退院してしばらくしてからの話

海は棺だ。深い終わりのない世界の果ては沈んでしまったら二度と浮き上がれない。溺れてしまったらもう目覚めることはできない。血に塗れたその夢の中でようやく捕まえた××の手が離れていく。私は黙ったまま、ゆっくりと瞳を閉じた。


腹部に乗っかる重みでゆるゆると浮上する意識。相変わらずの頭痛をシカトしながら、顎を首につけると視界にお邪魔する焦げ茶な髪。私の弟である澪(れい)君は中々に寝相が悪いのだ。敷布団の上で首を動かして時計を見れば七時。ふむふむ、休日には少し早起きだけれど今日は澪君よりちょっぴり早く起きるのが目標だったので丁度いい感じである。二度寝する気も起きないので私のお腹を圧迫する澪君の身体をコロンと転がして退かした。澪君はこれくらいの衝撃では起きないのだ。私はこのまま洗面台に向かって顔を洗って歯を磨きに行った。


洗面所の鏡に映る姿に傷は見当たらない。退院してからはパジャマも私服もエブリデイ長袖長ズボンである。ええ、私も中々のブラコンであると自負しておりますとも。澪君の教育上宜しくないので肌は出さないのだ。あの男に付けられた傷跡とか火傷跡とか見られて『姉ちゃんキモイ!』なんて言われたらブラコンな姉は泣いてしまいます……冗談だけど。部屋に戻って着替えてからリビングに入るとベージュ色のエプロンを着た母さんがコーンスープを器によそっているところだった。

「おはよう由祈ちゃん」

「おはようございます、母さん」


朝の挨拶を済ませてから、もつれ気味の足取りでテーブルに近寄ると金色のパンが輝いている。あ、今日の朝ごはんってフレンチトーストなんだ。甘い物は好きである。これは本音。今度母さんに作り方を教えて貰おう。母さんの背後を通って戸棚から四つのマグカップを取り出して私は家族四人のそれぞれの好みにあった飲み物を入れて食卓に並べる。私と澪君は朝はいつだって牛乳と決めていて、父さんはココアで母さんは野菜ジュースだ。うちの家族は皆して苦いものが苦手なのであった。黒いリモコンを掴みテレビに電源を入れると、ありがちなテロップが大げさに流れる。今日もまた、どこかの街で殺人事件が起きたようだ。


私は椅子に座ってそのニュースをぼんやりと見つめた。人なんて毎日死ぬというのに、どうしてこんなに騒ぎ立てるのだろう。事件の被害者よりも身勝手な犯人よりも、私はそれを報道をする人間の方がよっぽど馬鹿らしくて恐ろしいモノに感じてしまう。それは蛆虫の群れに素足を突っ込んで深い傷口に集られる時よりも、嫌悪と悪寒に襲われるおぞましさがある。その気配に気がついたのか、母さんが私の手からリモコンを抜き取ってチャンネルを切り替えた。柔らかなクラシック音楽に思考が通常へと戻る。母さんは何も言わず、黙々とテーブルに朝食を並べていった。


心に大きく開いた穴だ。何者にも埋められない隙間。掬い上げた手からこぼれた分の雫を私達は決して救うことが出来ない。例え家族であろうとその深い溝を満たすことなどは不可能なことなのだ。あの凄惨な誘拐事件の関係者は修正不可能なズレた人生をいつまでも引き摺るしかないのかもしれない。理解できなくなってしまった『普通』に隷属しながら息をする。ぶつかりかけていた海底との距離は縮まらない。それはずっと沈み続けているからなのか、それとも停滞しているせいなのか。時計の針が左に回り出すことがないのならば、私の止まった時計はどうしたら良いのだろう。巻き戻ることも出来ず、正常に進むことを諦めた。あの日に握り締めた感触を忘れたいと願うのは冒涜である。しかし未だに受け入れがたいものなのだ。モノクロの海水で唇を動かすのはあまりにも億劫だ。だって私、塩辛いのは苦手な甘党だし。


▼ E N D

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