最後のまほろば -4-
「……もう大丈夫です。ありがとうございました」
晴礼がそう言って足を動かしたのは、【高ボッチ高原】からの景色が昼景から、街明かりと月星に照らし出された夜景に変わって、ずいぶんたったころだった。
泣き崩れそうになった晴礼は、あふれ出す涙を何度も、何度も拭っていた。涙が枯れても、顔がくしゃくしゃになっても、それでも目の前の〈まほろば〉から目をそらすことなく、ずっと、眺めていた。
入れ替わりで何度も人が来ては、その光景に息を漏らし、帰っていく。それでも俺たちは、長い間、本当に長い間、その光景を眺めていた。眺め続けていた。
俺たちの旅の終着点、最後の〈まほろば〉。
あとは帰るだけの道すがら、特別急ぐ必要もなかった。晴礼の気持ちが落ち着くまで待つことにしたのだ。ただひたすらに、晴礼がその光景で、これまでずっと探していたものを見つけられるのを待っていた。
【高ボッチ高原】が、晴礼の望む〈まほろば〉だという自信があったわけではない。なんとなく、思い当たった場所だった。
晴礼がお父さんと一緒に見たという〈まほろば〉のキーワード。日の出、大きな山、海か水辺。気になったのは、大きな山だ。基本的に海が見える場所には島々はあれど、大きな山がイメージできるものは多くはない。当たり前だが、海は低い位置にある。そのため、近辺に大きな山は比較的少ない。海辺に大きな山もないわけではないが、その場合は山自体が海を見渡す観光スポットになることが多い。
そこで思い当たったのが、諏訪湖という大きな湖をバッグに見える富士山。富士山は標高三千メートルを超える、誰もが知る日本一の山。遠く離れてはいるが、本当に大きく見えるのだ。
そして、自分が今どこにいるかよくわからない子どもにとって、諏訪湖ほどの湖は見ようによっては海に見える。子どもだった晴礼が、諏訪湖を海だと勘違いしても無理はない。
本当はもう一つ決定打となった事柄がある。だけど今、それを晴礼に伝えることはできない。
俺にとっても、【高ボッチ高原】は大好きな場所だ。車で何度も何度も訪れている。しかし、今回の旅は元々行き当たりばったりでルートを決めていた。もし仮に晴礼が新たな情報を思い出してくれていなければ、訪れなかった可能性もある。もっけの幸いだ。
本当なら晴礼が見たという日の出の光景を見せてあげたかったので、翌朝まで待つつもりでいた。出発を明朝に変えても、帰宅時間には問題はなかったからだ。
しかし晴礼は、そこまで待たなくても大丈夫ですと言い、日が暮れてしばらくたったころ、岡山へ帰ることになった。
「……」
すっかり疲れてしまったのか、助手席で静かに、それでも眠ることはなく、晴礼はカメラで撮影した【高ボッチ高原】の写真を眺めていた。
山の天気は変わりやすいというが、【高ボッチ高原】からの景色は雲や天気の影響を受けてころころと変わる。遠くの富士山に雲がかかったり、諏訪湖に雲がかかったり、降り注ぐ日差しが輝いて見えたり。
晴礼は景色が変わるたび、何度も、何度も写真を撮っていた。
岡山までの帰途。
俺も晴礼も、ほとんど口を開くことになく、ただ揺れる車に身を任せていた。
ちらりと、横目に晴礼のスマホ画面を見やると、メールの送信画面が表示されていた。また、親父さん宛にメールを送っていたのだろう。
小さく、晴礼が息を吐いた。
「すいません、センパイ。いろいろと」
やがて晴礼の口から漏れたのは、そんな言葉だった。
「今更なに言ってるんだよ」
「い、いえ……。こうして最後まで旅をしてみると、私、センパイの旅にすっごく寄り道をさせてしまったんだなって、思って……」
俺は小さく鼻を鳴らす。
「そんなこと、旅も終わりってときに気にしなくていいさ」
俺が晴礼の申し出を受けた時点で、晴礼に対してそんな文句を言うつもりも権利もない。
「そもそも俺の旅は大体こんな感じなんだよ。それにどっちかというと、寄り道をしたんじゃなくて旅のルートを変えただけだ。かなり短くな」
「み、短く? これでこれで、短いんですか?」
「ん? あれ、言ってなかったっけ? 今回元々の予定だと、北海道まで行くつもりだったんだよ」
「ほ、北海道!? く、車で!?」
晴礼が目をソフトボールのように丸くしている。
その反応がおもしろくて、思わず笑みがこぼれる。
「北海道まで直接車で行くことはできないんだけど、青森からフェリーが出てるんだ。そこから北海道に渡れる。京都とかからでも行けるけど、やっぱり他にも回りたいところあるからな。岡山から東に回りながら、北海道を目指す予定だったんだ」
助手席で、晴礼が珍百景でも見るような目を向けて来るのがわかった。
直後、肩を落とす。
「そ、それならそれならやっぱり、かなりご迷惑をかけてますよね? 北海道まで行ける機会なんて、もうそんなに……」
「いや、来年もまだあるし」
「え? センパイ、受験は?」
「関係ない。大学受験のために人生で何度もない長期休暇を潰すなんて真似、俺みたいな馬鹿がするわけないだろ。事前に受験勉強なんて必要のない学力を身につけて、大学受験を突破してみせるぜ。そうすれば、卒業までまた長期休暇だ。まだまだ、時間なんてたくさんあるんだよ」
へっへっへと悪い笑みが漏れる。
そんな俺に、晴礼はただただ乾いた笑いを浮かべていた。
「渉瑠センパイって、やっぱり、かなりぶっ飛んだ人ですよね」
「ははっ、それお前が言うの? 年上のクラスメイトと夏休み全部使って旅をしようなんて奇天烈なやつ、たぶん日本全国探してもお前くらいのもんだろ」
「そ、そこまで変ですかね?」
「俺と同程度には変人だな」
一瞬、晴礼がすごく引きつった笑みを浮かべた。
そして、お互い声を上げて笑った。
先ほどまでは晴礼の様子が心配だったが、もうすっかり元通りの晴礼に戻っている。安心感を覚えると同時に、なぜか、胸がざわざわとした不安を覚えた。
俺の内心を知ってから知らずか、晴礼は窓の外に流れる闇夜の光に目を向けた。
「これで帰れば、もう私たちの旅は終わりなんですよね……」
「ああ、終わりだ」
寂しげに呟く晴礼に、俺は迷うことなくはっきりと告げる。
街灯やビルの明かり、空に浮かぶ大きな月。この夜が明けてしまえば、すべてが終わる。
俺たちの、旅の終わり。
「センパイ、あの……」
晴礼が俯きながら小さく呟く。
ちらりと見れば、黒い髪からのぞく耳が赤くなっていた。
「本当に、私、センパイになにもしてあげられてないんですけど、いいんですか?」
「世間一般の恋人関係って、彼氏が彼女のお願いを答えるのに、いちいち対価が必要なのか?」
「いや、そういう話ではなくて、いやいや、結局そういう話になるんですけど。私、本当にこの旅で、お金もほとんど払ってないですし、なにも、センパイにあげられてません。どう、お返しをしたらいいかも、わかりません」
なにかを決めるように、意志を固めるように、晴礼は両手の小さな拳を、膝の上できゅっと握る。
「だから……あの、セ、センパイが望むなら、私――」
「女子が軽々しくそんなこと言うなつったろ。はっ倒すぞ」
晴礼がすべての言葉を紡ぐ前に、俺はそれを遮った。
この旅を始めた日、怒鳴り声を上げてしまったあのときよりも、ずっと自然に。
「俺がお前と一緒に旅をしたのは、別にお前の金目当てでも、ましてや体目当てでもない」
そんな低俗で無味な感情など、初めから持ち合わせていない。
それでも、晴礼は食い下がる。
「で、でもそれじゃあ、やっぱり納得いきませんっ。私たちは、彼氏彼女です。恋人が、そういうことをするのは、普通じゃないですか……? 私は、この旅のお礼をどうやってセンパイにすればいいのか、わからないんです」
自分も相当恥ずかしいくせに。自分で気がついていないのか、暗い車内でもはっきりわかるほど顔を赤くしているのに。
俺は小さくため息を落とし、自身も熱を吐き出した。
「それを旅の代価にした段階で、そんなもの、恋人でもなんでもないだろ。俺がお前に旅に出るなら付き合ってほしいって言ったのは、実際に付き合うことにしたのは、誰でもよくて言ったわけじゃないからな」
「え……?」
自然と口に出してしまったこと。
晴礼の顔をまともに見ることができず、視線は前方にだけ向ける。
「お前は俺になにもあげられてないっていうがな。俺はもう、お前からたくさんのものをもらってるよ。俺はお前と旅をすることが、本当に楽しかった。それだけで、十分すぎるほど、大切なものをもらったよ」
高校二年の夏休み。
夏休みが始まる前に思い描いていたものとは、まったく異質で、日常とは乖離したものとなっている。
でも、俺はこの旅を後悔などしていない。
「俺は、旅っていうのは探し物だと思ってるんだ。旅に出るっていうのは、自分の世界とは違う世界に、なにかを探しに行くこと。それは人によって様々だと思う。ずっと行ってみたかった場所、憧れの場所、以前感動した場所。いろんな世界を巡って訪れて、多くの人と触れ合って、ぶつかって、なにかを探して。探すものも、感情だったり、理由だったり、景色そのものだったり、多種多様だとは思うけどな。そしてまたいつか、探し見つけたものを手に、自分の世界に戻ってくる。そうすると、旅をする前より、自分の世界が広がるんだ」
小さな自分の世界にこもったままでは、見える世界は限られている。
でも外に出れば、世界は際限なく広がっている。
「俺のあてなき旅は、俺自身の世界を広げるためにあるんだ。自分のために、誰かのために旅をして、なにかを探して、世界を広げていくこと。探し続けること」
車を走らせながら、自身の胸にそっと手を当てる。
「でも一人の旅じゃ、わからないこともいっぱいあったんだ。今回の旅で、俺の世界はさらに広がった。多くのものを見つけた」
だから、と俺は晴礼を一瞥して続ける。
「晴礼と二人で旅をできたことで、俺は誰かと旅をする楽しさを知ることができた。なにももらってないなんてこと、あるはずがない。本当に、感謝してるよ」
願わくば、晴礼自身がこの夏休みの旅で探し見つけたものが、晴礼の世界をも広げることになってくれたら、嬉しいと思う。
晴礼はそんな俺の言葉に、恥ずかしそうではあったが、穏やかに微笑んでいた。
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