四季と由祈が中三くらいの時の話

潮のリズムと呼吸のリズムは同じで人間の体液の成分は海水の成分とほぼ同じだという。ならば、いっそ沈み続けて同化してしまえば良いのだ。水死体は醜いから嫌い。私の肉体も自我も記憶だって全てがモノクロの海流に呑まれてバラバラに溶けてしまえば良い。そして、いずれモノクロの海は大洪水になって世界中を洗い流し、方舟は嵐のために大波の上で弄ばれるのだ。


落ちかけの夕日は西の空だけ染めていて、東の空は既に紺色に染まっている。そんな今日の残り香を嗅ぎながら私は神園くんの隣を歩いた。電柱とすれ違う度、夕暮れに照らされて足元から蠢く黒い二つの影になんだかおかしな気分になる。そういえば、神園くんと一緒に帰り道を歩くなんて初めてかもしれない。神園くんは他人にあまり関心がないようで、友達はいるにはいるらしいが、クラスメイトの名前はいつだってうろ覚えだと話していた。沢山の人に囲まれながらも神園くんは自分の意思でやりたいことを優先している。その結果、他人から疎まれようが好かれようが気にしていないのだ。


「あの時、笑ってたのは何故ですか?」

声。いつもより低い声。硬い声だ。珍しいその声にビックリして足を止めた。思わず右肩に掛けたスクールバッグを両の手で握り締める。横を向くと見慣れたはずのルビーの瞳がこちらを睨んでいた。

「僕の見た限り、彼女が落ちた場所は飛んだ位置からズレてましたよ」

「神園くんも居たんだ、気づかなかったよ、手伝ってくれたら良かったのに」

僅かに毒を忍ばせた、私の明るい失望。なんちゃって。


「話をそらさないでください、ヘタしたら閑野さんも死んでましたよ、どうしてあんなに危ないことができたんですか、もしかしてまだ死にたいのか」

不機嫌をぶら下げた神園くんは私に向かってそう言い放つ。問いかけるような断定に私は何も返さなかった。今日の朝、私達の通っている中学校で女子生徒が飛び降り自殺未遂をした。野次馬と化した生徒達、焦りながらも真剣そうに馬鹿なことは辞めろと説得を試みる教師。塔屋の上で助けてくれなかった癖に!と喚いた女子生徒はクラスでいじめを受けていたらしい。


結果的に言えば、彼女の自殺が未遂で終わったのは私のせいだ。詳しい事情は分からないけれど、私は彼女を死なせないことにした。設置された梯子を使い塔屋に登って彼女の元へ行き、それらしい言葉を並べて引き止めたのだ。彼女と私は別クラスだったのもあって特に接点は無かったけれど。感情的になった彼女が後ずさり足を滑らせて屋上から転落しそうになった時、ザワつく野次馬と強く痛む頭を無視して私はその手首を掴んだ。コンクリートに胸をつけて、飛び出た右手で彼女を、左手で塔屋の端を掴んだ。


しかし非力な女子である私では右手一本で同級生を引き上げるのは到底不可能。パニックに陥っている教師は勿論、他の生徒は助けてくれそうにない。それでも彼女は空中に足を彷徨わせながら「たすけて」と涙を溢れさせる。私が右側に眼球を動かすと緑が生い茂る木が見えた。私は腕を揺らして、近くの木の方に放って彼女の手を離したのだ。落ちる瞬間の彼女の悲鳴にバキバキと木の枝が折れる音。スマートフォンを構える男子生徒に向かってカメラ部分を塞ぐように手を突き出して救急車を呼ぶように頼んだ。不幸中の幸いというべきか、木がクッションになって彼女は左足の骨が折れただけで命に別状はなかったそうだ。


「閑野さんが死んだら皆様悲しみますよ、そんなことも分からないんですか?」

「うん、ごめんね、あと理由はね、きっと言っても神園くんにはわかんないよ」

「……そうですか」

彼女を助けた理由は単純に先を越されるのがなんとなく癪だったから。別に善意とか同情そういったものでは無かった。神園くんには理解できない感情だろう。だから、今だって私は遠い銀河にある暗い海の中に取り残されたまま、ひとりで揺蕩っているのだ。創世記によれば、正しい人間であったノアとその家族や動物達は身勝手な神様が起こした大洪水を方舟でやり過ごしたという。彼らはみんなと一緒にいたからきっと孤独ではなかったのだろう。それはとても幸福なことだと思う。私は君とこんなに近くにいるのにいつだって孤独だった。


▼ E N D

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