最後のまほろば -5-
「ここで、大丈夫です。あれが家なので」
晴礼に言われた住所に向かうと、古い瓦屋根の家があった。昔ながらの家といった様子だが、家自体はとても綺麗にされており、玄関や家の周りに広がる庭も丁寧に整えられていた。
家を少し通り過ぎた、まだ運航時間外のバス停にプリウスを停める。
もし家の人に見られでもしたら問題だ。晴礼は友だちと旅行に行くと言って出てきている。それが異性のクラスメイトなんてことが知られれば、どうなることやら。
時刻は日の出前。空は白み始めているがまだ薄暗く、わずかに赤みを帯びた雲が広がっている。お盆ほどではないが夏休み終盤には帰省ラッシュがある。ただ今回は普段よりも交通量が少なく、想定していたよりも早く帰ることができた。
トランクから白いトラベルバッグを下ろし、晴礼に手渡す。
晴礼がトラベルバッグの取っ手を掴み、わずかに肌が触れる。
そして、俺が手を離した。
これで、本当に終わりだ。
「旅、終わっちゃいましたね……」
少しばかり寂しそうに、だけど旅を始める前よりも清々しく、晴礼はいつものように笑う。
「ああ、今まで、本当にありがとう」
きっと、俺も同じような顔をしているんじゃないかと思う。
くすりと、晴礼が笑う。
「なんで、センパイがお礼を言うんですか? 無理言って旅に連れていってもらったのは、私の方ですよ」
「……それでも、お礼が言いたくなったんだよ」
ただ純粋に、俺の中にある気持ちと言葉。
俺よりずっと小さな少女は、旅の前とは変わったと思わせる凜とした表情で、口を開く。
「約束、覚えてますよね?」
「俺から、持ち出した約束だ」
――もし俺と旅に出たいなら、行きたいなら、旅が終わるその日まで、俺と付き合ってもらうってことになる。
もう、ずいぶん昔のことのように感じる。
晴礼自身、わかっているだろう。俺が言った約束は、誰に対しても言ったわけではない。晴礼に対してだから、言ったこと。
それでも約束は約束だ。旅が終わるまでの、約束。
「明日から、俺とお前は彼氏彼女じゃ、恋人じゃない。ただのクラスメイトだ」
そして、旅は終わった。
その約束のときが、今だ。
「渉瑠センパイ、今日まで、本当にありがとうございました」
深々と、晴礼は下げる。
一瞬虚を突かれた。俺は小さく笑う。
「こちらこそ、本当にありがとう。それから旅、お疲れ様」
旅はいつでも、誰にだって始められる。
だからこそ、旅の終わりは誰にとっても平等で、絶対だ。
顔を上げた晴礼は、少し泣き出しそうな表情でこちらを見上げていた。
「センパイ」
俺を呼ぶ声も、少し震えているようだった。
「最後に」
言って、こちらに小さな手を差し出した。
旅が始まったあの日、俺が晴礼へと差し出した手。
そして今度は、晴礼から差し出される。
小さく笑みをこぼしながら、俺は向けられた手をそっと握る。
今日まで何度か触れてきた晴礼の手。
女性に触れるだけで体が熱を帯びていたはずなのに、いつしか自然と晴礼の手に触れられるようになっていることに、内心驚いた。
晴礼は、低い位置からじっと俺の方を見つめていた。
そして。
「センパイ、約束の期日は、今日まで、ですよね?」
「ああ、今日までだ」
俺の手を握る力が、すっと強くなった。
「それなら、今はまだ、恋人同士ですよね――?」
気がついたときには、体が晴礼の方に引き寄せられていた。
先ほどまで離れた位置にあった晴礼の整った顔が、すぐ目の前にあった。
「……っ」
唇が触れ合う。熱した火鉢を押し当てられたような感覚が全身に走る。
どれほどの時間がたったのか、なにが起きたのか、突然のことに頭が着いていかず、目を見開く。
俺の意識が空の彼方から現実に戻ってくる前に、晴礼は軽やかにステップしながら俺から離れた。
どこにでもいる普通の女の子のように、頬を紅葉色に染め、照れたような笑みを浮かべる。
「あはは、センパイにファーストキス、あげちゃいました」
ようやく現実に理解が追いつき、俺の体がさらに熱を帯びる。
「ひ、人のファーストキスを、勝手に奪ってくれるなよ……」
晴礼は一瞬きょとんと首を傾げ、途端に楽しそうに笑い始めた。
「ははっ、いいじゃないですかいいじゃないですか。たぶん世間一般からすると、センパイのファーストキスより私のファーストキスの方が、圧倒的に価値が高いと思いますよ」
「なんだとこの野郎」
実際事実っぽいところが逆に腹立たしい。
思い出したように、晴礼は声を上げる。
「あ、でも勘違いしないでくださいよ。これは私がセンパイにあげられるものじゃなくて、私が彼氏さんからもらいたいものだったんです」
その言葉に、胸がどきりと脈打った。
「べ、別にそんな勘違いしてねぇよ」
「本当ですかぁ? 疑わしいですね」
からかうようにのぞき込んでくる晴礼の視線が、やけに熱っぽく感じて正面から見られない。
「でも、私の方が価値が高いのは事実でしょうから、だから――」
俺の前まで詰め寄った晴礼が、再びキスをしてしまいそうな距離まで顔を寄せる。
「次に会ったときは、おつり、くださいね」
「……ああ、なんか用意しとくよ」
その答えに、晴礼は満足にそうに頷きながら俺から距離を取った。
「それじゃあ、これでお別れです。今日まで本当に、ありがとうございました」
再びお礼を口にし、晴礼はボストンバッグとトラベルバッグを手に取った。
「じゃあ花守、また、二学期に」
俺が口にした名前に、少女はわずかに顔を曇らせる。
だが、すぐにいつもの笑みを浮かべ、自らの荷物を手に、自宅へと体を向ける。
「はい、広瀬センパイ。また、です」
少女は、俺に背を向けて、歩き始めた。
この夏休み。
ずっと一緒だった旅。それが、ついに。
いろいろな感情が渦巻きながらも、わずかな達成感があった。
俺はプリウスのドアに手をかける。
「センパーイ!」
遠く離れた道の向こう側で、少女が大声を上げる。
「さようならー! えと、また、二学期にー!」
それだけ言い残して駆け出し、少女は自らの家に消えていった。
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