朽木深夜と弟の透の話

筆先に纏った油絵具は予定していた筈の量より少し多かったが、気にせずに未だ乾ききらない箇所に塗り重ねていく。カンバスに乗っかるオリエンタルブルーがローズコバルトバイオレットと混ざりきってしまう前に手を止めた。部屋のドアが空いた気配がする。先程、ご機嫌取りのように買い物を頼まれてくれた透は気を遣ってあまり音を立てずに動こうとしているらしい。

「買ってきたよ、兄ちゃん、これで良いんだよね?」

出来る弟を自称する透の手に収まっている瓶のラベルを視界に収めて確認する。黒い文字でペトロールと印刷されたラベルに頷く。わざわざ確認しなくとも間違えた物を買ってくるとは思ってないけれど、そうしたのは透に「もっと良く見てよ」と言われない為である。


「驚いた、画溶液だけでも沢山の種類があるんだね」

「色の時も驚いていたよな、青だけでこんなに沢山あるのか!って、赤に関してはバーミリオンの値段に凄くびっくりしてたし」

僕の返答に透はマスクを顎にズラしてホッとしたように息を吐いた。話しかけても大丈夫だと判断した透は意外とお喋りなのだ。


「画材って高いよね、兄ちゃんが組み立てる所を見るまでカンバスを貼るのにトンカチが必要とか知らなかったよ」

白い小皿の横に置かれていた油絵具のチューブを手にして「兄ちゃんは凄いなあ」と何の気なしに呟いた透の口の端は上がり、目は輝いている。絵しか描けない僕とは違って透は器用だ。筆を持った透があっという間に僕を越えて一枚数千万円の絵画を描く姿が容易に想像できてしまった。

「お前もやってみたら良いんじゃないか?」

「ジョーダン、オレは兄ちゃんみたいに才能無いし」

自身の台詞にうんうんと相槌を打つ透。僕は汚れた筆を銀色の筆洗器に突き刺しながら眉間に皺を寄せた。


「簡単に才能って言われると努力してないみたいでなんか嫌だな……」

「ははっ、兄ちゃんは努力家だもんね、青いリンゴに、紫のうさぎ、オレでもわかるよ、今描いてるのも綺麗な絵だね、兄ちゃんには世界はこんな風に見えてるんだ」

いつの間にか背後に移動した透は、パイプ椅子に座っている僕の肩に顎を乗せて臍の上辺りに左腕を回しながらカンバスを覗き込んできた。透の右手の指先が僕の顎にゆっくりと滑る。甘えたいのか、猫のように擦り寄ってくる透の髪が首に触れてくすぐったい。


「ん、くくっ」

「……寝てないって顔してる」

「そうでもないと思うがなあ」

「兄ちゃんのそうでもないは信用出来ないからね」

昨夜、透につけられたキスマークを隠す為に貼られた絆創膏を爪でカリカリと引っ掻かれる。確かに今朝は顔を洗う時、普段よりどんよりして見えたのは隈が濃かったせいなのかもしれない。しかし、透は僕の身体を気遣っているというよりは恐らく小言が言いたいだけなのだろう。寝てないのは透も同じなはずだけどな。無視をして筆を進めようとすると、ちくりと鈍い痛みが走って舌がそこを舐めた。嗚呼、また絆創膏を貼らないといけない。


透は僕が現役時代に猛勉強をしてカミナリに撃たれても到底入れそうもない私立高校に通っている。いつも教科書の薄いページを捲っている指は白く長い。短めに整えられた爪が透の清潔感を漂わせていた。顔を動かせば、伏せられた睫毛に通った鼻筋が瞳に映る。僕の視線に気づいたのか、見返されるエメラルドグリーン。

「人物モデルでもやるか?」


鳩が豆鉄砲を食らったみたいだ。あんぐりと開いた口にこういう表情をするのは珍しいな、と思った。

「……人間描くのは嫌いなんじゃないの?兄ちゃん珍しいね」

「なんとなく、お前なら描いてみたくなっただけだよ」

「もしかして、誘われてる?スキン買って来ようか?」

「違うけど、断ってくれても良いよ、無理強いはしない、別に良い、どちらでも」

いつも余裕綽々な透が珍しく年相応に幼い表情をしているのが可笑しくて、思わず笑みが零れる。カンバスを木製のイーゼルから下ろすと放心状態から回復した透は目を輝かせた。

「じゃ、じゃあ、描いてよ、兄ちゃんがオレをどう見てるのか興味ある」

「お前、口説いてるみたいだな」


▼ E N D

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