旅のきっかけ -2-
【下呂温泉】の老舗旅館で若女将をやっている
数年前までは都会の大学で経営学を学んでいたらしい。私たちとそれほど歳が離れていないにも関わらず、さばさばと働く大人のお姉さんだった。細くすらりとした体に白くつややかな着物をまとい、日本人らしい黒く長い髪を結い上げたかっこいい佇まい。
せっかくなので、私も一緒に旅館で働いてみることにした。というか、なった。
ことの発端は、旅館に到着するなり発生したトラブルである。
昨日旅館を利用した海外のお客さんが大事な荷物を旅館に忘れてしまったそうだ。しかももうじき、愛知県にある【中部国際空港】から海外に飛行機でフライトしてしまうとのこと。
普通のホテルや旅館なら、お客様の自己責任として仕方がないと話を終わらせるところ。しかし一流を誇る温泉旅館は、絶対に荷物を届けると約束したそうだ。だが、繁忙期ですぐに動ける人がほとんどおらず、タクシーなどを利用しようにも【中部国際空港】まではかなりの距離がある上、相応の時間もかかる。
そこに颯爽と現れたプリウスを運転する渉瑠センパイは、白馬に乗った王子様に見えたそうだ。黒い車だけど。
私たちが車を降りて現れるなり、渉瑠センパイは体当たりするように紙袋で丁寧に梱包された小包を押しつけられた。届け先を聞いた渉瑠センパイは、目を剥いて口を歪めた。口の中に未知の虫料理を詰め込まれたような顔だった。
「ちゅ、【中部国際空港】って、あの愛知の? あの【セントレア】?」
普段は冷静淡々としている渉瑠センパイが、目に見えて動揺していた。
ちなみに【セントレア】とは、【中部国際空港】の愛称らしい。
「三時間以内にお願い」
「さ、三時間て……ここどこだと思ってるの?」
「下呂に決まってるでしょう。なに馬鹿なこと言ってるのよ」
もしかしたら、この人は総理大臣が相手でも同じ態度で接するんじゃないかと思うくらい、男勝りに不遜にも言い放つ千波さん。ものの二言三言で言い返す気力を奪われた渉瑠センパイは、げんなりと闇を背負いながら小包に視線を落した。
「あー、はいはい、これも旅の楽しみですよ……」
渉瑠センパイ、いくらなんでもその考えは無理があると思います。
現実逃避モードに移行した渉瑠センパイは、私の背中を千波さんの方に押しやった。
「じゃあ、こいつ代わりに預かって。今回はこいつと俺で二部屋借りたいからよろしく」
千波さんの宝石のように黒く大きな瞳が、じろりとこちらに向けられる。
「それは構わないけど、こちらの渉瑠にはもったいないかわいい女の子は?」
「ほっといてくれよ……。一応俺の彼女。この旅館で最高級のおもてなしをお願いします」
親類ということもあり、渉瑠センパイと千波さんは親しげに会話をしている。
「え、渉瑠センパイ、私も一緒に行きますよ」
じろじろと槍のように突き刺さる千波さんの視線に、頬が引きつるのを感じる。
こ、ここに私一人残していくのは、正直勘弁してほしいのだけれど……。
渉瑠センパイは少しの間考えたが、それでも首を横に振った。
「【中部国際空港】まで片道三時間とか、高速道路使って相当急がないと間に合わない。俺一人で行くよ」
言いながら、渉瑠センパイは肩をぽんと叩いて笑う。
「それにお前、最近疲れがたまってるだろ? 最近走り通しだったし。ここの旅館、飯もうまいし温泉もすごくいいんだ。先にゆっくりくつろいでくれ。俺も早く帰ってくるから」
「……むぅ、渉瑠センパイがそう言うならそうさせてもらいます」
時間がない渉瑠センパイをこれ以上引き留めてしまうのは申し訳ない。
大体、私が着いていったところで文鎮程度の役にすら立たないのだ。どこか見に行くということもないだろうし、私が行きたい〈まほろば〉は間違いなく空港ではない。【中部国際空港】自体にも興味はあるが、それは私のわがままでしかない。
私と渉瑠センパイのやりとりを見ていた千波さんは、へぇとなにか意味ありげな笑いを漏らしていた。
「……なに?」
「いや、なんでもないわよ」
そう返しながらも、千波さんは百年に一度の珍獣でも見たような笑みを崩すことはなかった。
トランクから私や渉瑠センパイの荷物を下ろす。ついでに衣服も洗濯するらしい。道中あちこちで洗濯をしていても、こうしてしっかり足を止めて洗濯できる機会は貴重だ。
「じゃあ、よろしくねー」
本当に渡した小包は大事なものなのか疑問に思うほど軽い調子で手を振りながら、千波さんは渉瑠センパイを送り出した。
一息吐くと、千波さんは私に向き直った。
「えーと、私は高山千波。あなたのお名前は?」
「すいませんすいません。私は、花守晴礼っていいます」
「晴礼ちゃんね。ごめんねー、あなたの王子様をうちの白馬の王子様にして」
いえいえと返すこともできずに、私は曖昧な笑みを浮かべてしまう。世界にどれだけパシリにされる白馬の王子様がいるだろうか。渉瑠センパイ、どんまいです。
「お部屋はすぐに用意させるから、もうちょっと待ってもらえる? 仲居が三人も病欠で人手が足りないの。忘れ物の件がなかったら、渉瑠を使ったんだけど」
この繁忙期に三人も欠員が出てしまうのは、旅館側としては相当な痛手だろう。かといって、お客様と接するがお仕事の大部分を占める仲居さんにとって、体調を崩したまま接するということが許されるわけはない。
そして今回、結局どうあっても渉瑠センパイは働く運命にあったようだ。かわいそう。
少しの逡巡のあと、私はぽんと手を合わせた。
「あ、あのあのっ」
お仕事に戻ろうとしていた千波さんが、足を止めて振り返る。
「渉瑠センパイの代わり、になるのかわかりませんが、お仕事、私がお手伝いをできますか?」
言ってしまったあと、アルバイト程度の仕事しかしたことのない私に、有名老舗旅館の仕事が勤まるのかと、今更な疑問が沸いてしまった。が、時は既にずいぶん遅し。
千波さんは目を丸くし、瞳に小さじ程度の迷いが生じたようだが、すぐに黒真珠のような瞳がきらりと光った。
フロントの奥の部屋に連れていかれ、着ていた私服をぽーんと脱ぎ捨てられた。そしてどこからともなく持ち出された仲居さん用の着物に衣装チェンジ。あまりにも似合わない着物姿に、がっかり感と妙な感動を覚えている自分がいた。
かくして、千波さんに腕を引かれ、私は温泉旅館という戦場に送り出された。
目が回った。台風の日の外に忘れ去れた風車のごとく、ぐるんぐるんと回り始める。
千波さんは、仕事がわからない私にマシンガンのように指示を飛ばした。覚えていなければわからない仕事は割り当てられず、誰でもできる仕事だけを的確に指示してもらった。言われたことを言われただけ、馬車馬のごとくこなした。
なんとかチェックイン一時間前までにすべての準備を終え、一息吐くことができた。
来客用らしくお部屋に通され、私はぐったりと倒れ込んだ。マシュマロのように柔らかな和風ソファにぐったりと座り込む。体がソファと一体になるのではないかというくらい、ずいーっと沈み込む感触が心地よい。
コトリと、目の前の磨き上げられた机に、なみなみとお茶が注がれた透明なグラスが置かれる。
「お疲れ様。いやー、助かったわ。絶対に間に合わないと思ってたのに、こんなに早く片付いた」
「ぜ、全然お役に立てていなかったと思いますけど……」
千波さんは楽しそうに笑って手を振った。
「そんなことないわよ。晴礼ちゃん、家でも家事のお手伝いとかやってるでしょ? 作業の手際見てればわかるわよ。最近の子は、男の子でも女の子でも、家事をやったことがない人って一目でわかるのよね」
その質問に、私は小さく笑みを換え板。
「私のお母さん、私が小さいころに亡くなってまして、お父さんも、えっと、ずっと入院してるので、私生活の家事は全部自分でやってたんです」
途端、千波さんは申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「そうだったの。ごめんなさいね」
「いえ、大丈夫です」
みんなこの話をすると必ず謝る。逆の立場なら、きっと私も同じことをするだろう。けど、当事者の私からすればそれが当たり前の日常だ。今更、気にすることでもない。
一言断りを入れて目の前のグラスを手に取り、ちびちびと口をつける。お茶の味なんて高尚なもの、私にはわからない。だけどこれは、高いお茶だ。私がこれまで飲んできた中で、一番高いお茶。私の貧相な語彙力では到底表現できないくらい、おいしいお茶だった。
「さっき、渉瑠から連絡があったわよ。荷物は問題なくお客様に渡せたって。もうこっちに向かってるみたい。すぐに帰ってくるわよ」
さすが渉瑠センパイだ。仕事が早い。
「まあ、それは置いておくとして……」
言って、美人若女将は顔ににやりと意地の悪そうな笑みを貼り付けて、前のめりに私の顔をのぞき込んだ。
「それで、晴礼ちゃんと渉瑠は恋人同士なのよね。どこまでいってるの?」
口に含んでいたお茶が噴水のように吐き出される。
「どっ、どこまでとはその! どこまでも、いっているというか、いないというか……っ」
うまく言葉を出すことができず、口をぱくぱくとさせて視線をあちらこちらに逃がす。
先日、渚ちゃんにも同じようなことを聞かれた。そこから進展などない。いやいや、あるわけもない。というか、渉瑠センパイの周りはなぜか渉瑠センパイをからかう人が多すぎる気がする。き、気持ちはわからないでもないけど。
なんと返せばいいかわからず混乱して慌てふためく私を見た千波さんは、おなかを抱えて笑っていた。
「あはははは! いやぁごめんごめん。これは意地の悪いからかい方だったわね。久しぶりに笑ってる渉瑠を見たから、その恋人がどんな子なのかと思って、ついからかっちゃった」
溶岩のように火照った顔の熱が、徐々に引いていく。
「千波さんは、渉瑠センパイの遠縁になるんですよね?」
「ええ、そうよ。渉瑠センパイのお父さんの方のね。渉瑠のお父さんは昔から旅行好きでね。付き合いは、たまに親戚で集まるときに会うくらいだったんだけど、昔は一緒に遊んだりもしてたかな。私、渉瑠のお父さんには本当にお世話になっててね」
「渉瑠センパイのお父さん、ですか?」
「私ね、昔から旅館で、今みたいに働くことが夢だったの。でも、私の両親は公務員になれって、大反対でね。お前が旅館でなんて働けるわけないって。大学生のころ、ほとんど勢いで家を飛び出しちゃったのよね」
それはまた、なんというかアグレッシブな。
表情には出ていなかったと思いたいが、千波さんは少し恥ずかしそうに笑った。
「まあ、そのときね、話を人づてに聞いた渉瑠のお父さんが、ここの旅館を紹介してくれたの。住み込みで条件もよくて、でもとびっきりハードな仕事だけど、ここなら君の両親も当面様子を見てくれるって、うちの親の説得までしてくれさ。それで私は大学を卒業して、ここでずっと、お世話になってる。それもこれも、全部渉瑠のお父さんのおかげなのよ」
「あははは、なんか、やっぱり渉瑠センパイのお父さんって感じです。優しくて、面倒見がよくて、困っている人をほっとけないところとか」
「そうね。よく似てる親子よね。だからあなたも、そうなんでしょう?」
「……え」
真っ直ぐ向けられた視線に、胸がどくりと脈打った。
千波さんは、くすりと笑みをこぼす。
「そういうところが、好きなんでしょって、言ってるの」
「……あ、ああ、はい、そうですね」
少ししどろもどろになりながらも、内心そっと胸を撫で下ろす。
まさか、また私と渉瑠センパイの歪な関係を見抜かれてしまったかと思った。どうやら杞憂のようだ。杞憂だと、思いたい。
千波さんは、視線を私たちの横にある大窓の外へと向けた。窓の外には、下呂の温泉街の間を抜ける、飛騨川の清流が見える。
「渉瑠もね、前はあなたと話しているときみたいに、もっとよく笑うやつだったの。でもここ最近はずっと、つまらなさそうに仏頂面ばっかりしてたから。あなたと普通の男の子みたいに話しているの見たら、ちょっと嬉しくなっちゃった」
弟を思うような優しげな憂いを帯びた視線に、私の胸の中はざわついた。
まただ。
渉瑠センパイのことを知る人は、渉瑠センパイのことを話すとどうしても悲しげな表情を見せる。なにかあることは、渚ちゃんからも聞いて知っている。しかし、あれから一週間以上たった今でも、まだ渉瑠センパイにその問を向けることはできないでいる。
瞬きをするような短い時間のあと、千波さんは穏やかな笑みを浮かべた。
「あんなやつだけど、これからも仲良くやってくれると嬉しいわ。馬鹿で甲斐性なしだけど、ほっとくとどこに行くかわからないからね」
「……はい、私で、お力になれるのであれば」
千波さんは満足げに頷くと、自分の前に置いていたお茶を一気に飲み干した。
「今日もいつもみたいに旅をしてるんでしょう? どこに行ってきたの?」
「えっ? えっとえっと、そうですね。どこと言われると少し困るのですけど。旅に出て、きょ、今日で二十日ちょっとくらいになりますので……」
何気なく出してしまったその言葉に、千波さんは目を剥いた。
「ええっ!? そんなに長く一緒に旅しているの!? ああ、夏休みだから? いやいやそれでも、高校生がそんなに長い間一緒に旅して大丈夫なの?」
大丈夫かどうかと聞かれたら、きっと大丈夫ではない。そもそも付き合っているという関係さえ、旅をする目的のための建前でしかないのだから。
それを冗談でも口にしようものなら、どうなることやら。
「だ、大丈夫じゃないですか? なにか、その、間違いを起こしているわけじゃないですし」
「いや、別に付き合っているなら間違い……ていうかそういうことがあるのは別に不思議ではないのだけれど……」
普通はどう考えてもアウトであるのは明らか。
高校の先生や友だちたちに知られてしまえば、どんな騒ぎになることか。想像もしたくない。
だが、千波さんの反応は、普通の人とは少々違っていた。
「……ふっふっふ、ひっひっひ」
これから、国家転覆規模の犯罪を実行するのではないかと思うほど、悪い笑みを浮かべていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます