最後のまほろば -1-
翌朝。
目を覚ましたときには、すっかり日が昇っていた。
隣の枕は空っぽ。どこにも晴礼の姿はなかった。眠る最後までずっとつないでいた手は布団の中に納められていた。それでもまだ手のひらに、誰かの温かみが残っている気がした。
洗面所でばしゃばしゃと顔を洗う。久しぶりによく眠ったからか、溶けたような情けない顔が鏡に映っている。苦い笑いを落として、もう一度ばしゃりと水で顔を打つ。
晴礼はどこかに行ったきり、帰ってくる様子はなかった。
なので、昨日はゆっくり入れなかった温泉にもう一度だけ入った。さすがに昨日あんなことがあった手前、晴礼も乱入してくることはないだろう。
露天風呂の外には、晴れ晴れとした朝空が広がっていた。澄み渡る空はどこまでも綺麗だ。
頭の先まで湯船に沈め、だらしなく開いた口からぼこぼこと息を吐き出す。穴があったら入りたい。どこまでも入りたい。マントル付近まで沈みたい。
みっともなく内面を吐露してしまったことに、今更ながら恥ずかしさでいたたまれなくなる。父さんや千波さん、大地や渚にもここまでのことを吐き出したことはない。いっそ夢だと思いたい。
しかし、昨夜のことはあまりにも鮮明に頭に焼き付いており、夢などとは到底思えなかった。
はぐらかすことなんていくらでもできた。だけど晴礼に伝えてしまったのはきっと、俺が自分のことを晴礼に知ってもらいたかったから。この胸の傷のことを、進歩のことを話さないままにしておくのは嫌だったから。その理由を考えると、顔が馬鹿みたいに熱くなった。絶対、温泉のせいだ。
温泉から出てしばらくたっても、晴礼は帰ってくることはなかった。部屋で食べる夕食とは違い、この旅館の朝食は豪華なビュッフェとなっている。もしかしたら晴礼はそっちにいるのかもしれない。
再び浴衣に着替え、髪を乾かして部屋を出る。
朝食ビュッフェを行っている会場に向かうと、予想通り晴礼がいた。予想外だったのは、仲居の着物を着てせっかせっかと料理を運んでいたことくらいか。
「なにやってんだよ」
人目もはばからず、ぱしりとその頭にツッコミを入れてしまった。幸い、朝早く誰もいなかったが。
「あ、渉瑠センパイ。おはようございまーす」
いつもの五割増しに輝かんばかりの笑みで手を上げて挨拶を返してくる。昨日のしおらしい姿は下呂の彼方へと消え去ったようだ。
「なんでまだ仕事しているの? ここで一生働くの? どんな弱みを握られてるの?」
「いやー、おなか減ったなーと思って館内をうろついていたら、ばったり千波さんに会いまして」
「もういいぞ。わかった全部わかった」
あの人、いくら親類の連れだからって好き勝手使いすぎだろ。というか、こいつも断ってくれ。
タイミングよくか悪くか、厨房から千波さんも料理を載せた大皿を手に現れた。
いつも通り、ばっちり着込んだ着物には一分の隙もない。
「ああ、渉瑠、おはよう」
「おはようじゃない」
「うきみそーちー」
「なんで沖縄方言!? なに勝手に人の連れを労働に使ってるんだ」
千波さんは表情一つ崩さず、あっけらかんと笑う。
「人手不足なのよ。いいからあんたも手伝いなさい」
いいからの意味がフェルマーの最終定理並みに意味不明。だが千波さんは正論を聞いてくれる人ではない。
この細腕のどこにそんな力が、と疑いたくなるような怪力でバックヤードに引きずり込み、男物の着物を投げ渡してきた。
いつもならお金を払って完全に客というポジションだから手伝うなんてしない――いや、思い返せば毎度なにかしら手伝わされている気がする――が、今回は昨日の届け物の件もある。お金を受け取ってくれそうもない。しぶしぶと、面倒なことこの上ないが、手伝うことにする。
俺は千波さんの親類ということで、何度もこの旅館を使わせてもらっている。周知の事実なので、従業員の人たちも気安く話しかけてくれる。彼女と旅行中に申し訳ないねだとか、リア充爆発しろだとか、千波さんに結婚申し込みますと指輪を手にハァハァしている人とか、普通な人からぶっ飛んだ人まで様々だ。
徐々に多くの宿泊者が朝食に訪れるようになり、俺は裏方で必死に皿洗いをしていた。晴礼は晴礼で、せっせとフロアの仕事をこなしていた。アルバイトの経験でもあるのか、非常に手際がいい。従業員の人たちにも好評だった。
「うおっ、すっごいかわいい子!」
「たしかにいいねー。この後一緒に、温泉でもどう?」
温泉旅館の従業員にナンパをしかける面倒な集団に捕まったりもしていた。晴礼は確かに容姿もいいが、従業員の中でも群を抜いて若い。嫌でも人目を引いていた。よく考えなくても女子高生。若いのは当然である。労働基準法的に大丈夫なのだろうか。給料、給料あげてー。そんなナンパや質問などにも、他の従業員と連携しながらうまくやり過ごしていた。
結局朝食ビュッフェが終わるまでしっかりばっちり働かされるはめに。
俺は厨房で、晴礼はフロアで最後の片付けを行っていた。
うずたかく積まれた皿々を、千波さんがどさりとシンク脇に置く。
「そういえば、晴礼ちゃんから聞いたんだけど……」
途端、ぎくりと胸がざわついた。
「昨日の夜、晴礼ちゃんに手を出さなかったそうじゃない。あんた、もしかして不能なの?」
「……はっ倒すぞ」
斜め上過ぎる斜方砲撃に、思わず素が出てしまった。
「なんのために同じ部屋にしてあげたと思ってるのよ。わかってないわね」
「余計なお世話ここに極まれりだ。そんなことをこの旅館でしようものなら従業員の人たちと顔を合わせられないだろ。俺になにをさせるつもりなんだよマジで」
最悪二度と訪れることができなくなるかもしれない。社会的な死である。
「ちっ、相変わらず堅物ねー。あんなかわいくていい子と一緒にいて、なんとも思わないの?」
「……」
思わず黙ってしまった。
「おっ? もしかして脈あり? 結構いけちゃう?」
いけちゃうってなんだよ。なにもいけねぇよ。
とはいえ、なにも思わないことは、ない。
だが俺にも事情があり、あいつにも事情がある。それを口にすることはできない。
「……うるさいな。千波さんこそ早く恋人見つけろよ。行き遅れるぞ」
「あははは、余計なお世話だガキが」
見事なブーメランにも、千波さんは楽しげに笑っていた。相変わらず掴み所の難しい人だ。
すべての仕事を終えると、お手伝いのお礼にと、料理長が張り切って朝食を作ってくれた。和洋中が混在する、普通に注文すれば高名な学者さんが必要だと思われるほどの、絢爛豪華な朝食だ。
朝一番からとんでもない量の食事だったが、腕によりをかけられた料理は間違いなくこの夏最高の料理だった。夕食の味を覚えていないのは、これでお許しいただきたい。
そしてようやく一段落が付き、俺たちは宿泊と労働を終えた旅館を出ることになった。
「千波さん千波さん! 写真撮りましょう写真! ほらほら渉瑠センパイも!」
晴礼は見送りに来た千波さんを捕まえ、ついでに俺の腕も掴んで旅館の入り口に引っ張り出す。自身を中央に、左右に俺と千波さん、背景に旅館を入れる。
三脚を立てたカメラで、カシャリと一枚。
「またいらっしゃい。労働力になってくれるんなら、いつでも無料で宿泊させてあげるわよ」
それは体のいい住み込みバイトではなかろうか。給料出してあげて給料。
「では、次の連休には是非に!」
しかし晴礼は乗り気。ずいぶん千波さんを気に入ったようでなにより……なによりか?
千波さんは俺に向き直ると、その白く綺麗な手で俺の頭をぽんと叩いた。
「彼女と来るのもいいけど、次に来るときは、おじさんも一緒に連れてきなさい」
続いて、俺の頭を叩いた指で、胸の真ん中をとんと押した。
「渉瑠と進歩とおじさんと、また一緒にね」
「……うん、次はそうする」
「よろしい」
千波さんは満足げに頷き笑い、俺の髪をくしゃくしゃと撫で回す。
傍らで、晴礼が嬉しそうに顔を綻ばせているのが見えた。
そして俺たちは最後の〈まほろば〉、旅の終着点へと向けて、プリウスを走らせた。
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