旅のきっかけ -1-

 あの日のことは、今でも克明に思い出すことができる。


 いつも通り、二人揃ってバイトを上がり、疲れた体を引きずりながら帰路についていたときのこと。


 夢が、目前まで迫っていた。


 俺たちにとって長年待ち望んだ、しかし普通の人でも当たり前に手にすることができるたわいもない夢だ。

 でも、その日を待ち望んだ。

 ただひたすらに願い、待っていた。

 未来のことばかり、話していた。

 これから、あと少し先。

 未来のことをずっと話していられた。


 あのときまでは。


 突然、あいつは俺の手を取った。


 どうした、なんて疑問を持つよりも早く、腕の骨がきしむほどの力で体を引っ張られた。

 最後の、あいつの顔は見ることができなかった。


 瞬間、体がなにかに押しつぶされるようなすさまじい衝撃に、視界が明滅した。


 気がついたときには、目線がアスファルトの上だった。

 視界の半分が、真っ赤に染まっていた。


 少し離れた場所に、あいつが倒れていた。


 そして世界は、暗転した。


    Θ    Θ    Θ


 進み行く世界から取り残されてしまったのでないかと、疑いたくなるような閑散とした山道を、プリウスでゆったりと走っていく。


 先ほどまで、助手席で冬眠中のツキノワグマのごとく気持ちよさそうに寝息を立てていた晴礼が目を覚ました。少しだけ斜めに倒していた助手席を戻しつつ、重たいまぶたをごしごしと擦る。


 まだ半分夢心地なのか、とろけた両目を道中に掲げられていた看板へと向けた。


「……【下呂温泉げろおんせん】、ですか?」


「そうだ。群馬県の草津温泉くさつおんせん、兵庫県の有馬温泉ありまおんせんと並んで日本三名泉に数えられる、長野県下呂市にある温泉だよ」


 人が集まる街とは人が行き交う交通の要所や、海や川といった生活に必要不可欠な水の近くに多く繁栄してきた。そんな歴史の中でも、【下呂温泉】という場所は飛騨川の川原に噴出した温泉を元に繁栄した温泉街である。


「日帰り温泉とか銭湯は何度も行きましたけど、ここまで有名どころの温泉って初めてですね」


「長期の旅に行くときは、何回かはきちんとした旅館とかホテルに泊まることにしてるんだ。じゃないと俺の旅、ノンストップになるからな」


「たしかに、センパイの旅はノンストップですよね。私、一生分の〈まほろば〉見てる気分です」


「なに言ってるんだよ。俺たちみたいなガキが、一ヶ月で行ける場所なんてたかがしれてる。まだ日本の小指の先くらいしか見られてない。さらに、海の向こうには無限に世界が広がっている。人生のすべてをかけたって、世界どころか日本すべてを見ることだって、絶対できないよ。旅は、まだまだ終わらない」


 晴礼はもちろん、俺だって見たことがない景色が世界にはあふれている。〈まほろば〉が存在する。俺はまだまだ、旅を終えることなどできはしない。


 くすりと、晴礼が笑った。


 おもちゃではしゃぐ子どもを見るような目でこちらをのぞき込んだ。


「センパイ、本当にどこ見て走ってるんですか?」


 横目でそれを見つつ、小さく鼻を鳴らす。


「なにを言うか。いつも前だけ見て、安全運転してますよ」


 太陽のような笑顔に、影が差す。


「……センパイって、本当に真っ直ぐですよね」


 羨望のようにも思えた視線が、窓の外に流れる緑色の景色へと向けられる。

 指で、とんとハンドルを叩く。


「真っ直ぐなわけないだろ、こんな俺が……」


 晴礼には聞こえないように、自らの気持ちとともに言葉を胸の内に吐き出した。


 しばらく山道に車を走らせると、それまで緑一色だった視界が一気に開けた。


「わぁあ……」


 山々の間を流れる飛騨川に築き上げられた、大きな温泉街が見えてきた。

 【下呂温泉】の玄関である下呂駅の傍らに、でかでかと『歓迎下呂温泉』と書かれた看板がある。

 陽光が降り注ぐ真夏の往来は、それでも多くの人や車が行き交っている。


「さすがに夏休みだから人が多いな。まあ、ここはいつ来ても本当に人が多いけど」


「みんな、温泉大好きですものね」


「そういえば、温泉は人の心と体を癒やす場所だって、父さんが言ってたな」


「渉瑠センパイのお父さん、ですか? お仕事はなにをされてるんですか?」


 不意に、晴礼が質問を投げてきた。

 特に避けてきたつもりはないが、長期寝たきりで入院しているという晴礼の父親のこともある。父親の話も含めて、家族の話題を上げることは滅多になかった。


 視界の隅に映る晴礼は、別になんともない顔をしていた。


「旅行会社……かな。日本だけじゃなくて、世界中の旅行プランとかも企画しているみたい」


 そのためほとんど家に寄りつかず、あちらこちらを転々としながら仕事をしている。

 実際に家に帰ってこない理由は、それだけではないけれど。


「親子で旅好きなんですね」


 なにがおもしろいのか、晴礼がおかしそうに笑っていた。


「まあ、たしかに父さんにもいろんな場所に連れていってもらったよ。元々、【下呂温泉】には遠縁がいてな。その縁で何度も連れてきてもらってる。その人、老舗旅館の若女将をやっていて、こっちに来たときはいつも世話になってるんだ」


「それならゆっくりできそうですね。ああ、でも、こんな忙しい時期に泊めてもらえるんですか?」


「たぶん大丈夫。旅館でもホテルでもそうなんだけど、宿泊施設って大抵なにかトラブルがあったときのために、何部屋かは予備で空けておくものなんだ。若女将さんがやってる旅館も最低でもいくつかの部屋は空けていて、俺はそこに泊めさせてもらってる。二部屋くらい、どうにかなるだろ」


「え? 同じ部屋じゃないんですか?」


「……あほか。そんなわけねえだろ」


 かあっと頬が熱を帯びるのを感じた。


 馬鹿げたことを言われ、そして想像してしまったことが余計にいたたまれなくなる。

 晴礼がどんな表情をしているのかを見る気になれなかったが、からかうような視線を向けていることが容易に想像できた。


 深々と熱とともにため息を落とし、旅館に向けて車を走らせた。


「残りを万全で楽しい旅にするためにも、ゆっくり休ませてもらおう」


 そして俺たちは、【下呂温泉】に到着した。




「ちょっと【中部国際空港】まで、お使いを頼まれてくれない?」


「……」


 そして俺は、【下呂温泉】を出た。


 あー、はいはい、これも旅の楽しみですよ……。

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