ちっぽけなランナー -3-


 光り輝く神戸の街を、ぼうっと眺める。


 ここに来るのももう何回目か。

 岡山からほどよく近い場所にあり、日本でもトップクラスの夜景が見える場所。

 ここでは自分を認識することができる。嫌でも、させられる。俺はこの世界にいるちっぽけな存在で、どこまでいっても、どこにでもいるただの人。


 視線を下に向ける。


 高い展望台からは暗い地面がずっと下に見える。

 軽く柵を跳び越える。体が、闇の底へと落ちて行く。

 自分自身の肉が潰れる音と感触を一瞬だけ抱き、そして無に返る。

 それほどの高さではないが、足から落ちれば死ぬことはないにせよ、頭から落ちればたかだか五、六メートルからでも十分に死ぬことができるらしい。

 これくらいの高さがあれば、大丈夫だろう。


 ずきりと、胸に痛みが走る。


 気がつくと、自分の体は闇の中に落ちているわけもなく、展望スペースの上に立っている。わずかに顔をしかめながら、そっと胸を押さえる。


 うるさいな。わかってるよ。


    Θ    Θ    Θ


「遅い……」


 小さく呟き、腕時計を見やる。かれこれ三十分くらい、晴礼が帰ってこない。

 柴犬脱走事件直後、晴礼は車から取ってきたいものがあるとかで、俺から車の鍵を受け取ると駐車場へと戻っていった。しかし、それっきり戻ってこない。こんな時間に一人で行かせたくはなかったのだが、大丈夫だからと走り去ってしまったのだ。


 俺は湊川さんと二人、【摩耶山掬星台】から夜景を眺めていた。

 やがて、頭を掻いてため息を吐いた。


「えっと、湊川さん」


「はい?」


「さっきはごめんね。偉そうなことを、知ったかぶりで言っちゃった」


「い、いえいえいえ! 偉そうなんて、そんなことないっすよ。こんなところまで連れてきてもらったのに、帰りたいみたいなことを言い始めた私が悪かったんすよ」


 湊川さんは、吹っ切れたような表情で眼下に広がる夜景を見下ろしている。


「広瀬さんに言ってもらって、すっきりしたっす。間違っているとか、正しいとか、失敗するかもとか、そういうことじゃないっすもんね。全然違う。大事なことは、私がどうしたいかっすもんね」


 自らの小さな手を見下ろし、笑いながら、なにを掴むように握りしめた。


「誰かになにを思われても、なにを言われても関係ない。私は、私がやりたいからやる。だから」


 すうーっと、小さな体一杯に空気を吸い込み、そして――



「お父さんとお母さんの靴で全国制覇してやるぞおおお! 待ってろよバカ親どもおおおお!」



 光り輝く街を前に、これまで周囲の目と自分自身を疑っていたちっぽけなランナーは、人目もはばからず自らの意志を吐き出した。


 展望台にいる人たちが一斉に視線を向け、何事かとささやき始める。


「ちょ、ちょっと、湊川さん……」


 俺は思わず苦笑するが、それでも湊川さんは、輝かしく楽しげに笑っていた。俺たちの前にある夜景のように、どこにでもある景色でありながら、唯一無二の光をたたえて。


 ぱっと、俺たちにライトが当たる。直後、シャッターが切られた。


「いい笑顔、いただきました」


 シャッターを切っていたのは晴礼だ。

 いつも持ち歩いている一眼レフカメラの下には、細身の三脚が取り付けられている。車に取りにいったものはそれだったようだ。


「ずいぶん遅かったな」


「すいません。ナンパしてくる人たちから逃げるのに時間がかかりました」


 だから一人で行かせたくなかったんだ。ここ、パリピな若者も多いから、ナンパも多いのだ。なまじ容姿がいいだけに、晴礼もナンパされるであろうことは十分予想できた。


「夜景とか星空を撮るには、三脚がないと撮れないんですよね。ぶれちゃうんです。でもこうして三脚を立てて、ライトとかも当てれば表情だって撮れます。こんな風に」


 向けられたカメラの画面には、苦笑する俺と、にこやかに笑う湊川さんが映っていた。


「おおおおおお!」


 湊川さんが写真を見て大興奮している。


「お、夏帆ちゃんこの写真いる? ラインを教えてくれたら、あとで送るよ?」


「い、いるっす!」


 びしっと、スマホを掲げて湊川さんが言う。


 悪い写真とは言わないが、俺がそんな微妙な顔で写っている写真をほしがられても困るのだが。


 連絡先の交換を始める二人を尻目には、俺は一人でゆっくりと夜景を眺めた。

 もうここには何度も来ているけど、来るときはいつも一人だった。だけど今、俺の側には二人の道連れがいて、一緒に景色をともにしている。こんな風に、誰かと同じ時間と空間を共有すること自体、とっても新鮮だ。


 先ほど、再び痛んでしまった胸に、手を当てる。ずきりずきりと不穏な痛みを響かせるこれとも、気がつけば結構な付き合いだ。なにもかもが変わってしまったあの出来事から、俺は一人で旅をすることを決めた。どうすればあんな結末にならずにすんだのか。今でも考えて、結局俺の力ではどうすることもできなかったんだろうと、納得することしかできない。


 俺は特別なんかではなかった。俺の人生に大きな価値なんてないとわかってる。それが、どうしても……。


 不意に、服の袖を引かれて、現実に引き戻される。

 振り返ると、晴礼がスマホの画面をこちらに向けていた。


「センパイの連絡先も教えてくださいよぉ。連絡取れないと困るので」


 連絡が取れなくて心配していたのはこっちですけどね。


「はいはい、わかりましたよ」


 しかし、たしかに連絡先を知らないのは面倒である。はぐれでもしたら目も当てられない。なにせ晴礼の連絡先を聞けるようなクラスメイトや友だちはいないのだ。泣ける。

 そうこうしながら、俺と晴礼がスマホを向け合ってラインを交換していると、その間で湊川さんが首を傾げた。


「え? なんで、連絡先知らないんすか? お二人って、恋人同士なんすよね?」


「「……あ」」


「そういえば、車で食べ物を食べていいのかとか、車にも初めて乗るようなことも言われてましたし。それになんか、あまりお互いのことを知らなさそうですし……。え、ええ? あれ?」


 俺はさっと顔を背ける。知らん。俺は知らんぞ。


「セ、センパイ逃げるのやめてください! ち、違うの夏帆ちゃん! な、なんか違うの!」


 なんかってなんだよなんかって。


 晴礼は不意打ちに取り乱し、頭を抱えてわたわたし始める。


「ああ、も、もう! その話はあとでするから!」


 するのか。俺は別に構わないけど。


「とりあえず集合! 三人で、夜景をバックに写真を撮ります!」


 晴礼は手早く夜景も入り、俺たちも入る撮影スポットを見つける。


「はい、夏帆ちゃんもうちょっと渉瑠センパイに寄って。なんならしがみついてもいいよ」


「よくねえよバカなにけしかけて」


「は、はいっす!」


 しかし湊川さんは、俺の腕をとって体を寄せてきた。


「ちょ――」


 途端に体温が上気し、悲鳴を上げそうになるのを必死に押さえ込む。


「あ、あの、湊川さん? もうちょっと離れてもらっていい? あ、暑いんだけど」


「せっかくなので記念に! だ、大丈夫っす。私は大丈夫っすよ!」


 なにが大丈夫なんだ。

 逃れようにもがっつり腕を取られているので、抜け出せそうにもない。さすが岡山代表選手鍛えてますね。つうか五つも年下とはいえ、女の子にしがみつかれると、あれだあれ、いかんぞ。

 とか考えていると、カメラの上に小型ライトを取り付けた晴礼がこちらに駆け寄ってきた。そしてなぜか晴礼まで、湊川さんの反対側の、俺の腕を取った。


「……お前までなんだ。近い近い」


 晴礼はにやにやと茶目っ気あふれる笑みを浮かべていた。


「いやいやー、これくらいしないとカメラの画角に入らないんですよ。我慢してください」


 言いながら、そんな必要がどこにあるというくらい体を押し当てくる。両サイドから女の子の軟らかい体に挟まれて、言い様もない羞恥に襲われる。

 そして周りからの視線が痛い。このままリンチにでも遭うんじゃないかというくらい痛い。


「はーい、じゃあいきますよー」


 仕方なく、この体勢のままカメラに視線を向ける。

 晴礼がどこからか取り出したリモコンで、シャッターを切った。


 夜景を背に眩い笑みを称える女の子二人に挟まれ、野郎が引きつったな笑みを浮かべていた。


 そんななんとも言えない写真に、晴礼と湊川さんは大笑いしていた。

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