ちっぽけなランナー -2-

 お、重たい話を掘り返してしまった。


 渉瑠センパイは運転という役割にだんまりを決め込んで、先ほどからお口チャックしている。運転中なので、そんなに頻繁に会話に入ることもできないのだろうけど。けど、けどぉ……。

 私がめげるわけにはいかない。日が暮れた寂しい道の駅で一人、道行く人にヒッチハイクを頼んでいた夏帆ちゃんを放っておけなかったのは私だ。


 夏帆ちゃんは小さく笑みを漏らし、そして口を開く。


「私には、やりたいことがあるんす」


 そう言って、夏帆ちゃんは子犬のようなかわいらしい目を、すっと鋭く尖らせた。さながら獲物を見据えた猟犬のような雰囲気だ。


「お父さんとお母さんは、陸上競技に使う靴の会社を経営しているんす。すっごい有名な工場だったんすよ? でも、外国メーカーにどんどん押されるようになっちゃって。それで、経営が大変になっちゃったみたいなんす」


 最近、いろいろな分野でよく聞く話だ。以前日本が強かった分野でも、諸外国の技術力が強くなってくればシェアを奪われてしまうのも仕方がない。誰が悪いとかよくなかったとか、そういう話ではない。社会は様々な競争で成り立っている。


「でも、お父さんとお母さんの技術は、外国にだって負けてないっす。きちん二人が靴を作れば、絶対に外国の会社と戦えるだけの力はあるっす」


 その言葉からは、両親への強い信頼が込められている。


「お父さんとお母さんのこと、好きなんだね」


「はい、もちろんっすよ! 私をここまで育ててくれた、大好きな二人っすよ!」


 にこやかに年相応の幼い笑みを浮かべながら、はっきりと夏帆ちゃんは答える。

 その眩しくも透き通るような純粋な気持ちに、私のささくれた心にちくりと痛みが走った。


「そっか」


 だがそんな感情は頭の片隅に追いやる。


 そんな話をしていると、渉瑠センパイの運転するプリウスのカーナビが兵庫県に入ったことを告げた。

 さっと、夏帆ちゃんの表情に緊張が走った気がした。

 渉瑠センパイもそれに気がついたのか、ミラー越しにちらりとこちらに視線を投げた。

 なにか嫌な沈黙になることを察して、私はその前に口を開く。


「じゃあ、夏帆ちゃんのやりたいことは、お父さんたちの工場で働くこと?」


 私の質問に、夏帆ちゃんはきょとんと目を見開く。

 しかし途端に、声を上げて笑った。


「違うっすよ。私がやりたいことは、両親の作った靴で、世界の舞台を走ることっすよ」


「「え?」」


 運転をしている渉瑠センパイと私の声が重なった。一応話は聞いているらしい。

 夏帆ちゃんは少し恥ずかしそうに視線を窓の外に逃がすと、熱のこもった声で続ける。


「私、陸上で短距離走やってるんす。一応、今年の全中陸上競技大会に出場する予定っす」


 照れくさそうに、それでいて誇らしそうに頬を掻きながらそう言った。


「全中って、全国大会!? 夏帆ちゃんってまだ二年生だよね? それで全国ってすごいね!」


 私が大声を上げて驚いていると、夏帆ちゃんは首をすくませるように頭を下げた。


「いえいえ、私なんてまだまだっすよ。今回はたまたまだったんす。万全じゃなかったすからね」


 万全じゃないのに全国大会出場って、相当すごいことだと思うけど……。


「これ、この間の大会のトロフィーです」


 言って、夏帆ちゃんがスマホを見せてくれる。表示された画像には、小柄な夏帆ちゃんが抱えるのも大変そうな大きなトロフィーを手に写っていた。


「これをお父さんとお母さんにも見せて、私のためだけの靴を作ってもらいたいんす」


 その目は、先ほどまでの親しみあふれた表情からは打って変わり、意志の強い狼のような眼光を宿していた。


「今回の大会とは別に、靴を作ってもらいたいってこと?」


 私が尋ねると、夏帆ちゃんはゆっくりと首を振った。


「二人は最近、自分たちで作った靴を使わせてくれないんすよ」


 窓の外に広がる夜の中にきらめき流れていく光たちを眺めながら、寂しそうに続ける。


「自信をなくしてるんすよ。二人の技術は本当にすごい。その陸上選手にあった靴を作らせたら、日本一っす。昔は何度も二人が作った靴で、私は走ったことがあるっす。絶対にお父さんとお母さんの靴が、どんな靴よりも走りやすくて、速く走れた」


 言葉の端から、悔しさや憤りのような感情が滲み始める。


「でも、最近は外国メーカーに負けてばかりだから、私にも他の靴をはいた方がいいって、作ってくれなくなったんです。私は絶対に、二人の靴の方が速く走れるのに……っ」


 こぼれ落ちる鮮烈な感情を抑えこむように、夏帆ちゃんは膝の上で拳を握りしめる。


「万全じゃなかったっていうのは、二人の靴じゃなかったってことなんだ」


「はいっす。二人の靴で走れば、全国大会でも絶対に勝てるっす。私はそれを証明したい。そうやって勝ち続けていけば、多くの陸上選手がきっと前みたいにお父さんたちの靴をたくさんの靴を使ってくれる。お父さんとお母さんのために、私は私の走りで二人の力を証明したい」


 だけど、と夏帆ちゃんはむくれて表情を曇らせる。


「電話でいくら話しても納得しないんすよ、そもそも、岡山大会でも私は二人が作った靴で走りたかったのに、結局作ってもらえなくて。だから直談判することにしたんす。いい加減、私の靴を作れ、作るまで帰らないって」


 強情そうなわがままをいう子どものようにも、誰にも負けたくないという意志もこもった獅子のようにも見える夏帆ちゃんの横顔。


「そっかそっか。それで、お父さんたちのところに行きたかったんだ」


 はうっと、夏帆ちゃんは恥ずかしそうに顔を赤くする。


「お、お恥ずかしながら、これまで何度も神戸までバスや電車で行こうといたんす。でも私、なぜか全然神戸にたどり着けなくって」


「たどり着けない?」


「駅員さんとかに聞いたとおりの乗り物に乗っても、寝たり乗り間違えたりで、全然違うところにしか行けないんすよね。自分の足で走らないと目的地に行けないので。でもそれはおじいちゃんたちに止められちゃうし、かといっておじいちゃんたちに送ってもらうのも無理で……。こ、こうなったもう、ヒッチハイクしかないと……」


 さ、最終手段それかぁ……。


 ま、まあ渉瑠センパイの車に現在進行形で押しかけている私が言えたことではないけど。そんな特大ブーメランを投げるわけにはいかない。

 不意に、バックミラー越しにちらりとこちらを見た渉瑠センパイと視線がぶつかった。あれは絶対同じことを考えている。

 咳払いを一つ落として、無理矢理誤魔化す。


「じゃあじゃあ、今回の大会にお父さんとお母さんの靴をはいて出場することが、夏帆ちゃんの夢の足がかりってことなんだ」


「……そう……っす」


 先ほどまでとは打って変わって、夏帆ちゃんは歯切れ悪く口の中で言葉を濁す。

 夏帆ちゃんはなにかを言いかけるように口を開くが、それを吐き出す前に窓の外に目を向けて黙ってしまった。


 前方の信号が赤になり、プリウスが緩やかに停車する。

 同時に、渉瑠センパイが再びバックミラーをのぞき、後ろに視線を投げてきた。


「自信が、ない?」


 短く、そう尋ねた。

 びくっと、私の横で夏帆ちゃんが肩を震わせた。

 夏帆ちゃんが答えるより先に、信号は青に変わり、再びプリウスがゆったりと進み始める。


「はい……そうっす……」


 ハイブリッド車の静かな駆動音にもかき消されそうなほど小さな声で、夏帆ちゃんは呟いた。

 体にため込んだものを吐き出すように、すっと息を吐き出す。


「いくら大きなことを言ったって、それでも負けちゃうかもしれない。そう考えると、ひどく、怖いんす」


 鍛え上げられた細くしなやかな、でも一目で強靱だとわかる足を握りしめながら、奥歯からぎりっと音がした。


「ただでさえ、自信をなくしているお父さんとお母さんの靴で、もし負けちゃったらって思うと、どうしても怖くて、足が震えちゃうんす」


 先ほどまでハキハキと鋭い雰囲気さえ感じさせていた姿は息を潜め、恐怖を押し隠そうとする様子は年相応に幼く見えた。


「全中の大会はもうすぐなんすよ。そんなタイミングで、おじいちゃんたちもそこまでこだわらなくていいんじゃないかって。先生も、せっかく今の靴でいいタイムが出せてるんだから、無理に靴を変えない方がいいって。友だちもみんな、みんな同じことを言うんです。でも、でも私は……」


 その先の言葉は続かず、すれ違った大型トラックの轟音が空気を飲み込んだ。


「だ、大丈夫だよ。お父さんとお母さんの靴をはけば、もっと速く走れるんでしょ? 今の岡山の大会で優勝できたんだから、全国大会でも絶対に勝てるよ」


 私は励ますように声をかける。

 言ってしまった言葉は、中見なんてない空っぽなものだった。でもそのとき、未来を見据えて、それでも悔しげに唇を噛むその幼い姿に、励ましの言葉以外かけられなかった。


 夏帆ちゃんは表情暗く俯いた。


「私も、そう思うっす。いや、もしかしたら思い込もうとしてるんすかね……?」


 すがるように目を向けてくる夏帆ちゃんに、私は喉の奥に魚の骨が引っかかったように言葉が出なかった。


「お父さんとお母さんが困っているときでさえ、なにもできなかった私に、本当にそんな大それたことができるのかなって。いくら地方の大会で優勝できたとしても、私は日本や世界の規模でみればちっちゃくてちっぽけな存在。そんな私に、本当に今私が口にしていることが、できるのかって……どうしても思ってしまうんす」


 夏帆ちゃんは涙声になりながらも、堪えきれなくなったように胸の内を吐き出していた。


 私は、私にはわからない、触れたこともない世界に、それ以上安っぽい言葉を紡ぐことができなかった。


 渉瑠センパイは、なにも聞こえていないように当たり前に運転を続けるだけだ。

 車内の温度がぐっと下がったように、血管に血ではないどろどろとした鉛が流れるような、そんな苦しい空気が流れる。


 夏帆ちゃんは嫌な空気を感じ取ったようで、はっと我に返って、無理に取り繕ったような笑みを幼い顔に貼り付けた。


「ご、ごめんなさいっす。わざわざ神戸まで送ってもらってるのに、こんなこと……。もし、嫌な思いをされたんなら、ここで降ろしてもらっても――」


「たしかに、君はちっぽけな存在ね」


 夏帆ちゃんの言葉を遮り、運転中の渉瑠センパイが言った。


「ちょっとセンパイ!」


 私が声を上げるが、渉瑠センパイは構わず続ける。


「日本の総人口は一億二千万。全規模で見れば、君は本当に本当にちっぽけな存在だ。一人の人間ができることなんてたかがしれてる。誰にでもできることもあれば、一人の人間には絶対できないこともあるし、大勢の人でやってもできないことだってある。君がお父さんたちの靴をはいて走ったからといって、優勝できる保証も、世界に行ける保証も、ましてや、お父さんとお母さんが自信を取り戻せるかなんて、そんなのわかりっこない」


 渉瑠センパイは小さく鼻を鳴らし、吐き捨てるように、告げる。


「自分の人生が特別で、意味があって、絶対に価値があるものだなんて、そんなものは思い上がりだ」


 渉瑠センパイの言っていることは、きっと間違っていない。普遍的な現実の一部分だ。

 でも、それを今、夏帆ちゃんに言う必要は……。

 夏帆ちゃんは手で顔を覆った。細い肩を震わせ、短く鼻をすする。


「ご、ごめんなさいっす。そうですよね。私の、思い上がりっすよね。やっぱり、私ここで……」


「ちょっと寄り道するよ」


 夏帆ちゃんの言葉を遮り、渉瑠センパイはウインカーを入れて車線を変更した。


「……え?」


 夏帆ちゃんが声を上ずらせながら聞き返すと、渉瑠センパイはハンドルを回しながら答える。


「思ったよりも、道がすいていた。このままだと早く着いちゃうから、ちょっと寄り道」


 それだけ言うと、これまで走っていた大きな道路を外れ、人通りの少ない道へと進路を変えた。何車線もの整備されていた広い道から、もっと複雑に入り組んだ細い道へと。

 渉瑠センパイは冷え冷えとした空気もまったく気にした様子もなく、これまで通り運転を続ける。

 なにを考えているのかわからなくて、私まで怖くなっておずおずと尋ねる。


「どこに、行くんですか?」


 渉瑠センパイは、指でとんとハンドルを叩いた。


「――神戸が見える場所」


 それだけ告げると、渉瑠センパイは再び口を閉ざした。それ以上答えるつもりがないようだった。ただ静かに、息をするように車を走らせていく。

 私も夏帆ちゃんも、先ほどまでのやりとりのせいもあって、なんとなく会話をする雰囲気になれなくて、進み行く車に身を任せた。



「さあ、着いたよ」


 スマホで時間を確認する。

 吉備中央町を出てから、四時間近くがたっていた。


 渉瑠センパイは、有料駐車場のゲートに五百円玉を一枚入れ、隅の方に車を停めた。

 到着した場所は、山道をずいぶん登った先にあった駐車場だ。深夜にも関わらず、結構な台数の車が停まっている。


 道中、私は夏帆ちゃんに気の利いた話の一つもすることができなかった。渉瑠センパイも必要最低限しか口を開かずに、黙々と運転をしていた。私たちの間に流れる空気はどこか重たく苦しい。

 しかし渉瑠センパイはそんなことまったく気にとめた様子もない。長時間運転をして凝り固まった体を、ぐーっと伸ばしている。


 不意に、冷たい夜風が袖から出た腕を撫でた。山をかなり登ってきた高所で真夜中。平地の岡山よりずっと冷え込んでいる。私はまだいいが、半袖短パン姿の夏帆ちゃんは突然の寒さに、ぶるりと体を震わせていた。


 渉瑠センパイは体を抱える夏帆ちゃんに視線を向けると、プリウスとのトランクをぱかりと開けた。


「山の上だからちょっと冷えるね。湊川さん、セーターどうぞ。相当でかいと思うけど」


 トランクの中にある衣装ケースから青いセーターを取り出される。


「あ、はい。で、ではお言葉に甘えて」


 受け取ったセーターを夏帆ちゃんは頭からずぼりとかぶった。

 青いセーターの丈は夏帆ちゃんの膝上くらいまであり、もうワンピースを着ているような格好だ。セーターの裾からわずかに短パンと、その先には細くしなやかなむき出しの足。背徳感を覚える格好だった。なにか、えろい。


「というか、なんで真夏の車にセーターが……」


「真夏でも、俺はもっと寒いところにも行くからな。晴礼もこれ、着ときなさい」


 差し出されたのは赤色の長袖パーカー。夏帆ちゃんのよりも少し薄手の生地だ。

 どちらかといえば細身とはいえ、ただでさえ数歳上で身長の高い渉瑠センパイの服。同級生の中でも平均程度にしかない私の体にも、夏帆ちゃん同様ずっと大きくてぶかぶかだった。

 パーカーはとても暖かくて、思わず腕の中に顔を埋めてしまう。ふわりと自分の知らない香りがして、男の人の服だと意識すると急にどきりとした。頭をぶんぶんと振って、なにやら沸き上がってきた気持ちを振り払い、熱を冷ます。

 私が内心あたふたしていることに気がついた様子もなく、渉瑠センパイは私になにかを差し出した。手のひら大のライトだった。


「俺は大丈夫だから、これで湊川さんの足下照らしてあげて」


 言って、自分はライトも使わずに、先頭を切って闇夜の中を歩き始める。


 街灯もほとんどなく月明かりしかない道は本当に真っ暗だ。ライトがあっても歩くのは怖い。にも関わらず、渉瑠センパイは私たちの歩く速度を気にしながらも、すいすいと進んでいく。

 夏帆ちゃんは先ほどまでの会話を気にしているのか、元気がなく、ほとんど口を開かない。なにを考えているのか悟らせない渉瑠センパイの顔色を、ちらちらとうかがっているようだった。


 ある程度舗装されたアスファルトの道を歩いて行くと、階段が見えてきた。渉瑠センパイはその階段の先へと続いていき、私と夏帆ちゃんもそれに続く。

 道中、旅行者のような人たちとすれ違った。こんな場所になにがあるのか、本当によくわからなかった。


 階段を登り切ると、急に開けた場所に出た。夜風がよく通る、山の上だ。先ほど日付が変わったばかりの真夜中であるにも関わらず、静けさの中にもいくつもの人の気配がある。


 暗闇の向こう側には、展望スペースが広がっていた。


 夏期休暇に入ったとはいえ、今日は平日。しかもほとんどの人が寝静まる深夜だというのに、それでも展望スペースには相当な数の人が集まっていた。ある人たちは友だちと、ある人たちは恋人同士で、ある人はカメラを携えた写真家など、多種多様な人たちが入り乱れている。

 人があまりスペースを見つけた渉瑠センパイが、先にその場所へと行き、私と夏帆ちゃんもそれに続く。


 展望スペースから見えるその光景に、私と夏帆ちゃんは言葉を失った。


 光。数え切れない光だ。


 見渡す限り、視界一面、まるで地上に満天の星空が輝いているように、世界が光り輝いている。それは街の光だった。私たちがいる展望スペースから見渡せる広大な街々が、闇夜でも眠ることなく世界を照らしている。


「……」


 隣で、夏帆ちゃんも同様に息をのんでいた。

 街の光を受けて、その目がきらきらと輝いている。


「【摩耶山掬星台まやさんきくせいだい】。兵庫県神戸市にある六甲山中央に位置する摩耶山から、神戸全体を見渡すことができる展望スポット。日本三大夜景の一つだよ」


 渉瑠センパイは、光り輝く神戸の夜景を前に、口を緩めながらそう教えてくれる。

 夜景は私もこれまで何度か見てきたし、写真も撮ってきた。テレビでも見たし、写真でも見てきた。どんなものか、知っているつもりだったし、見てきたこともあるつもりだった。


 それでも、この景色は――


「すごい……」


 視界を埋め尽くすように広がる神戸の夜景は、信じられないほど美しいものだった。

 私も夏帆ちゃんも、ほとんど声すら発することができずに見入ってしまう。


 やがて夏帆ちゃんは、小さく笑いをこぼし、明るい感情とともに息を吐き出した。


「私が神戸に住んでいたのは、生まれてから中学生になる前までなんすけど。私が住んでいた街、こんなに綺麗だったんすね」


 渉瑠センパイも、夜景に目を向けたまま、同じように笑みを漏らす。


「そうだよ。みんな、こんな綺麗な場所に自分が住んでいるって知らないんだ」


 街明かりに照らし出された渉瑠センパイの表情が、優しく揺れる。


「湊川さん、みんな、この広い世界に住んでいるちっぽけな存在なんだよ。世界はここだけじゃない。もっともっと広い。でも誰も彼も平等に、この世界のちっぽけな存在なんだよ」


 夏帆ちゃんが目を見張る。


「平等なんだ。俺も、晴礼も、君も。どんな人間も、変わらず等しくね。たしかに人はちっぽけで、得手不得手や、生まれながらにして持っているものに違いはある。でもそれは、行動することの、なにをやるかやらないかの理由には絶対にならないと思うんだ」


「……どういうことっすか?」


 感情を押し殺した低い声で、夏帆ちゃんが問う。

 渉瑠センパイは変わらず笑みをたたえたまま、続ける。


「もしさ、君は陸上の大会で優勝なんてできないって誰かに言われてたら、走らなかった?」


「え……?」


「君がやろうとしていることなんて無意味だ。無価値だ。絶対に成功なんてしない。誰かから、陸上競技を始める前にそう言われたら、陸上競技なんてやらなかったのか。そう聞いてるんだよ」


 夏帆ちゃんは俯き、答えなかった。

 口を震わせ、なにかを答えようとするが、それは音にならずに消え入った。


「俺もさ、止まれないから、わかるんだ」


 夏帆ちゃんが驚いて顔を上げた。


「もうかれこれ一年以上、俺は車で旅をしている。日本全国ね。俺がやっていることを誰かに話すと、みんなに言われる。なんでそんなことをしているんだとか、意味がないとか、時間の無駄だとか、暇人とか、そんな時間があるなら勉強しろとか、ああもうっ、鬱陶しいくらいにいろいろ言われるよ」


 渉瑠センパイの言葉が、徐々に熱と気持ちを帯びていく。


「でも、知ったことじゃない。知ったことじゃないよな。俺は、俺がやりたいからやっているんだ。誰かに言われたからでも、やらなかったとしても誰かが困るわけでもない。けど俺が、俺たちがやろうとしていることは、俺たちがやりたいことは、俺たちにとって、やらなければいけないことなんだよ」


 淡泊で感情の起伏が乏しい印象の、普段の渉瑠センパイからは想像もできないほど言葉に意志がこもっていた。


「湊川さんも、お父さんとお母さんから、自分たちが作った靴で走っても、意味がない。そんなことをしなくてもいいって、言われたんでしょ?」


「……はいっす」


「それでも君は走った。俺たちが見ている、街の光ほどある競争相手を押し乗せて、全国の舞台を手に入れて、それを自分がやれるという根拠を手に、両親に直談判をしに行こうって考えてる。晴礼はこれ、どう思う?」


 まさか突然話を振られるとは思っておらず、私はびくりと肩を震わせた。


「え、えっとえっと、すごいって、かっこいいって思います」


「うん、俺もそう思う」


 再び、渉瑠センパイが夏帆ちゃんに向き直る。


「湊川さんがやろうとしていることは、すごいことで、かっこいいことだ。少なくとも俺たちはそう思うよ。君みたいな中学生の女の子が、世界の舞台を夢見て、全中陸上に出場する権利を得て、一人、道の駅で神戸まで自分を連れていってくれる人を探していた。断言するよ。こんなことができる人間、君を否定してきた人たちの中に、一人だっていやしない」


 夏帆ちゃんが他の人たちと、普通の中学生と変わっていることは、きっと事実だ。


 それでも、渉瑠センパイは、ごくごく当たり前の女の子に接するように、続ける。


「湊川さんは湊川さんが卑下しているとおり、ちっぽけな存在なのは間違いないと思うよ。でも湊川さんがこれまでやってきたこと、それから今、そしてこれからやろうとしていることは、とても大きな価値を持ったものだ。だってそれは――」


 涼しい風と光り輝く街を背に、渉瑠センパイは微笑んだ。


「湊川さんが、お父さんとお母さんのためを想って、やっていることなんだからさ」


「……っ」


 夏帆ちゃんの瞳が揺れる。

 目元には小さな雫が浮かび、泣き出しそうに唇が震える。悲しみなんて暗い気持ちではなく、もっと違うなにかの感情をたたえて。


 これまできっと、誰も夏帆ちゃんにそんな言葉をかけてあげる人はいなかったのだ。教師や友だちや、一緒に住んでいるおじいさんやおばあさんたちでさえ、きっと誰も。誰も、夏帆ちゃんのやってきたことを、やろうとしていることを肯定してあげなかった。


 普通の人には理解できないこと、理解しようもないことが、この世界にはあふれている。夏帆ちゃんが、渉瑠センパイが、そして、私がそうであるように。

 でも渉瑠センパイは、夏帆ちゃんの話を聞いて、夏帆ちゃんを見て、その上で夏帆ちゃん自身を肯定してあげた。

 それは夏帆ちゃんに、どんな風に届いたのだろうか。


「俺は、いや、俺たちはあてのない旅をしている。もし君が本当に帰りたいんだったら、今からでもおじいさんたちのところに返してあげるよ。俺も晴礼も、それで怒ったり、迷惑したりもしないから。最後に、もう一度聞くよ」


 渉瑠センパイは、夏帆ちゃんに向けて、優しく言葉を紡ぐ。


「お父さんとお母さんのところに、本当に行きたいかい?」


 夏帆ちゃんの喉が震える。


「わ、わた……私は――」


 そのときだ。


「あ、ああああ! 誰かその子捕まえてえええ!」


 闇夜を切り裂き女性の大声が響き渡る。

 女性が大慌てで追いかけるその先には、街灯に照らし出された展望スペースを縦横無尽に走り回る柴犬の姿があった。うっかり手を離してしまったのか、首輪につながれたリードは情けなく地面を引きずられ、柴犬は展望スペース内を走り回っている。

 近くにいた人も捕まえようと近づくが、人に慣れていないのかそもそも落ち着きがないのか、人が近づくと逃げるまあ逃げる。簡単に捕まえることができるはずもなく、柴犬は展望スペースを走り回る。


 私の隣で、渉瑠センパイがげんなりと肩を落とす。


「はぁ……ここ、ペット連れ込み禁止なんだけどな……」


「つっこむところそこですか」


 こんな深夜に柴犬が整備された場所の外に出てしまえば、簡単に見つけることなんてできない。

 見るに見かねて、渉瑠センパイや私も行こうかと体を向けたとき――


 風が走った。


 同じ人間とは思えない瞬発力で、私と渉瑠センパイの間を飛び出したその影は、逃げ回る柴犬へと一直線に駆け抜ける。そしていとも簡単に追いついて、小さな体でその行く手を阻んだ。

 柴犬が驚いて方向を変えようと体をよじらせた瞬間、跳ねたリードが掴み取られる。


「めっ!」


 柴犬に向かって一喝。柴犬は、頭を地面に伏せてうずくまった。

 大人しくなった柴犬の頭をよしよしと撫でて、リードをしっかりと握って立ち上がる。


「「「おおおおおお!」」」


 瞬間的な逮捕劇に、周囲のノリのいい若者たちから拍手喝采が沸き上がる。

 柴犬を捕まえた夏帆ちゃんは、恥ずかしそうに笑い、飼い主の女性に柴犬を返していた。


 照れながら戻ってきた夏帆ちゃんの表情を見ると、先ほど渉瑠センパイが問うた質問の答えは、もう聞く必要がないようだった。

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