夢見る幼馴染み -1-


 一般に、湖を始めたとした淡水、池や沼などは海と違って体が浮かない。


 海には塩など多くのものが溶けており、人の体より比重が大きい。しかし湖は塩などの不純物が少ないため、人の体の方が比重が大きくなるか、それほど変わらないか、まあつまり海よりも体が沈みやすくなってしまう。

 また、湖は海や川に比べて流れが少ないため、湖沼底部では急激に温度が低下する。たとえば湖に落ちた場合、無理に体を動かそうとすれば足がつりやすくなり、おぼれる可能性も高まるわけだ。


 そんな理由も相まって、湖は海よりも危険だとされる。

 長時間水中にいれば酸素も足らなくなってき、次第に意識もなくなっていって、苦しいは苦しいけど十分死ねるとかなんとか。


 十分ってなんだよ。十分って。


 痛む胸を握りしめながら、今日も死を意識する。


    Θ    Θ    Θ


 年下のクラスメイトとの旅が始まって、一週間が経過した。


 夏休みの何回目にもなる朝を、俺は大湖のほとりにある駐車場で迎えていた。

 滋賀県にある日本一広大な面積を誇る湖、【琵琶湖びわこ】。兵庫県にある淡路島がすっぽり収まるほどの面積を持つその湖の景色は、さながら海を見ているかのような錯覚に陥る。


 俺は他の利用者の邪魔にならないように、駐車場の隅に停めたプリウスの隣にアウトドアローチェアを広げて休んでいた。もっとも夏休みといえど、この駐車場を利用してるのは俺たちだけだったが。


 涼しい湖風を薄手の体に受けながら、小説のページをまためくる。一向に眠たくも重たくもならない目頭を軽くつまんでほぐし、長々と息を吐き出す。

 日が登ってからしばらくたったころ、プリウスの助手席の扉が開いた。のそのそと寝ぼけた体を引きずるように、眠り姫が降りてきた。目元を腕でごしごしと擦りながら、大きくあくびを漏らす。


「おやすみなさーい……」


「いや寝るな。起きろ」


 寝起きで頭が回っていないのか、うろんな眼差しでふらふら歩く晴礼は、湖を前に大きく体を伸ばした。


「ふぁぁぁぁ、センパイは、いつも通りですね本当に。なんでそんなに元気なんですかぁ」


「俺は慣れてるからな。車の長旅って、乗ってるだけでも結構疲れるもんだろ」


 同じ姿勢で適度な振動がある車の旅は、どうしようもなく睡魔に誘われ、疲れがたまる。晴礼も見るからに疲労の色が濃い。この一週間、ひたすら車中泊だけで旅を続けているのだ。晴礼の体力を気遣って多めに休憩は入れているが、それでも疲労困憊といった様子。


「そんなに疲れてるんなら、旅館でもホテルにでも泊まればいいって言ってるだろ」


「……だって、私が宿泊施設に泊まっても、センパイはどこかの駐車場で寝るんですよね?」


「まあな」


「……私に食事代や温泉代すら払わせてくれないし、宿泊費も払わせてくれないんですよね?」


「甲斐性なしだから、彼女のお金くらい俺が払う」


「そんな条件で私だけどこかに泊まるなんてできるわけないじゃないですかあああああ!」


 母なる【琵琶湖】に向けて一叫。


「やめろ。近所迷惑だ」


 幸い近くには他の車はないし近隣に住宅や人気もないが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。

 それより、と晴礼が口を尖らせて責めるような視線を向けてきた。


「というか、どうしてセンパイ、車で寝ないんですか? 私だけ眠って、心苦しいんですが」


「……俺は、お前より疲れてないから大丈夫」


 どうしてもなにも、年頃の男女が車という狭い密接された空間で、そう簡単に眠れるわけがないだろう。


 二人がプリウス車内で眠る場合、運転席と助手席を後ろに倒して眠ることになる。座席での車中泊は初めこそ寝苦しいと感じることもあるが、慣れてしまえば結構快適だったりする。

 軽四などのコンパクトな車に比べれば、普通車であるプリウスの車内はそこそこの広さ。とはいっても、寝ることを目的として作られているわけではない。運転席と助手席の間に、それほどスペースがあるわけではないのだ。ぶっちゃけ、少し身じろぎをすれば肌が触れ合ってしまう程度には近い。近いのだ。


 初日も湊川さんを送ったあと、すぐに車で休むことになった。おやすみと声をかけて、一分もせずに助手席から聞こえてきた艶っぽい寝息。ふと横に視線を流すと、息がかかるほど近くにある年下クラスメイトの寝顔。俺は速攻でギブアップ。車の外へと逃げ出した。危機感なさ過ぎて腹が立つレベル。


 それから毎日、車の寝床は晴礼に譲り、俺は車の外でローチェアを広げて休んでいる。幸いこれまで雨は降っておらず気候も安定しているので、冷たい思いもしていない。


「俺は元々睡眠時間が短いんだ。そんな心配無用無用」


 そう言って話を切り上げると、ローチェアをたたんでトランクの隅に運び込む。

 むぅーっと不満げに口を膨らませながらも、晴礼は【琵琶湖】の水面にカメラを向けていた。


 これまでの一週間、既に数十にもなる観光名所を巡っている。しかし、晴礼が過去に訪れた〈まほろば〉にはたどり着けていない。それでも、カメラを下ろして【琵琶湖】を眺める晴礼の表情は穏やかだった。


 晴礼は目的の〈まほろば〉を見つけられないことを悲観しない。

 大きなお寺、神社、お城、大自然の名勝や芸術的な建造物。もちろん、そう簡単に見つかることはないと重々理解していることもあるのだろう。だけどそれよりも、純粋に新しい景色、〈まほろば〉と出会うことが楽しいようだった。様々な〈まほろば〉を前に、小さな子どもようにはしゃいで目の前の心を動かしている。


 目指すべき場所は一つの〈まほろば〉であっても、素晴らしい場所はもっともっと世界に広がっている。


「今日はこれまでより走るぞ。プリウスのメンテもかねて、昔なじみの知り合いを訪ねる」


「わかりました」


 晴礼は駐車場に備え付けられていた公共トイレで素早く身支度を済ませに走っていった。一週間もすれば慣れたものだ。


    Θ    Θ    Θ


 【琵琶湖】から休憩も挟みながら、数時間車を走らせていく。


 道中、給油ランプが点灯したので、セルフガソリンスタンドに寄って給油することにした。

 プリウスは一般に多く流通している車の中でも、かなり燃費がいい車種だ。一度満タンまで給油すれば、千キロ近く走ることができる。俺のあてなき旅に、プリウスは打って付けの車である。トヨタさん、ありがとうございます。

 ガソリンを給油し始めると、給油量と金額のメーターが上昇していく。


「渉瑠センパイの家って、もしかしてお金持ちなんですか?」


 助手席の窓から顔をのぞかせた晴礼が、上昇していく給油金額を見ながら言った。


「どこをどう見てそう思った?」


「だって、留年してるからって高校生なのにプリウスみたいな車を持っているじゃないですか。温泉に入ったり、なにかを食べたりするお金も、全部センパイが出してくれてますし、ガソリンも気にせずに入れてますし。もしかして、すっごいお金持ちの家なのかなって」


 メーターの数字が上がっていくのを眺めたまま、俺は曖昧な言葉を漏らす。


「プリウスは、っていうか車は子どものころからずっとほしかったからな。こつこつお金を貯めて、一年生からバイトもたくさんしたな。温泉や飯代もそんな感じ。でもガソリンに関しては、ガソリンなら好きなだけ入れてもいいって、父さんからカードを渡されてるんだ」


 いつも使っているカードを見せる。俺のために父さんが作ったクレジットカードだ。


「渉瑠センパイのお父さんは、渉瑠センパイの旅を応援してくださってるんですね」


「たまに微妙な顔されるけどな。それでも、探すものが見つかるまで旅をしてみればいいって、応援してくれてるよ」


「……センパイが探すもの?」


 尋ねられると同時に、ガソリンタンクが一杯になって給油が終わった。

 ノズルを計量器に戻し、出てきたレシートを受け取る。


「さて、またひとっ走りするぞ。トイレ行きたければ、今のうちに行っとけよ」


「あ、はい。行ってきます行ってきます」


 晴礼は慌てて車から降りて、トイレがある店内へと向かっていく。

 途中こちらを振り返り視線を向けてきていたが、俺は努めて気がつかない振りをした。


    Θ    Θ    Θ


 目的の場所である三重県に到着したころにはもうお昼を回っていた。

 朝食は遅めのファストフードですませていたので、今日の昼食はいいだろうと、そのままで目的の場所に向かう。


 訪れたのは三重県津市の外れにある、自動車整備工場。自動車の販売からその後のサポート、保険やレンタカーなどなど、自動車関係のサービスを手広く行っている店だ。元々は仲間内で始めた小さな整備工場だったのだが、親身な相談とその上無理のない提案が人気になって瞬く間に大きくなった。

 店舗正面に備え付けられているお客様専用駐車場に車を停める。他にも何台か車が停まっており、今日も忙しく仕事をしているようだ。


 プリウスから降りると、近くにいた若い整備士がすぐに駆け寄ってきた。


「広瀬さん! お久しぶりです!」


「お久しぶりです。またお世話になります。申し訳ないんですけど、あいつはいますか?」


「はい! すぐに呼んできます!」


 快活にそう言い残し、元気いっぱいな若い整備士は店内に戻っていった。

 助手席から降りた晴礼は、ほぇーと声を漏らしながら、興味深そうに工場を見渡していた。聞けば、こういった車関係のお店に来ること自体が初めてらしい。


 わかる。わかるぞその気持ち。自動車店初来店の感動がわかるとは、なかなかやるではないか。見所があるぞ。


「おいーす……」


 感心しながら晴礼を眺めていると、軽薄そうな声が響いた。


 声の主に目を向けた晴礼が、うっと声を詰まらせる。

 ワックスでかちかちに固められた明るい茶髪。耳には小さなピアス。安全のためか、非常に目立つオレンジ色のつなぎ。職業柄、体のあちこちを油とすすに汚し、つんと鼻を差す臭いを発している。


 チャラい。一般的な人間が受ける第一印象はそれである。しかし、俺は長い付き合いだ。今更感じる印象はいくつもない。


「よぉ、またプリウス見てくれよ」


 昼を過ぎたばかりで眠たいのか、長い茶髪をぽりぽりと掻きながらうろんな瞳がこちらに向く。


「ああ、わかって――」


 その視線が横に動き、助手席側に立っている晴礼で止まった。


「こ、こんにちは」


 晴礼はやや緊張し、びくびくしながらもぺこりと頭を下げる。

 ぎぎぎと音がしそうな潤滑油が足りていない動きで、茶髪頭の視線が再びこちらを向く。


「あ、あの、渉瑠さん、こちらの方は?」


「ああー……」


 なんと答えようか迷う。付き合いが長いだけに悩む。

 だが、俺と晴礼の関係は、嘘偽りなくとお互い決めている。仕方なく、答えた。


「ああ、あれだあれ。うん、平たくいうところの、彼女?」


「そっか。ああ、うん、彼女ね。彼女」


 茶髪頭は一人でうんうんと首を振る。


「ちょっと、待っててくれ」


 俺と晴礼を残し、茶髪頭をくるりと体を回転させ、店内へと帰っていく。俺たちが顔を見合わせて首を傾げていると、茶髪頭が店内から走って戻ってきた。

 その手には野球のバッドくらい大きな、ギャグかよと思うような、巨大なスパナが握られていた。


「――こっんの裏切り者があああああ!」


 巨大スパナを高々と振り上げ、茶髪頭が殴りかかってくる。


「どわああああッ! なにすんだてめぇ!」


 大きく飛び退いて振り下ろされるスパナを回避するが、茶髪頭の猛攻は止まらない。


「だまれぇえい! 俺が汗水垂らしてすすにまみれて仕事をしているときに、貴様は優雅に彼女と旅行かこんちくしょう! 留年野郎が調子に乗ってんじゃねぇ!」


 駄々っ子のようにスパナを振り回す姿はバカそのものだが、握られているものが明らかな凶器で笑えない。


「な、なにバカなこと言ってんだ! 男子校なんて嫌だつって中退して、勝手に就職したのはお前だろうが! 中学で勉強しなかった報いだろ!」


「勉強なんてやってられるか! 俺は好きなことだけやって生きていくんだああああ!」


 猛攻の末、振り下ろされた巨大スパナが俺の服をかすめてアスファルトに打ち付けられる。衝撃が腕に伝わっていき、茶髪頭は体を震わせて涙目になった。

 その隙に、俺は鬱陶しい茶髪頭に腕を回して締め上げる。


「久しぶりなのにずいぶんなご挨拶じゃねぇかよこの野郎……っ」


「う、うるせぇ! むさ苦しい男所帯で働いている俺たちの気持ちがお前にわかんのか!」


「今はまだそんな経験をするつもりはない。大体お前にはかわいい妹がいるだろ!」


「妹がこの汗臭い工場の清涼剤になるわけねぇだろ! 女の子が必要なんだよ!」


 いったい女の子になにを求めているんだこいつは……。


「え、えっと……あのぉ……」


 プリウスの陰に隠れながら、晴礼がおっかなびっくりこちらをのぞいている。

 それに気がつくと、茶髪頭は俺を突き飛ばしてすまし顔を浮かべてみせる。


「申し訳ない。取り乱してしまった」


 ぐしゃぐしゃになった頭と服を整え始める茶髪頭を余所に、俺も服に付いた汚れを払う。


「悪いな、バカなところ見せて。こいつは鈴鹿大地すずかだいち。元々は岡山に住んでいた、まあ俺の幼なじみってやつだ。大地。こっちは花守晴礼。俺の今のクラスメイトで、一応……俺の彼女……?」


「……さっきからなんで疑問系なんですか」


 晴礼からぼそりとツッコミが入る。


 見ず知らずの人ならいざ知らず、幼なじみに告げるには十分恥ずかしいので許してほしい。なんならすべて暴露して楽になりたいくらい。そんなことしないけど。


 取り直した大地は、俺と晴礼を交互に見やってにやにやと笑った。


「ふーん、お前みたいな朴念仁に彼女ねぇ……。しかもずいぶんかわいい子だな。かわいそうに」


「どういう意味だこの野郎」


「いーやべっつにー」


 くつくつと含みのある笑みを浮かべ、面白がるように俺の顔をじろじろと見る。

 そして鼻を鳴らすと、こつんと俺のプリウスを叩いた。


「来てもらったところ悪いが、今日はこれから予約で一杯なんだ。プリウス見るのに時間がかかるぞ」


 忙しいのに無駄な茶番入れてんじゃねぇよ。


「いつも連絡入れてから来いって言ってんのに」


「別に俺の車のメンテなんていつでもいいんだ。必要なお客さんを優先させろよ」


「相変わらずマイペースだなお前」


 小さく肩をすくめて笑いながら、大地は工場の入り口付近にある大きな掛け時計に目を向ける。


「とりあえず俺の家に行ってろよ。あいつも今日は家にいるって言ってたから。帰りに肉買って帰るから、夜は家で焼き肉な」


「おお、いいな焼き肉。それとついでに泊めてくれ。車は明日でいいから」


「……なんだ、今日はずいぶんずうずうしいな。まあいいけど。えっと、花守さんだっけ? は、あいつの部屋で大丈夫か」


 よし、宿確保。


「え、ええ? わ、私まで泊まって大丈夫なんですか?」


「俺が大地の家に泊まっている間に、お前はどこで寝るつもりだ?」


「……渉瑠センパイの車?」


「そんなの彼氏として認めません」


 突然、大地が背中を蹴ってきた。


「いってぇな、なんだよ」


「いちゃついてんじゃねぇよリア充が……。あ、そうだ」


 なにか思い出したように、大地は油で黒く汚れた手を打った。


「今回のメンテ代も焼き肉代も俺が持ってやる。その代わり、一つ頼みを聞いてくれよ」


「頼み?」


 普段は欲望のままに生きている大地だが、今は珍しく困ったように眉根を寄せていた。


「今のお前とクラスメイトなら、花守ちゃんは今年二年、あいつと同い年だろ? あいつ、最近なんか悩みがあるみたいなんだ。二人であいつの相談に乗ってやってくれよ」

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