旅の始まり -2-
俺が生まれてから十九年過ごした岡山の街に、自転車を走らせていく。
中国地方の端に位置する、大都市と比較すれば小さな街。だけど、俺たちが生まれ育った大切な場所だ。
岡山は晴れの国と言われるほど雨量が少ない地域だ。その由来通り、今年もほとんど雨が降っておらず連日猛暑日。自転車を走らせるアスファルトは真夏の日差しを受けて、腹が立つほどの熱気を放っている。
滝のような汗を流しながら自宅へと帰り着いたときには、正午を回っていた。
大きな車庫を備えた一軒家。住み慣れた我が家である。
自転車は家の中に運び込み、玄関の隅に立てかけた。帰宅した家には誰もいない。閑散とした生暖かい空気だけが、俺を迎えてくれる。
俺の家族はもう父さんだけだ。ただ父さんも、単身赴任で長期家を空けている。ここ二年ほどは実質一人暮らしだ。
だが、俺もこの家をすぐに出る。いつも通り、これまで通り、決めていた通り、行かなくてはいけない。
今朝までに一通り必要な準備は終えている。不安なのは忘れ物だが、それは次回までに改善するとしよう。
短い間だけ着ていた制服のブレザーを脱いでリビングにつるす。そして白い半袖パーカーとジーンズに着替える。
昨日までにすませている戸締まりや冷蔵庫の整理、電源類も改めて確認していく。
長期家を空けることは日常茶飯事なので、家に貴重品の類いはほとんど存在しない。それでも空き巣に入られでもしたら笑えない。気がつくは一ヶ月後、なんてことになる。
すべての確認を終え、些細な生活音すらしないリビングを見やる。
遠い記憶の彼方で、おそらくはありふれた幸せな時間を、家族と過ごしていた世界。光が差し込む窓際の棚に、一つのフォトフレームが置かれている。
俺たち家族が四人で撮影した、最後の写真。母さんは俺たちがまだ小学生のころ、病気で亡くなった。そして、もう一人も――。
いつものように、家族で写るその写真に笑顔を向ける。
「いってきます」
写真に背を向け、リビングをあとにする。
玄関に用意していたショルダーバッグに財布やらスマホやらを投げ込み、家を出る。
自宅の横にある銀灰色の車庫に近づき、ポケットに入れていたリモコンを押す。聞き慣れた耳を刺激する金属音とともに、シャッターが上がっていく。
そして、それは現れる。
薄暗い車庫の中でも強い存在感を放つ、黒いボディカラーにあくの強い顔つき。数年後を意識したと言われる流線型かつ大胆なフォルム。斬新なデザインは発表当時多くの注目を集めた。
トヨタ車製自動車第四世代プリウス。俺の愛車である。
昨日のうちにくもり汚れ一つなく磨き上げたプリウスが、さっさと走らせろといわんばかりに威圧感をもって訴えてくる。
ひんやりした車体にそっと触れると、思わず笑みが込み上げた。
「また長い間、よろしく頼むよ」
カシャ。
不意に、車庫のすぐ外でなにやら聞き慣れない音が響き、振り返る。
視界にあるのは、馴染みのある住宅街の道並み。ご近所さんが出てきているわけでもなく、通行人がうろついているわけでもなかった。ましてや野良猫やイノシシがいるわけでもない。
しかし、車庫のすぐ外になにかが落ちているような違和感を覚え、視線がのろのろと下に行く。
そこに、なんかいた。
車庫のすぐ外で、黒光りするカメラがこちらを向いている。
本来は車が走るアスファルトの上に伏せるように全身をつける、小さな不審者がそこにいた。
俺が視線を向けているにも関わらず、動じた様子もなく、さも当然のようにもう一度シャッターが切られる。
「……」
声が出なかった。なにやってるんだこいつ。
不審者の傍らには白いトラベルバッグが転がっており、その上には青い小さなボストンバッグが置かれている。一見すると、旅行者に見えなくもない荷物。ただ、やっていることがマスコミもどん引きしそうな撮影スタイル。
頭が働かずただ茫然と眺めていると、ようやく俺の視線に気がついた不審者は、はっと我に返って跳び起きた。
「あっとあっとえっとえっと! す、すいませんすいません! いい顔をしていたらつい撮ってしまいました!」
起き上がると同時に、ストラップで首から提げているカメラが跳ねる。
そして大事そうにカメラを抱えたまま、不審者はぺこぺこと頭を下げる。空色のカーディガンに膝丈のスカート姿の不審者は、俺と同い年くらいの女の子だった。
しかし、改めて姿を認めると、俺はその人物に眉がねじ曲がった。
「……花守?」
「はい! 広瀬センパイと同じクラスの花守です!」
びしっと姿勢を正しながら、快活に不審者は名乗る。
ほとんどブレザー姿しか見たことがなかったのでぱっと見てもわからなかったが、まさかのクラスメイトだった。
花守はいつも教室でそうしているように、明るく笑いながら続ける。
「今回は今回は、センパイにお願いがあってきました!」
側に置いていたトラベルバッグをがらっと引いて、一歩こちらに踏み出した。
普段教室で見かけるお気楽な佇まいから、一瞬で雰囲気が変わる。
強い決意の込められた視線とともに、少女が願いを口にする。
「センパイ! 私を、私を車で行くセンパイの旅に、一緒に連れていってください!」
俺が自分で運転する車で旅を始めたのは、今から一年と少し前のことだ。
まだ運転免許を取得することができない時期から、今考えれば正直無謀としかいえない過酷なアルバイトを実施。どうにかこうにかお金を貯めて、父親名義でプリウスを買ってもらった。
俺は高校を二度留年している。さらに誕生日も四月。免許を取得できる時期が早かったこともあり、高校生の身で合法的に車を運転することができる。
そのおおよそ高校生が持ち得ない特権を行使し、俺は自分で運転する車で日本全国を旅している。長期休暇や祝日を含めた連休はもちろん、平日も数時間あれば車をあてもなく走らせている。
赤磐先生からも指摘を受けているとおり、当たり前だが高校からの印象はよろしくない。今のところ問題こそ起こしていないので、即刻止めろと指導を受けたことは一応ない。しかし、時折教頭先生や生徒指導の先生からちくちくねちねちとお小言はもらっている。砂一粒ほども気にしたことなんてないけど。
隠しているわけではないので、高校生で車を運転できるという大きなアドバンテージは自然と広まっている。校則では登下校の自動車使用は禁止されている。けれど、免許の取得や校外での使用については特に制限がないのだ。
だが――
「悪い……言っている意味がわからない……」
俺は目の前で頭を下げるクラスメイトに、思わず頭を抱える。
びくりと肩を震わせ、花守は顔を上げた。怯えたような、不安げなような感情が入り交じった目をしている。
高校生として運転ができるといっても、タクシー業をしているわけではない。ただ自分のために、必要だから一人旅をしているだけだ。実際は、何度か人から頼まれて車を出したことはあるが、状況が特殊だったからだ。
「……一つ、謝っておかないといけないことが」
別に怒っているわけではないのだが、花守はおっかなびっくり小さな手帳を差し出した。
「ん……? これ、俺の手帳?」
差し出されたものは、先日からどこかにいってしまっていた、俺の手帳だった。旅支度の持ち物リストや、行ってみたい場所などをメモ書き程度に書き記しているものだ。
「ぬ、盗んだんじゃないですよ! ほ、本当です! 何日か前に教室で拾って、すぐにセンパイのものだって気がついたんですけど、言い出せなくって……」
「そんなことを疑っている訳じゃないけど……」
落としたときのために住所や電話番号は書いているが、他は見られて困る内容でもない。
「言われている意味がわからない。君を、俺の旅に連れていってくれってどういうこと?」
「は、はい。手帳を見たとき、センパイがよく車で旅をしているって、友だちが話しているのを思い出して。それで、私も一緒に連れていってくだされば、うれしいな、と」
それで、と、私も、の文字間がワームホールレベルにいろいろ吹っ飛ばしている。彼方の惑星目指して旅を始めちゃうよ。
花守ははっとしたように口に手を当てた。
「えっとえっと、だからだから!」
慌てふためきながら、花守は頭を抱えて身もだえる。
頭が口に付いていかなくなると言葉を重ねてしまう癖があるようだ。どうでもいいけどおもしろい。
しばらくじたばたしたあと、少し落ち着いた花守は、首から提げたカメラにそっと触れた。
「行きたい、〈まほろば〉があるんです……」
「……〈まほろば〉?」
「あ、すいませんすいません。〈まほろば〉っていうのは、昔の言葉で、素晴らしい場所って意味なんです。綺麗な場所とか、住みやすい場所とか、そういう意味で使われる言葉なんです」
聞き慣れない言葉だったが、つまり花守は、その〈まほろば〉という素晴らしい場所に行きたいということらしい。
「センパイは、いろんな観光地や名勝を旅しているって、噂を聞きました」
「ああ、そうだよ」
俺の旅に明確な目的地はない。
旅行と旅の違い。一説には、目的地があれば旅行、目的地がなければ旅というものがある。だから俺は自分がやっていることを旅と呼んでいる。
景色のいい場所や神秘的な景色、不思議な現象が見られる場所や、古くから大事にされてきた文化財、パワースポットなどなど、気になった場所を気のむくまま旅をしている。しかし、そこまで詳しく人に話すことは少なく、花守が意外にも俺のことをよく知っていることがわかる。
花守は懐かしそうに目を和ませながら続ける。
「この〈まほろば〉っていう言葉は、私がお父さんから教えてもらった言葉なんです。お父さんは大の旅行好きで、私もいろんな素敵な場所に、〈まほろば〉に連れていってくれたんです」
意志の強そうな言葉で、希望に満ちあふれたきらきらとした目で話す年下のクラスメイト。
対称的に、俺の肩はげんなりと落ちていく。
「ええっと……その素晴らしい場所に行きたいってことか? それってどこのこと?」
花守はかぶりを振り、傍らに置いていた青いボストンバッグに触れた。
「わからないんです。お父さん、もう長い間入院していて、ずっと、眠ったままなので」
「……入院?」
「はい。昔から病気がちだったんですけど、最近はほとんど寝たきりの生活をしています」
それでも、と懐かしさを吐き出すように、花守は微笑む。
「お父さんは、私をいろんな場所に連れていってくれたんです。ずっとずっと昔、私がもっと子どもだったころ、多くの〈まほろば〉にお父さんが連れていってくれた。私が行きたい〈まほろば〉は、お父さんが最後に連れていってくれた場所なんです。でも私は、その場所がどこかわからない。すごく綺麗な場所っていう記憶しかないんです。お父さんもずっと眠ったままだから、そこがどこだったかを聞くことはできない。でも――」
和やかな雰囲気から一変、意志を帯びた眼差しが真っ直ぐ向けられた。
「その〈まほろば〉を、お父さんにもう一度見せてあげたい。その景色を、〈まほろば〉をカメラで撮って、眠ったままですけど、お父さんに見せてあげたいんです」
花守の小さな手が、無骨な黒いカメラをきつく握りしめている。その手は、わずかに震えていた。
俺みたいな年上のクラスメイトが怖いのか、自らの願いを口にするのが怖いのか。それともまた別のなにかがあるのかは、うかがい知ることはできなかった。
それでも花守は引くことも逃げることもなく、重ねて言葉を口にする。
「お願いです。私を、お父さんと最後に行った、〈まほろば〉まで連れていってください」
迷いも含みも感じさせない願い。愚直なまでに真っ直ぐな少女の言葉。
俺は顎に手を当て、考える。出来の悪い頭で一生懸命考える。
つまりは、花守は俺の車でいく旅に同行したいと。そして目的地は、旅行好きのお父さんと最後に訪れた素晴らしい場所、〈まほろば〉であると。さらには、その〈まほろば〉がどこかはわからず、それを聞こうにもお父さんは寝たきりだと。
ふむふむふむ………………は?
「いやいやいや、ちょっと待てやこら」
まとめるつもりだった思考が、大脳内部で爆散した。
狼狽し始める俺を見て、なぜか花守が目を丸くする。こっちの反応だろ。
「え、なに? 行きたい場所がどこかもわからないで、俺の旅に着いてきたいって言ってるんか?」
「はいそうです」
「そ、そうです、じゃないだろ! 行きたい場所があるって、その場所がどこかもわからずどうやってたどり着くっていうんだよ!」
なぜこっちがこれほど動揺しなければいけないのか。
花守は少し体をびくつかせながらも、必死の形相で口を開く。
「だだだだだってだって、センパイはいろんな場所に行ってるって聞いてっ。一緒に着いていけば、もしかしたら私が行きたい場所にも行けるかもって!」
「い、行けるわけないだろ! たしかに夏休みをフルに使えば百を超える観光名所だって巡れる。今回だって二百の名所は回るつもりだった。でも、どこかもわからない場所にたどり着ける可能性なんてあるわけ――」
まくし立てるように言い放つ俺の言葉を遮るように、花守が俺の服にしがみついた。
「――それでも、それでも行きたいんです!」
小さな体が、手を震わせながらも服を掴んで離さない。
普段高校で見る、明るく快活なだけという印象が嘘かと思うほど、視線が真剣な熱を帯びていた。
「子どもの私に、なんの力もない高校生の私に、できることが限られていることはわかっています。センパイのような移動手段があるわけでも、お金がたくさんあるわけでもない。それでも私は、お父さんと最後に行った〈まほろば〉にもう一度行きたい。その場所を、私のカメラで撮って、もう一度お父さんに見せてあげたいんです。その場所には、お父さんにとって、それから私にとっても、必要なものがあると思うんです」
押さえ込むことができない情炎と入り交じり、焦燥のような気持ちが見え隠れしている。数える程度しか会話をしたことがない年下のクラスメイトの必死な様子に、混乱した頭が少しずつ平静を取り戻していく。
俺は、服を掴む少女の手をとんと叩く。
「……す、すいません」
花守は申し訳なさそうに謝りながら、俺から少し離れる。
よれた服を直しながら、口の端からわずかに息を漏らす。
「……あのな、俺の旅のことをどこまで知ってるのかはわからないけど、旅に出れば、今回の夏休み、最低でも一ヶ月は帰らない。食べるものだけでもかなりお金はかかるし、ホテルや旅館とかの宿泊施設は使わず基本的に車中泊で生活してる。女の子には、とてもじゃないけど無理だ」
女の子の部分を少し強調して言う。
花守がわずかに怯んだように面をくらい、さっと頬に朱色が差す。
俺がホテルや旅館を使わない理由は、それだけが理由ではないが莫大なお金がかかるからだ。特に夏休みのような繁忙期は、どこの宿泊施設も価格が高くなる。一ヶ月も泊まれば宿泊費だけで軽く六桁の大台を飛び越える。つまり本気で俺と旅をしようとすれば、普通車といえど狭い密室に、俺と花守という異性が一緒に寝ることになってしまう。
それがどんな危険と可能性を孕んでいるか、花守とてわからない年齢ではない。
その意味だけを伝え、掘り下げる前に他の懸念を向ける。
「大体、家の人は花守がやろうとしていることを許してくれているのか?」
気まずくなりかけていた空気を振り払うように首を振り、花守は笑顔を作って大きく頷く。
「大丈夫です。友だちと夏休み使って旅行に行ってくるってことで、了解もらってます」
マジかよ……大丈夫じゃないぞ家族よ……。
といっても、俺にも車での一人旅を容認する保護者がいるので全否定もできないが。
「一ヶ月近く戻らないことも、しゃ、車中泊のこともすべて覚悟の上です。センパイの手帳を見て、必要なものはすべて鞄に入れています」
一体なんの覚悟をしているのか甚だ疑問だが、あくまでも引く様子はない。折れることのない日本刀のような意志を持って、花守はもう一度言う。
「お願いします。私はセンパイの旅に連れていってください」
絶対に引かないと決めているような強い言葉。なにも考えていないような無鉄砲さは感じない。
俺の手帳を拾い、旅支度まで済ませる間に、十分に考える時間はあったはずだ。
考えた上で、花守はここにいる。きっと、あらゆることを覚悟した上で。
正気の沙汰ではない。
異性と二人の旅。
冗談でも笑い話でもないことが、十二分に起こりうる。
ただ、花守の心の奥底に、抑えきれないなにか、願いだけでは片付けられないものがあるだろうことはわかる。俺自身が、そうであろうように。
だとしても――
「それでも、ダメだ」
短く言い放った言葉に、花守はびくりと肩を震わせる。
今日何度目になるかもわからない嘆息を落としながら、俺は目を閉じる。
「俺たちの意志や気持ちがどうとかってだけじゃない。世間的な問題として、特に仲がいいわけでもないクラスメイト二人が、一緒に一月も旅をするなんて異常だ。まともじゃない。高校生といっても男女ならなおさらな。職質でもされれば一発でアウト。家や学校に連絡が行って確実に騒ぎになる。俺が大丈夫なのは、一人だからなのと、年齢だけ見れば高校生だとわからないからだ」
今は問題を起こしていないから、父親も学校も俺の旅に直接干渉はしない。しかし、クラスメイトの女の子を連れ回していたとなれば、たとえ女の子側が同意していたとしても間違いなく問題になる。
そして最悪、俺はもう旅に出られなくなるだろう。
だから俺は、悪辣かつ下劣な方法になるが、花守が拒まざるを得ない要求をする。
「もし俺と旅に出たいなら、行きたいなら、とりあえず俺と付き合ってもらうことになる」
「……え?」
予想通り、花守がきょとんと目を点にして、ぽかんと口を開ける。
「彼氏彼女なら、一緒に旅行していても不思議じゃないからな。まあ問題がないわけではないけど、たいていのことは誤魔化せる」
花守は目をぱちぱちとさせたあと、顔を真っ赤にして俺から視線をそらした。
罪悪感を覚えないわけではないが、ここは年上の男として、きっぱり断らせてもらう。
「俺と花守が付き合うなら、考えないでもない。さあ、どうするんだ?」
心は痛むが、精一杯悪役っぽく聞いてみる。
「……いいですよ、もう」
ぽつりと、諦めるように、顔を赤くしたまま呟いた。
心の中に、安堵が落ちた。
「ああ、そうだろうな。恋人になるってことだ。そうだろ嫌だろう」
「だから、いいですって」
俺の言葉にかぶせるように、口を尖らせながら花守は言う。
勝った。意志は強かろうが、確固とした願いがあろうが、女の子は女の子。
下劣な俺の敵ではない。
「恋人になっても、いいですよ」
「そりゃあ嫌だよな。恋人になれば、触り放題キスし放題やりたい放題……って、ああ!? いいってなにが!?」
あれっ!? 話かみ合ってる!?
我に返り、花守の顔をのぞき込む。会話の内容が恥ずかしかったのか、俺に近くからのぞき込まれるのが耐えらなかったのか、花守は目をそらす。
頬を熟しすぎたリンゴのように赤く染めながら、胸の前で指をもじもじと踊らせる。
「だから、広瀬センパイと付き合って、恋人になってもいいって言ってるんです、うん。私、彼氏とかいないですし、いたこともないですし。たしかに、高校生のクラスメイトの友だちが、二人きりで旅行するっておかしいですもんね」
今度は俺が口をぽかんと開ける番だった。
とんでもなく馬鹿げたことを頼んできているくせに、そんなところだけ常識的に思考されても困る。
それでも花守はしばらく頑張って思考しており、えーとえーと、うんうん、などの言葉を繰り返し、やがて頷いた。
「そ、そうですね。それでいい、じゃなくて、それがいいですね。連れていっていただくにしても、私、お金もあまりないので……お礼とかもあまりできないので、その代わりに……」
低い位置から上目遣いに、花守は恥ずかしげに口を開く。
「だ、だからだから、センパイがしたいんだったら、その、お触り、とか、キスとか、そ、それ以上のことをしろっていうなら……」
ぶちぃっ、と頭でなにかが切れた。
「女の子が軽々しくそんなこと言ってんじゃねぇ! はっ倒すぞ!」
声を張り上げ怒鳴りつける。
花守は大慌てでピンと体を正した。
「は、はいぃっすいませんっ……?」
あれ、今なんで私怒られたの……? いや、怒られても仕方がないかもだけど……?
みたいな呟きは無視する。
「ああっ、くそっ……」
悪態と苛立ちを落としながら、目にかかる少し長い髪をぐしゃぐしゃと握る。
途端に不機嫌さを滲ませる俺に、花守は途端におろおろし始めた。取り繕おうと手や口を忙しなく動かそうとしているが、結果行動にはならずに空回りをしている。
普段は正の感情を寄せ集めたような性格。それなのに、小動物のようにそわそわしたり、かと思えばこちらが気圧されるほど真っ直ぐ視線を向けたり。感情の浮き沈みが激しい不思議な少女。
「ったく……」
その姿に、俺はもう一度やるせなさとともに苦い感情を吐き出し、首を振って車に向ける。
「家に送る。乗れ」
花守は大きく目を見開き、そして唇を震わせたあと、瞳を濡らして俯いた。
トラベルバッグはこちらで預かり、後部座席に置く。
肩を落として消沈する花守は助手席に座らせる。手荷物である青いボストンバッグといつも持ち歩いているカメラは大事そうに抱えている。残念とか、悔しいとか、そんなありきたりな感情ではない、なにか大きなものも、一緒に抱えて。
運転席に乗り込み、シートベルトをかける。
ブレーキを踏んでプッシュスタートのボタンを押す。ハイブリッド車特有の軽い振動とともにエンジンがかかり、液晶モニターやカーナビが起動する。毎日やっている、もう慣れて久しい動作だ。ギアをドライブに入れ、アクセルを踏む。
緩やかに車が進み始め、左右を確認しながら車庫の外に車を出す。背後で自動シャッターが降りていく。
そしていつも通り、住宅街の間をゆっくりと黒の車を走らせる。
ちらりと、助手席に視線を向ける。
「……興味本位で、聞かせてもらうんだけど」
助手席に座り俯いていた花守が、顔を少しだけ上げてこちらを見やる。
「最後にお父さんといった場所、〈まほろば〉は、どんな場所だったんだ? どんなところか、どんな景色だったのか、まったく覚えていないわけじゃないんだろ?」
花守は再び俯くが、こくりと頷いて少しだけ口元を緩めた。
「自然の、場所だったとは思うんです。見晴らしがいい、自然の場所。綺麗で、すごい開放感で、世界にこんな場所があるんだって、嬉しくなったんです。それくらいは覚えているんですけど、どこか詳しい場所までは……」
〈まほろば〉の話をする花守は、いつもの元気はないが、どことなく楽しげだ。
俺は内心小さくため息を漏らしながら、花守の家の場所を聞く前に、ウインカーを入れる。
「……少しだけ寄り道する。時間はあるか?」
「え……?」
視線を前に向けたまま運転を続けていると、花守がぱあっと表情を明るくした。
「はい! 大丈夫です!」
快活な返事をしながら、かちゃっと自らのシートベルトを締めた。
青色の絵の具で空一面を塗りつぶしたような、どこまでも青い空の下に車を走らせる。
岡山の市街地から少しずつ離れていき、岡山市北側にある山間部を通り抜けていく。初心者マークを外してからまだ一年とたってないが、相当な距離を走ってきた俺の運転は比較的評判がいい。
俺は口を開かず、静かに運転をしていく。
花守は車に乗る機会自体が少ないのか、興味津々といった様子で窓の外の何気ない景色に視線を向けていた。頭のねじが緩んでいる変人同士の歪な取り合わせといえど、意外にも嫌な空気にはならなかった。
夕方に差し掛かり、車が一台通ればそれだけで道幅がいっぱいになるほど、狭い道に入った。対向車が来ようものなら、すれ違う場所を探すことに苦労するほどの道だ。大雨や暴風の影響を受けやすい山道で、ここに来る度に、折れて落ちてきた木の枝や山肌から転げ落ちてきた石などが散乱している。まともな人間なら通りたがらない雑然とした道を、俺には慣れたことなのでひたすら上っていく。
やがて、視界が開けた場所にたどり着いた。停車させ、エンジンを切り、俺は運転席から降りる。
続いて花守も、たどたどしく助手席から降りてきた。遙か遠くから訪れる強い風が山肌を撫で下ろし、花守はなびく黒髪を手で押さえた。
到着した場所は、小さな展望台である。車が数台停められる程度の狭い駐車スペース。簡易的なトイレが一つ、それから屋根付きのベンチが備え付けられた、公園のような場所である。
誰もいないベンチの間を抜け、俺はその先に進み出る。
花守も俺の隣に、それが見える場所にやってきた。
そして、息をのんだ。
時刻は、夏の夕暮れ。視界一面、見渡す限り広がっているのは、岡山県から北、鳥取県まで続く広大な山並みだ。先ほどまで青々としていた空は、その日の終わりを告げるように黄昏色に染まっている。俺たちの正面では、世界を照らし出す爛々と輝く太陽が、いつもなら緑輝く世界に暖かな緋色を落としている。
標高およそ七〇〇メートル、岡山県高梁市と吉備中央町の境に位置する、大平山。ここは大平山山峰から世界を一望できる展望スポット、【
「……」
花守は口を開くことなく、展望台からの景色にカメラを向けて、シャッターを切った。
茫然と、それでいて恍惚といた表情で、その景色を眺めている。その様子から、ここが探している〈まほろば〉ではないだろうことはわかった。しかしそれでも、目の前に広がる非日常な景色に心を動かされ、目を輝かせている。
これまで何度も見てきた、【大平山展望台】からの景色に目を向けたまま、俺はため息を落とす。
「俺が見せられるのは、こんな景色だけだよ」
ほとんどの人にとって、なんの価値もなく、心が動くことも、意味もない場所。得られるものがあるわけでもなく、ないからといって不利益を被るわけでもない。
だけど、俺みたいな異端な人種にとって、生きていく上でなくてはならない景色。どうしようもなく当たり前に、手が届かないほど途方もなく、果てしなく素晴らしい情景。
こんな景色を、〈まほろば〉というのだろう。
道中、ここに来るまでの間に決めた意志とともに、拳を握りしめる。
「さっきは冗談で、一緒に旅をするなら恋人になってくれって言ったんだ。お前の覚悟も考えず、適当なこと言って悪かった」
俺が謝罪の言葉を向けると、花守は目をぱちぱちとさせて驚きを露わにしている。
「だけど、一月以上も旅をする上で、気がかりな問題は解消しておくべきだ。もし一緒に行くなら、なにかと言い訳に使えるように、付き合っていた方がいいと思うんだ。それで、俺みたいなやつと付き合うことになるんだとしても、本当にいいのか?」
「もちろんです」
悩むそぶりさえなく、花守は一言で言い切った。
穏やかで嬉しそうな笑みを浮かべたまま、俺に意志を伝えるように、真っ直ぐ視線を向けてくる。
俺はもう一度、熱のこもった息を落とす。
「正直、花守の行きたい〈まほろば〉がどこかわからない以上、その場所に、思い出の〈まほろば〉にたどり着ける可能性なんてほとんどない。そうなれば当然、なにも得られない、無駄で無為な時間を吐き出すことになる。俺みたいなやつと付き合って、旅をして、不快で辛い思いをさせることもいっぱいあるだろう。それでも、花守が……」
その先を紡いでいいものか、迷い、俺の言葉は夏の風に飲み込まれる。
「行きたいです」
花守は、変わらず意志を示す。
再び【大平山展望台】からの光景に目を向け、そして笑う。
「それでも、行きたい。お父さんと行った〈まほろば〉に、私は行かなきゃいけないんです」
真摯な言葉。俺や他人の言葉や意見では、決して変わることなどない感情が込められていた。
どこか、自分に通ずるものがある気がした。
一つ笑みを落とす。
「俺は、
「私は、
一度も正面から自己紹介などしたことがない相手同士、お互い改めて名乗る。
「これから付き合うことになるんだ。俺のことは渉瑠って呼んでくれていい」
「私も、晴礼で大丈夫です」
言葉を交わしながら、俺は改めて自分の心の内を探る。正直、自分でも馬鹿げたことをしようしている自覚はある。本来やってはいけないことであることもわかっている。
だがそれでも俺は、この少女の行く先に、旅路の果てに、少しだけ興味がわいた。
俺は笑みを浮かべて少女に向かい、少女も同じように笑った。
年下のクラスメイトに向けて、手を差し出す。自ら忌避している行為でありながら、つながりと罪を示す手を、差し伸べる。
戸惑うことなく、少女が俺の手を握った。
「晴礼、俺がお前を、このあてなき旅に連れていく」
「はい、渉瑠センパイ。私を、私の行きたい〈まほろば〉まで、連れていってください」
神秘的な緋色に囲まれた山嶺で、俺たち二人が交わした約束。
この世界のどこかにある、〈まほろば〉を探す旅が始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます