎてしまったところで回転しているのだ。

 固唾を飲んで王の次の言葉を皆が待つ。

「こうしよう」

 王への集中が高まる。

「余はパレンケの滅びを受け入れようと思う。そして、移住する者を選定して部隊を組む。移住者以外は全員が生贄になる。生贄になる者を、『太陽の舟に乗る者』と言おう。太陽神に向かうからだ。これは名誉なことであり、その死が次代を守る。余は名誉ある彼らを選ぶと言うことをしたくない。移住者の方を『月の舟』と呼ぼう。ツィには月の舟に参加して貰う」

 ツィが反射神経よく声を上げる。

「王よ、お言葉ですが私は自分の身が可愛くて先程の弁、申し上げた訳ではありません」

「違うのだツィよ。お前のような新しい考え方こそ次世代に渡さなくてはならないものなのだ。同じようにアカバルも月の舟に乗ってもらおう」

 俺だ。死ななくて済む。新しい街を作るのは大変かも知れないけど、生きていける。魂が抜けたのではないかと思う程、力が抜けた。そしてその後に震えが来る。震えが生きている証拠のように思える。この後も生きていける証明のように思える。

 王は続ける。

「月の舟に乗る者は今夜中に選べ。技能、性別などを考慮して、アフマクとツィ、あと戦士長のアフプにも選定には加わって貰おう。家族は分断するな。……どれぐらいの人数が妥当か、そこも考察して案を出せ」

 はっ、と返事をするツィ。アフマクが、僭越ながら、と声をかける。

「それは公にやるのですか? 私は当日まで秘密にした方が良いと考えますが」

「それは何故だ?」

「混乱を生みます。生贄を捧げる日……ケメ、それはいつだ」

 アフマクの眼光は今日一番鋭い。

「次の秋分です」

「夏至を越えたばかりの今日です、まだ八十日程あります。その日までいろいろなことが起きるでしょう。その中で月の舟に乗ると分かっている者が居たら、間違いなく迫害されます。なので、月の舟に乗る者自身も含めて秘密裏に行うべきです」

 なるほど、とパカル三世は頷く。

「ツィはどう思う?」

「滅ぶ決定を前提にするのならば、流れる血は少ない方がいいと思います。やはり、秘密のままで当日、せめて前日に知らせるのが良いでしょう」

 ツィはまだ滅ばない道がありそっちの方がいいと考えている。それを主張しながらも切り替えて、王の求める質問に答えるのは流石側近だと思う。ケメ様も頷いているし、俺もそれでいいと思う。パカル三世王が再び頷く。

「分かった。そうしよう。……王子夫妻は月の舟に乗せてやって欲しい」

 その言葉にアフマクが深々と頭を下げる。

「了解しました。そのように手配致します」

 ツィが次いで発言する。

「王よ、紅星は全ての民の目撃する所となっています。何か説明をしなくてはならないのではないのでしょうか」

 パカル三世王はとっても穏やかに、微笑んでから、顔を締め付けるように険しい顔をしたかと思うと、覚悟が決まっているのであろう、鋭い顔付きになった。

「紅星が太陽神の怒りであり、災厄を回避するには生贄を次の秋分に捧げなくてはならないこと。それがこのパレンケそのものでもあり、全ての民が生贄の対象であること。『月の舟』を除く全ての情報を包み隠さず下知する」

 ツィが反論する。

「しかし、それでは民衆が逃げるのではありませんか?」

「逃げる民衆に関しては、必ず見逃せ」

 パカル三世の言葉の意味が予測の範囲を大きく外れていたためだろう、一同黙る。それを破るようにツィが訊き返す。

「今、何と」

 パカル三世は一度目を瞑り、深く息を吐き出してから、ずっとゆっくりな調子でもう一度告げる。

「必ず見逃すのだ」

 今度はその真意が見えて来た。生贄を望まない民は、それを明示する訳でも推奨する訳でもないが、逃げてもいい。その先の責任は取れないが、この国の中でそれを妨害することはしない。生きる可能性に賭けることをせめて邪魔しない。そうしろと、王は言っている。

 一人ずつ、王の真意に到達した者から深く畏まる。王以外の四人全員が彼の真意に至るのを見届けるように王は待ち、全員が到達したと判断したのだろう、会の終了を宣言した。俺はこの王の元で働いていてよかった。いや、誇らしく思う。ケメ様の弟子で、パカル三世王の臣下で、俺は恵まれている。散会に従って帰路に就きながら思うのはそんなことだった。八十日後の悲劇と脱走劇のことはどこかお伽話のようで、俺は今日触れた男達の余韻にばかり深く浸っていた。

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