2020年の夏期休暇

 未来を放棄して、限られた夏期休暇に閉じめられたソラを、

 5年後の今も少しだけ羨ましく思い続けている。

 ボクは、ソラと過ごした半年にも満たない放課後を思い出しては、

 とうに解体作業の終わった旧宅から、

 彼のピアノが聴こえるような錯覚に陥る。


 曲の題名をボクは知らない。

 カタチ無き即興演奏だったのかもしれない。

 ソラは即興的な人生をまっとうした。

 あっさりとカタチを無くした。

 いけない。羨ましいだなんて思っては、いけないんだ。


「世の中には、生きたくても生きられない人が、いるんだから」


 何度も自分にい聞かせて、プラタナスの街路樹を往く。

 2020年、新型ウイルスが蔓延して、多くの尊い生命が奪われた。

 生命が尊いものだってこと、充分にわかっているから。


「おいでよ」


 呼ぶ声は、あの夏の日以来、聴こえなくて、

 ボクは少年時代の自分の名を忘れて彷徨さまよう。

 少年時代のボクが獲得できなかった夢。そのものが

 ソラだったなんてことも、忘れて彷徨さまよう。

 そうじゃなきゃ、生きられない。

 夏を越えて秋へ、冬へ、巡っていく季節をボクは、生きなければならない。


「なんのために?」


 問う声には、聴こえない振りをして、

 ボクは毎日をただ、生きていた。


 生き続けた果てには、

 閉ざした扉があると思うから、

 ボクは、いつも合鍵を手離さない。


「駄目だよ。こんなはずじゃない」


 早朝のプラタナスの街路樹が、一吹きの強風にあおられ、ざわめく。

 ボクは思わず耳を塞いで、その場に、うずくまったが飛ばされた。

 飛ばされた先は、とうに解体作業がおわったと思い込んでいたソラの旧宅の扉口とぐち

 手離さなかった合鍵が、ボクの手中にある。

 鍵孔かぎあなを探って、懐かしい部屋に入った。

 途端に、ボクの服装は、あの夏期休暇の日の私服に変わる。


 *☼*


 ボクの視界に、ソラの傷付いた手頸てくびが投げ出されていた。

 

「学校には、もう出てこないの? 明日から新学期だよ。

 これ以上、現実をだませないの、わかっているんでしょう?」

「明日は、登校するよ。だから早く眠る。ほんとうに、今日で、にする」


 ソラは、生きるために手頸てくびを切る。

 分かっていたはずのボクが、続けたかったセリフ。


にする必要ない。無理をして、にしなくて、いいんだよ」


 ソラがボクの名を呼ぶ。


「アキ」


 思い出した。ボクの名前はアキ。夏の向こうに巡る季節の名前。


だまだまし、やっていこう。新学期なんて関係ないさ。

 ソラはソラのペースで、生きていけば、いい。

 それは罪なことじゃないのだから」


 強風が吹きつけた。

 一吹きの風は、時間をつかさどる扉を開け放ち、ボクとソラをわかつ。


 *☼*


 スーツのポケットで合鍵が揺れた。

「おはよう、アキ」

 呼ぶ声がする。

「テレワーカーなのに、どうしたの? 朝から、こんなところで」

 散歩かい? ボクもだよ。奇遇だね。

 ボクの目の前に、ボクと同じ背の高さの青年が佇み、話している。

「ボクは夏期休暇中だよ。サボっているんじゃないんだから。

 アキ、仕事の休暇、ちゃんと取れている? ブラック企業じゃないよね」

 彼の左の手頸てくびには、血をにじませる繃帯ほうたいではなくて、

 黒いアームカバーがめられている。


「ちょっと遅れたけれどね、通信制の学校って楽しいものだよ。

 卒業には遠い。でも気にしない。あの夏のアキの言の葉をいだいて、

 ボクはボクのペースで進んでいるのさ。

 ゆっくり歩くって、罪じゃないよね」


 一吹きの風に乗った束の間の時間旅行の地で、ボクが言の葉をただした結果、

 ソラは生きた。

 2020年の夏に、ボクらは、たしかに生きている。


「ソラは綺麗だ」

「……もういちどって」

「夏の空が綺麗だ」

先刻さっきと違うじゃない」


 街路樹に、ボクらの影は濃く長く刻まれ、

 ボクの破れたポケットから合鍵が滑り落ちる。

 それはペーヴメントに落下して、あの夏の

 ナイフをとむらうかのようにはかない音を立てて割れた。


「新しい鍵を作っておくよ。

 またピアノを聴きに来て。

 少しは前進したんだから」


 ボクは、ソラの新居の鍵を受け取る約束をした。

 2020年の夏から秋へ、巡る冬へ、ボクらは着実に歩み出す。


「アキが好きだよ」

 と、屈託なくうキミの笑顔が、ボクの宝物だ。



               ―終―

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夏期休暇に閉じ籠められたキミを解放するボクの時間旅行 宵澤ひいな @yoizawa28-15

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