中二由祈と小四澪

地球と月のあいだには引力が働いている。月の引力は海にも働くのだという。ならば、俺が月になって彼女をその深い海から引っ張り上げれば良いのだ。ただし、それは、そうすることが出来るのならというIF(もしも)の話だ。


ガチャッと白いドアが開いて、知らない女の人が出てくる。此処は大きな総合病院の一角で、姉ちゃん曰く、心の病気を見るところだという。そのせいか病院特有の消毒の匂いは薄い。目の前には何処かの国のカラフルな建物のポスターが貼ってあって、目玉を少し右に動かすと毛が長い猫の絵画が飾られていた。二日前、姉ちゃんは精神安定剤と睡眠薬の飲み過ぎで倒れたのだ。第一発見者は小学校から帰って来た俺。しかし、膝を抱えて額を床にべったりつけて蹲っていた姉ちゃんを見てからの記憶は曖昧で、気がついたら隣の家のお兄さんが居て俺の足はボロボロで姉ちゃんは担架で運ばれていったのだ。


後から聞いた話によるとパニックになった俺は「姉ちゃんが死んだ!」と大声で泣き叫びながら家の周りを裸足で何度も走り回っていたらしい。それに気がついた親切な隣の家の住人が何事かと思って俺の家まで来て救急車を呼んでくれたのだ。その時のことはあんまり覚えていないし、恥ずかしいので思い出したくないけれど。ただ一つハッキリと覚えているのは姉ちゃんの死体のように真っ白な顔で、今思い出しても血の気が引いた。冷たいフローリングで丸まって動かない姉ちゃんを見た時に俺の脳裏には母ちゃんのお葬式の光景が過ぎったのだ。


そんなこんなで電車に乗ってえんやこら。今日の俺は姉ちゃんの護衛である。姉ちゃんが突然死んだりしないように護るのが俺の役目である。だが、退屈である。俺は姉ちゃんの隣でスニーカーの踵を座っている黒いソファーに軽く打ち付けて暇を潰していた。

「こーら、澪君、大人しくしててね、足パタパタしないの」

「……へーい」

姉ちゃんは右耳にだけイヤフォンをして、眉を下げて俺に注意してきた。俺が黒いソファーへの攻撃をやめると姉ちゃんは困ったように笑って正面を向いた。尖るような顎先、色素の薄い髪は照明をはね散らして輝いて、姉ちゃんの横顔はまるで人形のように生気を感じないのだ。


俺はソファーから立ち上がって、待合室内に設置されている本棚の前にキュッキュッと音を立てながら近づいた。黄ばんだ白い本棚の中には数巻抜けた少年漫画や母ちゃんの世代であろう少女漫画、コミカルな豚のエッセイ、海外風景の写真集、ジャンルはバラバラ。共通点はどれも紙が日焼けしていて古いってことだ。しゃがんで本棚の一番下の段を覗くと子供向けの絵本が無造作に積まれている。俺はその隙間に斜めの状態で押し込まれていた小さな本を引き抜いた。タイトルを見れば『にんぎょひめ』という文字と黄色の長髪に貝殻のブラジャーとピンクの尾ひれの女の子が描かれている。


もし、姉ちゃんが俺と父ちゃんを捨てて魚の群れを駆け抜けて人魚と一緒に海底を走る水中列車に乗って何処かへ行ってしまったらどうしよう。誰も知らない秘密の場所で泡と化してしまった姉ちゃんを、果たして俺は見つけ出せるのだろうか。揺りかごに向けてふんわりと浮かべられた微笑みと握り返された暖かな手の感触をどうしてか覚えている気がした。産声を上げてこの世界に生を受けた時の『初めまして』を奇跡と言わずしてなんと言えば良いのだろうか。


そうだ、俺は自分の力で歩かなくてはいけない。俺と姉ちゃんには血の繋がりは無いけれど、だからなんだというのだろう。あの日、誘拐犯の血に塗れてボロボロの姿の姉ちゃんを見た時、その手を掴むことが出来なくても、その道を進んでいくと決めたのは自分だった。俺と姉ちゃんは家族なのだ。俺はどんな時でも姉ちゃんの味方で居ようと決めた。だから、どうか、泡になって消えないでと願わずにはいられないのだ。


▼ E N D

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