夢見る幼馴染み -3-
「へぇ、お父さんと一緒に見た景色、〈まほろば〉を探す旅ですか」
「うん、せっかくの夏休みだから。渉瑠センパイがその景色探しに行こうって言ってくれたんだ。彼女の特権なのです」
湊川さんのときと同じように、所々脚色しながら旅の目的を晴礼が渚に説明している。
前回と結構違うことを言っているが、意外にもその辺はうまく会話を回している。ばれやしないかと冷や冷やさせられるが。
晴礼は渚とともに後部座席に押し合って、俺はいつも通りプリウスを走らせる。
「渉瑠センパイ、いろんなところに連れていってくれるの。海とか、山とか、すごく景色の綺麗な場所とか。いろんな〈まほろば〉を見せてくれるんだ」
「やっぱり渉瑠君は変わらないですね。ちょっと安心しました」
ミラー越しに見る渚の表情は、少し寂しさを孕んだ笑みを浮かべていた。
「まだ、お父さんと見た〈まほろば〉というのは見つけられてはいないんですか?」
「むうー、そうなの。日本って意外に広くって……」
世界的に見れば小さな島国。とはいえ、本州だけでも縦断しようとすればそれだけでも何日もかかる。それが名勝や観光地を回るとなれば、途方もない時間がかかるのは当然のことだ。
「それで、渉瑠センパイは今どこに向かってるんですか?」
後ろから晴礼が顔をのぞかせる。
「俺の腹を満たしてくれて、もしかしたら晴礼が行きたい場所かもしれなくて、渚も行けばいいんじゃないかって思う場所」
「そ、そんなそんな、天国みたいな場所が……っ」
晴礼は目をきらきらとさせながらカメラを握りしめる。本当に、自分の欲望に正直なやつだ。
うきうき気分の隣を見やると、渚が言葉少なげに窓の外の景色に視線を投げていた。
「でもさ渚、たしかに大地は頭も悪いし下品だし考えなしだけど、たった一人の家族だろ? 相談はしといた方がいいんじゃないのか?」
たった一人の家族。
その言葉に、晴礼がわずかに目を見張るが、踏み込んでくることはなかった。
「……わかっては、いるんです。でも私、お兄ちゃんにこれ以上負担を強いることだけは、避けたいんです。お父さんにもお母さんにも頼らずに、高校まで辞めて、私を高校に行かせるために一生懸命働いているお兄ちゃんに、そんなことを相談するなんて……」
鈴鹿兄妹の家計のほとんどを支えているのは大地。これは揺るぎない事実だ。
二人の両親は、まだ存命ではあるが絶縁状態にある。そちらから干渉するつもりもなく、大地たちも関わるつもりはないのだ。大地はもう何年も男手一つで鈴鹿家の生活を支えている。渚も家庭教師のアルバイトなどをしていると聞いているが、それでもやはり大地の収入が生活を支えている割合が大きい。
前方の信号が赤に変わり、俺は停止線を前にゆっくりと車を停める。静寂が車の中に広がった。ハイブリッド車は停止中ほとんど音を発しない。
すぐ前で青になった横断歩道を、兄妹と思われる小さな男の子と女の子が駆けていった。
「……相談できるうちに、相談した方がいいと思うよ」
渚の表情が強ばる。
信号が青に変わり、俺はアクセルを踏んで車を発進させる。
「せめて、進学するつもりか、進学しないつもりかくらいはさ」
前方を見やる視界の隅で、渚が目を丸くした。
「え? 渚ちゃん、進学先で悩んでるんじゃないの?」
晴礼が驚きに声を上げる。
全国模試で百位以内に入るほどの秀才。それほどの学力があれば、日本国内ほとんどの大学を狙うことができる。進学をしないという選択を考えていると聞けば、驚くのも当然である。
「本当に、渉瑠君には隠し事はできないですね」
渚はそう呟くと、乾いた唇から小さく息を吐き出した。
「そうですね。私、進学しようかどうかで迷っているんです。このまま就職するっていうのも、いいんじゃないかなって」
既に一通り悩んだ上での言葉なのだろう。その先は、するすると漏れ出した。
「お兄ちゃん、一ヶ月に三日と休まないような働き方をしてるんです。毎日毎日へとへとになるまで働いて、帰ってきてもご飯とお風呂をすませたらすぐに眠っちゃって。朝も、私より早く出て行ってたりするんですよ。別に、お兄ちゃんが私になにか言うわけじゃないんです。休みの日は一緒に買い物にも行ったり、今日みたいに家で焼き肉とかお鍋をしたりもする。たぶん、普通の兄妹よりも、ずっと仲のいい兄妹だと思うんです。それでも、お兄ちゃんが働いている間に、私が大学に通うなんて、心苦しくて……」
そう言い、渚は目を伏せた。
一般家庭において、子どもを養うのは両親の役割だ。兄や姉が行うものではない。歳が十も離れているならそれもあり得るかもしれないが、二人は二歳しか違わない。普通のどこにでもいる仲の良い兄妹だ。大学進学において、生活が困窮している場合でも、奨学金やアルバイトをして学費をまかなうことは可能だ。現代の日本では、大学に通うという選択肢はそれほど敷居の高いものではない。
しかも渚は成績優秀者。大学によっては、授業料免除の枠も十分に狙うことができるだろう。家から通うことができる範囲の大学で選択をすれば、それほど難しい問題ではない。渚が考えていることは、また別のことだ。
「私が高校を卒業してすぐに就職をすれば、お兄ちゃんは今よりずっと余裕の持った生活ができると思うんです。今のままじゃ、いつか体を壊すんじゃないかって、心配で……」
震えそうになる言葉を抑えながら、唇の間から熱を漏らす。
「高校の先生は、私の成績なら公務員試験も十分受かることはできるだろうって言ってくださってるんです。ある程度収入のいい仕事も見つけてくださっていて、就職の方向で、いろいろ考えているんです」
もうそこまで話を終えているのか。
現在は高校二年生の夏休み。ほとんどの高校生が、大なり小なり高校卒業後のことを考える時期でもある。渚のことだ。悩み始めたのは、昨日今日の話ではないのだろう。
これまでずっと、一人で考え込んでいたに違いない。
そして、おそらく。
「……その話、大地には?」
渚が小さく頭を振る。
「言ってません。仕事で一杯一杯のお兄ちゃんには、余計なことを考えないでもらいたいので」
自らの人生の重大な分岐点を、余計なことの一言で片付けてしまう渚。
元々子どものころから自己主張が苦手だった渚は、他者の考え方を尊重することが多い子だった。それでも持ち前の要領の良さと人柄で、大抵のことは難なくこなしてきたのだ。だけど、いやもしかしたらだからこそ、自分という個の重要度を低い位置に考えがちなのかもしれない。
「進路……か……」
そう呟いたのは、渚の隣で静かに話を聞いていた晴礼だ。後部座席の窓に頭を当て、流れ行く景色を見やっている。その言葉になにが込められているのか、俺は一端の意味しか読み解くことができなかった。
晴礼とは、この〈まほろば〉を探す旅に出てからまだ十日ほどの付き合いだ。それ以外の接点など、数えるほどしか存在しない。お互いを知るにはまだまだ時間が足りない関係だ。
だが渚の将来の話になった途端、少し晴礼の様子がおかしくなったことは間違いない。これといってなにが変だというわけではない。ただ、いつもと変わらないことを取り繕っているような、無理に元気を震い立たせているような、そんな違和感。鈴鹿宅でのやりとりでも、話をあちらこちらに持っていったり、話を中断させたり、普段の晴礼なら絶対にやらないようなことをしていた。
そこにあったのはもちろん、悪意などではない。なにか動揺や混乱のような、暗く混ざりあったものを感じた。
留年している俺も含めて、俺たち三人は高校二年生の夏。俺と晴礼の高校は、渚のところほどバリバリの進学校ではないものの、おぼろげに進路を考えないといけない時期になっている。俺もまだ、あまり自分の将来をうまくイメージすることができない。大体、真剣に進路を考えている高校生は、夏休みすべてを注ぎ込んで旅に出るような真似はしない。でも進路はともかく、現状についてなにも考えていないわけではない。
きっと晴礼も、なにか思うところがあるのだろう。
渚は少し話しすぎたと思ったのか、それっきり口を開くことはなかった。
俺もしばらく集中して言葉少なげに運転を進める。
やがて目的の場所に到着した。夏休みということもあって、多くの旅行客で溢れかえっている。日本人も多いが、それよりも外国人旅行客が多く見受けられる。この手の観光地にはよくあることだ。
「ここは……」
自分たちも住んでいる三重県のことだ。渚はどこに来たのかを理解していた。
比較的駐車スペースが余っていた市営駐車場に車を停めて、俺たちは車から降りた。
「さあ、行こう。あんまりのんびりしていると、大地が帰ってきちまう」
先導して歩き始めると、すぐ後ろを晴礼と渚が続く。
真っ直ぐ伸びる石畳の長い道を、大勢の人が行き交っている。道の両脇には屋台や飲食店、お土産店などがずらりと並んでいる。どこのお店も、夏の暑さにも負けず商魂たくましく働いている。
人混みを分け入りながら道を進んでいると、少し後ろを歩く晴礼が俺の服の袖を引いた。
「あっ、センパイセンパイっ、おいしそうなかき氷があります。フルーツたくさん乗ってます。食べましょう食べましょう」
「あとでなあとでな。先に向こうに行ってから」
「え? ここになにかを食べに来たんじゃないんですか?」
「それもあるけど、本命はこの奥」
晴礼は首を傾げながらも俺に続き、渚は眉を寄せながらもなにか言うことはなく着いてくる。
やがて、開けた場所に出た。中央にロータリー右手に観光バスがずらりと並び、周囲にも所狭しと人が行き交っている。そしてさらに進んでいくと、正面に石造の鳥居が見えてきた。
「【
俺は二人の方を振り返る。
「渚だけじゃなく、俺も晴礼も来年はどうしたって進路を考えないといけないわけだし。せっかく三重まで来たんだから、神様にお願いしていこうと思って」
といっても、進路が明確に見えていない俺がなにをお願いするんだという話。
今回の主役は、あくまでも渚だ。
渚はやや暗い顔をして、鳥居の向こう側を見つめていた。
「渚ちゃんは来たことあるの?」
「……いえ、ありません。あまり神社などを訪れる習慣もなかったもので」
「まあここに来ても解決する問題ではないだろうけどさ、神様に今思っていること、相談していくといいよ」
そう言って、俺は鳥居の前の一礼し、鳥居をくぐった。晴礼も渚も一礼し、続く。
歩き始めてすぐに、晴礼が周囲の光景に声を漏らす。
「ほぇー……。これまでも渉瑠センパイにいろんな神社とかお寺に連れていってもらいましたけど、有名どころの神社とかって、本当に広いですよね。想像の何倍も」
「神社は日本特有の文化で、重要な文化財だ。土地がたくさんあった大昔からあるから、きちんと残そうと思えばそれなりの広さになる。ちなみに今俺たちがいるのは、【
「ここだけじゃなくてもっとあるんですかっ!」
「全部回りきろうと思うと、一日じゃ足りないよ。本当は回る順番もあったりするんだけど」
実際は【伊勢神宮外宮】から【伊勢神宮内宮】に回る順番が正しいとされている。ただそこまですれば確実に日が暮れてしまう。神様には申し訳ないが、今回は直接【伊勢神宮内宮】に足を向けさせていただいた。
【伊勢神宮】は三重県でも屈指の観光名所である。広大な敷地でありながら、丁寧にしっかりと管理が行き届いている。ゴミ一つ落ちていない庭園に、玉砂利が敷き詰められた参道、並び立つご神木が敷地全体を清浄な空気にしていた。
日本有数のパワースポットとしても有名だ。その場所にただいるだけで、開放的な情景も相まって心が洗われるような気分になる。
先ほどまでどこか暗い顔をしていた渚も、表情を崩し、物珍しそうに周囲を見渡している。
【伊勢神宮】の敷地内には、見上げれば首が痛くなるほど大きなご神木がそびえたっている。そのため日陰になっている場所も多く、敷地外に比べてずっと涼しい。
空元気のようなものを感じさせていた晴礼も、徐々にテンションが上がり始めて、あちこちを一眼レフで激写している。
「ここ、撮影禁止の場所も結構あるから、適当に撮りすぎるなよ」
「もぅ、わかってますよぉ。ちゃんと確認しながら撮っています」
重要文化財は撮影禁止とされている場所も多い。神社やお寺ではご神体や仏像、本殿の中やフラッシュなどで傷む可能性がある芸術品などがそれに当たる。所々に注意書きがされている。観光名所であるが故、トラブルも多いが無法地帯になってはいけない。
「写真はSNSに上げたりするんですか?」
「違うよ。私、ツイッターとかインスタってよくわからなくて、全然やってないの。これは入院中のお父さんに送ってるんだ」
「……お父さん、ご病気なんですか?」
踏み込んではいけない話に触れてしまったかと、渚が聞きにくそうに尋ねる。
しかし、晴礼は特に気にした風もなく、肩をすくめて小さく笑う。
「昔からね、ずっと入院しているんだ。だから私が行った場所とかは、こうしてメールで送ってあげてるの。入院中の気晴らしにね」
言いながら、晴礼は渚にメールの送信画面を見せている。
渚は少し表情を崩しながら、穏やかに笑みを浮かべた。
「そうですか。早く退院できるといいですね」
「うん。ありがと」
くすぐったそうに笑みを浮かべながら、晴礼は手の中でスマホを転がした。
そしてメール画面を見つめながら、すっと表情を曇らせた。
「……私も聞いていいかな。渚ちゃんの、お父さんたちのこと」
晴礼からの踏み込んだ質問。
移動中のやりとりでおおよその事情は察しているのだろうが、気になっていたようだ。渚にとっては慣れている話題なのだろう。特に嫌な気持ちは感じさせない、優しい笑みを浮かべた。
「私とお兄ちゃんの両親は、私たちを残して失踪しているです」
晴礼は目を丸くした。
「私たちが物心つく前に両親が育てられなくなったとかで、施設に預けられていたんです。岡山の施設ですね。それから、一切連絡が取れなくなったみたいです。お兄ちゃんが勤めている自動車整備工場の社長さんも同じ施設の出身で、お兄ちゃんがこちらで働くことになったことを期に、私もこちらに引っ越したんです」
大地と渚は施設から小学校中学校と通っており、俺は小学校で二人と知り合った。二人にとって、両親は最初からいない存在しないので、特に気にする話題ではないと常々言っている。施設の人たちが親代わりになるわけだけど、本当にいい人達ばかりで、二人も慕っているのだ。
「両親のことについては深く教えてもらえてないですけど、恨んでいたり怒ったりっていうこともないですよ。事情も知らずに、そんな感情を持ってはいけないですからね」
大人びた表情で、渚はそう言う。以前、大地も同じようなことを言っていたのを覚えている。
二人は自分の境遇や過去を悲観しない。両親たちという保護者や後ろ盾がないからこそ、自らの人生でなにが最善かを考えて行動している。大地はやや無鉄砲なところもあるが、自分のやりたいことに愚直なまでに真っ直ぐなところが、あいつのいいところでもあるのだ。
そして、渚も。
【伊勢神宮】の最奥までたどり着いた。通路の脇に、撮影禁止をあらかじめ促す看板がある。なだらかな石造りの階段の先に、綺麗な鳥居がある。鳥居の向こう側は、下からでは見えない場所に続いており、鳥居の先に人だかりができている。ツアー観光客のようで、一団が去ってから登る事にした。
「渚はさ、この奥に祭られているものがなにか、知ってる?」
「日本神話の話ですか? 天照大神様が祭られているってことくらいしか、知らないですね」
「そうだな。【伊勢神宮】が日本で一番位が高い神社と言われる理由が、ここに祭られている神様が、日本神話における最高位である天照大神様だからだ」
「な、名前だけなら私も聞いたことがあります!」
話に置いていかれないようにと、必死に晴礼が声を上げる。
「有名な神様だよな。それで、その天照大神様には、俺が好きな逸話があるんだよ」
天照大神が祭られている方向を眺めながら、記憶に刻んだ知識を紐解く。
「天照大神様には、下に月読命様と須佐之男命様っていう二人の弟がいる。天照大神様はその名前の通り天を、月読命様は月を、そして須佐之男命様は海を守る神様だ。ある日、海にいた須佐之男命様は、死んだ母親に会うために旅に出ようとするんだけど、そのとき、天照大神様に挨拶しにいこうとするんだ。でもなにを思ったか、天照大神様は須佐之男命様が天を奪うために攻めてきたと勘違いをして、戦争の準備を始めてしまう」
「……つっこみどころが、多いんですけど」
頭に無数の疑問符を浮かべた晴礼に、俺は苦笑する。
「俺の知識は曖昧だけど、元々神話っていう物語は、結構曖昧でつっこみどころが多いんだよ」
この場でこれ以上言ったら神主たちに抹殺されそうなので、詳しくは口にしないが。
社の前に集まっていたツアーの人だかりが、徐々に次のスポットへと移動し始めた。
「その後は、須佐之男命様が自らの潔白を証明し、事なきを得るって話なんだけど」
俺はちらりと、隣に立つ渚を見やる。
「神様でさえ、誤解や勘違いから喧嘩やいざこざに発展しようとすることだってあるんだ。その誤解や勘違いを生まないようにするには、結局のところ、きちんとお互いの意志を伝えるしか方法はないと思うんだ。ぶつかることになったとしても、もしかしたら傷を生むことになったとしても、お互いの意志を伝えて、絶対に話し合うべきだと思う。いつ伝えられなくなるかも、話すらできなくなるかも、わからないんだから」
「渉瑠君……」
人だかりがなくなり、俺は社へ続く階段へと足を進めた。
晴礼がそれに続き、少し遅れて渚もゆっくりと登り始める。
迷うように、なにかを探すように、苦しげではあるが、それでも足を進める。
「ほぁ……」
階段を登りきると、晴礼が吐息とともに驚きに声を漏らした。
敷居で囲まれた立ち入り禁止写真撮影禁止の不可侵空間。燦然と輝く太陽の光を受け、社は煌々と輝いている。
日本最高位の神社【伊勢神宮】、その中でも中心となる社、【
ただ単純なパワースポットという言葉では説明できない、神々しく清浄な聖域だ。
「綺麗……」
渚もその聖域を前に、声を漏らして佇んでいる。
カメラを持ち上げようとする晴礼の頭を叩く。脇に控える警備員が口を開きかけていた。なにがわかってるだ全然わかってねぇじゃねぇか。
ここが晴礼の行きたい〈まほろば〉だったらそれは困るが、一応違うようではある。
写真を撮りたい気持ちはわからないわけでもないが、それでもダメ絶対。
俺は小さく息を落とす。
「もし、天照大神様と須佐之男命様がお互いに誤解を解けずにいたら、もしかしたら日本っていう国は生まれなかったかもしれない。全然違う道をたどっていたかもしれない」
渚は口を固く結んだまま、聖域に目を向けている。
「あのバカは、絶対に後悔するよ。自分が理由で、渚の道が変わったら」
「私の道……ですか……」
「そうだ。お前の道だ。人生だ。振り返ることはできても、戻ることはできない。もしかしたら全然違う道が続いていたかもしれない。けど変わってくれることなんては、絶対ないんだよ」
当たり前の事実を受け止めるには、俺たちはまだまだ子どもなんだと思う。
まだ二十にもなっていない短い人生。
これから何度も選択と後悔をして、それでも前に進んでいかなければいけない。
運悪く、たまたまそれが自分だったというだけの、受け入れられない現実だったとしても。
「時間は戻らない。結果も、現実も変わらない。どれだけ逃げ出したくても、俺たちは……ぐっ」
ずきりと胸が痛む。
突如、胸を縄で締め上げられたかのような痛みが走る。視界が明滅し、額に浮かび上がった大粒の汗が、頬を伝って地面に落ちた。
言いかけていた言葉が途切れ、息が止まり、思わず顔をしかめて服の上から胸を握りしめる。
「渉瑠君っ」
渚が声を上げて俺の背中に触れる。
「っ……ごめんごめん。大丈夫だから」
額の脂汗を拭いながら、俺は取り繕った笑みを浮かべる。
「わ、渉瑠センパイどうしたんですかっ? 大丈夫ですかっ?」
呻き体を抱える俺を見て、晴礼は戸惑い、気遣って声をかけてくれる。
しかしそれを見た渚が、少し驚いたように目を丸くしていた。
誤魔化すように手を振り、胸に手を当てて深呼吸をする。
「ちょっと暑さに当てられたかも。そろそろ戻って、さっきのところでかき氷を食べよう」
ちょうど後ろから新たな一団が階段を上ってきた。道を空けるように、俺たちは脇へと抜けていく。玉砂利の上に歩みを進めながら、やや乱れた呼吸を落ち着かせる。
俺にとっては慣れたこと、いつものことだ。
しばらくすると、胸の痛みは嘘のようになくなり、【伊勢神宮】の新鮮な空気に呼吸も穏やかになった。
「渉瑠君、無理させて、ごめんなさい……」
「ん? いやいや、違う違う。これは外を出歩いたからとかじゃないから。それよりも今は、渚のことだ。本当に、このままでいいのか?」
渚はなにか言おうと口を開きかけるが、それでもやっぱり声にならずに下を向く。
だけど、渚の瞳は、なにかを考えるように揺れている。
「このままでいいわけ、ないんですよね。やっぱり」
渚は歩きながら自らの手をきゅっと握りしめて、仰ぐように木々の回廊に目を向ける。
それっきり、再び考え込むように口を閉ざした。
いろいろ気になっていることもあるようだが、空気を取り直そうと晴礼が笑った。
「でもセンパイって、本当にいろいろ知ってますよね。高校の成績が悪くないってのも信じられてきました」
まだそこで立ち止まっていたのかこいつは……。
ため息を一つ落とし、俺も雄大に立ち並ぶ木々を見やる。
「俺の旅は、ただいろんな景色を見るってだけじゃない。その場所の成り立ちとか、変遷とか、どうしてその場所が愛されているのかとか、そういうことも知りたいんだ」
「愛されている理由……ですか?」
「単純に綺麗だから、アクセスがいいからっていうのも理由の一つではあるだろう。けど、これまで何年何十年何百年と愛されてきた場所は、なにかそれ以上に、人を惹き付ける理由があると思うんだ。そこに生まれて、人を集めて、愛されて。どんなことにも、きっと理由が存在する。晴礼向けに言うと、〈まほろば〉には〈まほろば〉になる理由があるってこと」
日が傾き、薄ら赤みを帯びてきた空の下で、俺は晴礼に笑みを向ける。
「安心しろ。きちんと、晴礼が行きたい〈まほろば〉のことも、ずっと考えてる。行けるかは約束できないけど、諦めるつもりもないから」
晴礼は一瞬虚を突かれたように目をしばたかせるが、やがて、嬉しそうに頷いた。
「……はいっ。ありがとうございますっ」
そんな俺たちのやりとりを見た渚は、なぜかおかしそうに吹きだしていた。
Θ Θ Θ
「私、小学校の先生に、なりたいんです」
買ってきたフルーツがふんだんに盛り付けられたかき氷を包み込み、渚はこぼすようにそう言った。
【伊勢神宮】を出た俺たちは、通りから少し外れた公園の木陰で涼んでいた。
晴礼は渚の軽く倍、これでもかとフルーツが盛り付けられたかき氷を一口一口食べながら、渚の話を聞いていた。二人のかき氷にはそれぞれ、伊勢名物の赤福という餅菓子が何個か乗っている。赤福は、俺がこっち方面に来たときは必ず食べるようにしているものだ。餅をあんこで包んだ和菓子で至高の一品である。
晴礼たちがかき氷の列に並んでいる間に、俺は近くのお店で買ってきた。晴礼がすごく食べたそうに視線を向けてくるので、二人のかき氷に乗せてあげたのだ。
一口大の赤福を頬張ると、甘いあんこともちもちとしたお餅が口の中でとろけるように広がっていく。
「今やっている家庭教師のアルバイト、お兄ちゃんに勧められて始めたんですけど、本当に楽しくて。でも、小学校の教員免許を取るには、大学に行った方がよくて……。一応、高卒でも教員免許を取る方法はあるんですけど、それでもしっかりと先生をやるなら、やっぱり自分もしっかりと勉強しないといけないですし」
教師という難しい職種は、たしかに大学できちんと勉強をするべき職種だと思う。人に勉強を教える技術は、ただ目の前にある課題や問題を解決するだけでは足りない。また別の技術が必要とされる。
「お兄ちゃんは、自分の人生を途中で曲げてまで働いているのに、私は自分の道を選んでいいのかなって。こんな私に、誰かになにかを教える仕事ができるのかなって、ずっとずっと、考えていたんです。自分の夢を目指してもいいのかなって、考えてしまっていたんです」
苦しそうに、迷うように、それでも渚は言葉を紡ぐ。
「でも、考えるだけじゃ、迷うだけじゃ、ダメですよね。自分の考えや気持ちをちゃんと伝えて、話し合って、それから決める。みんな、そうしているんですよね。神様も、晴礼ちゃんも、渉瑠君も……」
言って、渚は溶け始めているかき氷に、プラスチックのスプーンをぶすりと突き刺した。
そしてフルーツを、赤福を、氷を共々、一気に口へと掻き込んでいく。
見ていて不安になる勢いでかき氷を食べ始めた渚に、俺と晴礼は呆気にとられていた。
「ぐっ……ぐううううっ」
冷たさが頭にきたのか、額に手を当てて悶絶する渚。が、それでも食べることは止めず、口の中に次から次へと流し込んでいく。
瞬く間に空っぽのしたカップを椅子に置き、痛みを堪えるように頭を抱える。表情を歪めながら、それでもどこか吹っ切れたような笑みで、渚は顔を上げた。
しかし、その表情はまだ不安げだ。
「渚、手を出せ」
言って、俺は自分の手を渚に向ける。
「はい?」
「俺たちの力を貸してやる。好きなだけ、持っていけ」
渚が目を見開く。
そして、一瞬寂しそうに目を伏せた。
「ありがとうございます。では、いただきますね」
俺が差し出した手に、渚が手を合わせた。
女の子の小さく優しい手のひら。
渚の手は、微かに震えていた。それはきっと将来への不安や、自分の選択への疑念。
渚の目が、少し戸惑い気味に、晴礼に向かう。
「も、もしよろしければ、晴礼ちゃんの手も、貸してもらってもいいですか?」
「もちろんっ」
晴礼は嬉しそうに頷くと、渚のもう一方の手を食い気味に掴み取る。
戸惑いも迷いも感じさせない、快活な晴礼の手。
渚は一瞬虚を突かれたようだが、安心したように目を閉じた。
俺たち子どもには、まだまだわからないことだらけの未来。
だが、それでも選ばなければいけない。
やがて、渚の手の震えは、止まった。
力強く、迷いを振り払うように、渚は手の力を強めた。
「ありがとうございます。渉瑠君、晴礼ちゃん」
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